「そう言えば兄様、髪が随分伸びましたね?」 出し抜けな流琉の言葉に、北郷一刀は思わず目を瞬かせた。 「……そうかな?」 「うーん……確かにそうかもねー」 膝に座った季衣が、手を伸ばしてもみあげを引っ張ってくる。 痛くは無いが、こうも至近距離では流石に動き難かった。 「こら、引っ張るなよ季衣。……でも、そうか、確かにここ最近切ってなかったしな」 目元まで掛かった前髪に自分も指先を這わせながら、一刀はぽつりと呟いた。 「良い機会ですし、さっぱりしてきたらどうです?」 「ボクが切ってあげよっかー?」 「……いや、それは遠慮しとく」 「ふふふ……ほら季衣、兄様困ってるよ」 「ぶー、なんでよー」 四阿に三人の笑い声が弾ける。 とにもかくにも、平和な光景であった。 隻腕の御遣い 閑話 一 「にしても、髪ねぇ」 顎に手を這わせ、一刀は首を捻った。 劉備・呂布連合軍との戦いから早一ヶ月。 その渦中で華琳を庇い、その代償に左腕を失った一刀は、現在療養の真っ最中であった。 廊下を歩いていたところで、中庭に居た季衣と流琉にお茶に誘われたのがつい先刻。 暫しの歓談の後二人と別れ、行く先も決めぬまま考えていたのは、やはり先程の話題に出た自分の髪についてだった。 これまでに倣えば、市街の髪師にでも出向いて済ませるところなのだが――― 「………むぅ、困った」 生憎と、今の一刀はとある事情により数日前から城内謹慎中の身であり、暫くは外に出られない。 無論、城の中にもそうした職種の人間が居ない訳では無いが、つまりそれは、 (華琳とか他の重臣の専属だろ) という訳で、自分は歯牙無い警備隊長でしかないと思っている一刀としては、微妙に敷居が高く感じられるのである。 「さて、どうしたもんかな」 誰かに相談を持ち掛けようにも、そうそう都合良く相手が転がっている訳でも無い。 三部下は不甲斐ない隊長の分まで仕事に追われているし、他の面子も似たり寄ったりだろう。 (まさか季衣にやらせる訳にもいかんし……) それこそ取り返しの付かない事態になりかねない、と一刀は首を竦める。 中身の無い左袖を遊ばせながら当て所無く彷徨っていると、いつの間にか城壁まで出てきていた。 吹き抜ける風が、蒼い長衣をはためかせながら高みへと駆け上っていく。 「おおー……良い風だな」 右手で髪を押さえながら、一刀は眼下に広がる街並みに眼を浸す。 馴染んだ光景を目の前にすると、確かに此処に帰ってきたのだという実感が沸いた。 同時に、あの日喪ったものに対する思いを、苦さと共に飲み下す。 一刀は己の守るべき街の姿を、飽く事無く見つめ続けていた。 周囲には相変わらず風が主張を繰り返し、一刀の髪と言わず服と言わず掻き乱している。 そんな風の鳴き声に、ふと別の音が混じった。 「………北郷? おーい、北郷!」 「ん?」 背後からの声に振り向くと、見慣れた隻眼の女性と、その隣に立つ短髪の女性の姿があった。 「春蘭に秋蘭。どうしたんだ?」 「何だ、居て悪いのか!」 「姉者、落ち着け。……まあ、どちらかと言えばそれはこちらの台詞だな。こんな所で何をしている?」 両腕を組んで問い掛ける秋蘭に、一刀はほんの少し笑った。 「別に何も。考え事しながらぶらぶらしてたらここに出ただけさ」 「考え事?」 「ああ、これ」 一刀は自分の前髪を引っ張ってみせる。 「??」 「……ああ」 春蘭は首を捻っているが、万事に聡い秋蘭は理解した様だ。 「なるほど。確かに一時期に比べれば随分と伸びたからな」 「だろ? でも華琳から外出禁止令出ちまってるからなぁ………どうするかな、と」 姉妹に向き直り、壁に背を預けた一刀が天を仰いだ。 自由無き我が身を皮肉る様な澄み切った青空に、燦々と太陽が輝いている。 暫く無言の時が流れ―――唐突に秋蘭が口を開いた。 「そうだ。北郷、姉者に切って貰ったらどうだ」 「……何を? 頸?」 「髪だ」 「……………はい?」 「何だとぉ!?」 いきなりの提案に、一刀は眼を丸くして秋蘭を見返した。 話題に上がった春蘭もまた、大仰な反応で妹を見る。 「しゅ、秋蘭! いきなり何を…!」 「……何かおかしな事を言ったか?」 「いや、その前にさ………春蘭、髪切れるの?」 「貴様ぁ、何だその口ぶりは! まるで私が髪を切ろうとしたら間違って頸を斬りかねないとでも言いたげだな!」 「あー、うん。然程間違ってないけど」 「何だとぅ!」 「姉者、良いから落ち着け。……北郷、こう見えても姉者の手先が器用なのは知っているだろ?  以前見せた華琳さま人形、あれの手入れをしているのは姉者なのだぞ? 無論、御髪に関してもな」 「へぇ……いや、待て。あれ人形だから髪は伸びないだろ」 「伸びるぞ?」 「伸びるのかよ!? 何処の呪いの人形だよ!?」 「貴っ様ぁぁぁ!! 華琳さまの御尊体を象った人形が呪いだとぉぉぉぉぉ!?」 「だー! 秋蘭、何とかしてくれよ!」 「ふふふ……」 「いや笑ってないでさ!?」 「待てぇ北郷! 貴様に華琳さまの尊さ美しさ愛らしさを一から叩き込んでやるからそこに直れぇぇぇっ!!」 「やーめーろー!」 「………ふふふ、グッバイ俺の髪」 「何を訳の分からない事をブツブツ言っている! 斬るぞ!」 「春蘭、それ字が違うだろ」 結局、秋蘭の取り成しもあって二人の追いかけっこは終了し、一刀は春蘭に運命を委ねる事になった。 その秋蘭はと言えば、 『私は私でそれなりに忙しくてな。残念だが見届けてやる事は出来ん』 そう言って部屋を後にし、今は一刀と春蘭の二人きりとなっている。 因みに場所は一刀の部屋ではなく、姉妹の部屋を間借りする形で臨時の理髪店が開かれているといった具合だ。 一刀の部屋は現在無数の書籍に占領されており、床が大きく使えないからである。 「しかし本当に大丈夫なんだろうな? もし妙な髪形になったら恨むからな、春蘭」 「ええい五月蝿い! 貴様は黙って私に任せておけば良いのだ!」 部屋の中心に椅子を置き、そこに大きな布を被って首から上だけを出した一刀が座る。 自分も直前までぶつくさぼやいていた春蘭は口を尖らせつつ意外に手際良く道具を揃え、古風な鋏を手に取った。 しゃき。 見た目は和鋏に近いそれの状態を確かめ、それから櫛や小刀を一つ一つ丁寧に並べていく。 「……何か、妙に手馴れてるな」 「ん? それはそうだろう。秋蘭の髪を切っているのは私だからな」 一刀の疑問に、妙にうきうきした調子の春蘭が事も無げに応えた。 「ふーん………って、えええっ!? マジで!?」 「そ、そんなに驚く事か?」 「……うん、いやかなり驚いた。そうかぁ、秋蘭のをなぁ……うひゃぁっ、冷てぇ!?」 「この程度でがたがた騒ぐな! まったく、少しは静かに出来んのか」 「……………」 途轍も無く不満気に口を閉ざした一刀の髪に、春蘭は香料を混ぜた水を少しずつ振り掛けた。 それから軽く手で揉み込み、水気が十分に馴染んだ事を確認してからゆっくりと櫛を通す。 「さて、どの程度切るか……」 「前くらいで良いよ、別に」 「…………」 「何、どうしたの」 「…………………その、前、とはどのくらい前の事だ?」 「そうだなぁ……初めて会った頃くらい……で分かるか?」 「………むぅ」 「…………取り敢えず全体的に今より短くしてくれりゃ良いよ、もう任せる」 「むむむ……」 全てを諦めた様な一刀の言葉に、春蘭は唸りながらも髪を梳き、鋏を入れる。 しゃき。 しゃき。 襟足からもみあげ、側面へと淀み無く鋏は動き、ぱらぱらと髪の毛が床へ落ちていく。 「…………へぇ。本当に慣れてるんだな、春蘭」 「まだ疑うか!」 「いや、褒めただろ」 「う、うむ……」 「…………」 「…………」 静寂の中、櫛と鋏の音だけが部屋に響く。 単調な、それでいて流れる様なリズム。 優しく、撫でる様に髪を梳る動き。 それらが渾然一体となって、一刀の頭に次第に眠気が首をもたげてきた。 「………………なぁ、北郷」 「…………んー?」 鋏を繰りながら、春蘭が口を開いた。 半ば眠気に惚けた一刀の生返事にも気付かず、春蘭は櫛で細かい毛を払いながら言葉を継ぐ。 「……お前、どうしてあの時華琳さまをお救いしたのだ?」 「………? どうして、って……」 出し抜けな春蘭の質問に、一刀が鸚鵡返しに疑問を呈した。 「か、勘違いするなよ? 華琳さまの為に身を挺するのは臣下の務めだ。  ………私が聞いているのはだな、その………怖く、なかったのか?」 「……? ごめん、良く分からない」 「だ、だから……! 碌に戦えもしない貴様に、何故あんな真似が出来たのか、という事だ!」 一際高く、鋏が鋭い音を立てた。 ぱらり、と髪が散る。 「…………んー…………」 唐突だが真剣な調子を含んだ声に、一刀は少しだけ頭に居座る眠気を払う。 考え込む一刀の様子に不安を駆られたのか、勢い込んでいた春蘭が萎れた声を出した。 「…………そ、そのだな、べ、別に言いたくなければそれでも」 「……うんにゃ。あの時は何も考えてなかったよ。生き延びた後で無茶な事したな、とは思ったけど」 「………え?」 「ま、そりゃあ俺は春蘭みたいに強くもないし……片眼を失っても戦えるほど豪胆でもないけどさ。  単に俺は、華琳が死ぬのが嫌だっただけだよ。だから無我夢中で動けたし、その時の事はあんまり覚えてない」 「…………」 「俺がこうなったのは只の結果だし、要するに自業自得だよ。  華琳は無事だったろ? だったら別に良いんじゃないかな、それでさ……」 「ほ、北郷………」 気負いの無い言葉に、春蘭が絶句する。 そのまま双方が口を閉ざし、先刻と同じ様に髪を切る音だけが木霊した。 しゃき。 しゃき。 しゃき。 「………そ、そのな、北郷」 沈黙に耐えられなくなったのか、春蘭が何処か遠慮がちな声を掛けてきた。 「た、確かにお前は弱いし、部隊指揮も全然だし、将としてはまだまだだが……だがな?  ……華琳さまの為とは言え、命を危険に晒して……そんな風に笑っていられるお前は、その」 「…………」 「だから……ええと……その、す、少しはだな、認めてやっても……だな、ううう……」 「……………」 「え、ええい! 黙ってないで何か喋れ! そんなに私を辱めたいのか!!」 「………………」 「北郷! だから、どうして何も……」 「…………………ぐぅ」 「………………………………は?」 いつの間にか、一刀は安らかな寝息を立てていた。 思わず鋏を取り落とした春蘭が、一瞬の呆然から徐々に身を震わせ始める。 「こ、こ、こここ、この大馬鹿者がぁぁぁぁ! 返せ、私の言葉を返せぇっ!!  ううううう……うがああーーーーーーーっ!!!」 激発した春蘭が一頻り喚くが、一刀は眼を覚まさない。 窓から差し込む陽光に照らされた横顔は、何処までも穏やかである。 「はぁ、はぁ……」 その頬に刻まれた痕を睨みつけている内に、気勢を削がれたのか。 肩で息をしつつも、春蘭は落ち着きを取り戻した。 「…………まったく、お前という奴は…………少しは自覚しているのか?」 口を尖らせながら、春蘭は寝入ってしまった一刀の真正面へと回る。 身を屈めて覗き込めば、何の心配も抱いていない無防備な寝顔がそこに在った。 以前より精悍さを増した顔も、今は何処かあどけなく見える。 「すぅ……すぅ……」 「……………」 がばりと身を起こし、きょろきょろと辺りを見回す春蘭。 この部屋には自分と一刀しか居ない事を確認すると、ゆっくりと一刀の頬傷に手を伸ばした。 「……………」 指先に感じる、僅かな肉の盛り上がりと微かな絹糸の手触り。 自然と、もう一方の指先が自身の眼帯へと伸びる。 一方は隻腕。そしてもう一方は隻眼。 形は違えど、共に一人の少女の為にその身を捧げた。 出逢った頃からは想像もし得ない、少年と共に駆け抜けてきた生々しい戦いの証。 だが、それよりも。 自分よりも誰かを優先するこの少年の言葉が痛々しく――――――そして嬉しかったのだ。 「………ふん、馬鹿者め」 頬に手を当て、切り揃えた髪を手櫛で梳る。 手指に想いを込めながら、丁寧に、慈しむ様に。 「ん………ぅ、しゅん、らん……」 「…………っっ」 眠りが浅いのか、それとも夢でも見ているのか。 突然の呟きに、春蘭の鼓動が大きく跳ね上がった。 「…………ううう」 少し開かれた一刀の唇から、どうしても眼が離せない。 激しくなる一方の鼓動を持て余しながら、半ば無意識に、春蘭は少しずつ顔を近づけていった。 自分でももどかしいと思うほどに停滞した動きの中、視界は一刀の顔だけを映す。 「――――――――――」 そして静寂の中、足らざる者同士が触れ合おうとしたその瞬間。 「………………何を、しているのかしら?」 押し殺された声が、静止した時間を粉々に破砕した。 「な、なななななっ!? か、華琳さまっ!?」 一瞬で飛び退いた春蘭が、油の切れた絡繰の様な動きで入り口に立つ金髪の少女を見返した。 そんな忠実な臣下に、見目麗しき主は蕩ける様な笑みを浮かべて囁く。 「話を聞いて来てみれば……随分と面白い事をしている様ね? 春蘭」 「は、話!? い、いえ! こ、これはですね、その、北郷の髪を」 「そう、切っていたのよね? 一刀の髪を」 「は、ははは、はい! ですから、別に疚しい事は何も」 「ふぅん?」 何処までも優雅に小首を傾げた華琳が、更に微笑を深くする。 しかし弓なりに沿った双眸の奥で煌くその眼光に、春蘭が思わず息を呑んだ。 「どんな風に切っていたのかしら? 真正面からなんて器用なものね。ねぇ春蘭?」 「あ、ああう……」 「あら、どうしたの春蘭? 勿体ぶらずに教えてくれないかしら」 「うう……」 両者ともその場から一歩も動かず。 春蘭は壁際で固まったまま、ますます魅力的な笑顔を形作る主をおろおろと伺うばかり。 「………やれやれ」 部屋の外では、腕を組んで壁にもたれた秋蘭が、そっと溜息を零していた。 「すぅ……むにゃ、華琳………だから止せって言って………ぐぅ」 陽光降り注ぐ、麗らかな昼下がり。 ただ一刀の寝息だけが、場違いなほど穏やかに響いていた。 隻腕の御遣い 閑話 一 『盲夏侯、隻北郷の髪を切るのこと』 了