この国の夜は暗く深い。 それが山中ともなれば尚更である。 永遠とも思える闇。しかし払暁前の僅かな時間だけ、空は黒とも青ともつかぬ不可思議な彩りに染まる。 その黝く軋む大気の中、突き出した岩山の頂。 吹き荒ぶ風に紛れて、蟠る一つの影があった。 「―――――――」 岩に座した影は、人の形をしていた。 寒風に素肌を晒しながら、然して気にする様子も無い。 特徴的な赤い髪の下の両眼は閉ざされ、如何なる感情もそこから窺い知る事は出来ない。 まるで激流に屹立する巌の如く、華佗は身を切る冷気に己を晒していた。 「―――――――」 薬草を採りに山へ入り、途中で見つけたこの場所に鎮座して既に半日以上。 その間微動だにせず、華佗はある一つの事を考え続けていた。 (……………協力、か) あの日、投げ掛けられた問い。 一刻も早くこの乱世を鎮める為に、自分の力を貸して欲しいと。 (………大それた話だ) だが、確かに“彼”はそう言ったのだ。 気負うでも無く、昂ぶるでも無く、ごく自然に。 眼を剥いた華佗を見据え、はっきりと言い放ってみせたのだ。 (戦を止める―――だと?) 夢物語だと。取るに足らない理想だと。 断じてしまうのは簡単だ。 だが、出来なかった。 その場での答えを保留したのは、裡に生じた混乱を面に出さない為だった。 ―――五斗米道とは民の為に有り。 ―――それは権の為に在らず、ただ人の為に在り。 ―――医は即ち仁なり。努々忘れる事なかれ。 医術を修め、その使命に従い、流れるままに人を助けてきた。 『神医』などと呼ばれる事に忸怩たる思いこそあれ、そこに私心は無い。 どう言い繕おうとも、戦とは権力者の物であり、乱世とはその結果である。 己の振るう業は、そんなものに利用されて良いものでは無い。 (だが) 本当にそうなのか。 戦が苦しみを、癒えぬ病を生み出すのなら。 その根を断ち切る事もまた、真の治療と言えるのではないのか。 『確かにお前の技は凄い。でも、それだけじゃないんだ』 かつて戦場で出逢い、その命を助けた少年。 『俺は知ってる。お前の持つ医って奴がどんなに素晴らしいものなのか』 腕を喪い、傷を背負い、それでも尚、立ち上がった男。 『だから華佗。お前の力はこんな処に留まらない。もっと沢山の人達を、救える筈なんだ―――』 場所は違えど、自分と同じ様に何かに抗い、そして戦う事を決めた漢。 黒衣を翻し、煌く剣を携えたその姿を、華佗はは脳裏に思い浮かべる。 己に課した使命―――五斗米道の教えと、熱く激しい友の言葉が、心の中で鬩ぎ合う。 (俺は――――――) 微かな気配。闇の粒子が徐々に、その勢力を弱めていく。 華佗はゆっくりと、その双眸を開いた。 遠く地平の彼方を見つめるその先。 一条の閃光が、燻る暗黒を切り裂いた。 隻腕の御遣い 六 「………なぁ。本当にやるのか?」 「今更何言うとんねん、昨日決めたやろー?」 「そーだよー、往生際が悪いのー」 「いや、ちょっと待てって」 「そんなんウチらに言われてもしゃーないわー」 「ふっふっふーなのー」 「だから待てって! 何も考えてないから!」 「……どっちにしろもう遅いで、隊長」 「え?」 「ほらー」 「あ」 「――――――北郷隊、総員、整列!」 凛とした号令が、朝焼けに沈む冷たい空気を震わせた。 練兵場に居並ぶ兵士は皆、口を真一文字に引き結び、壇上に立つ上官へと視線を注ぐ。 良い緊張感だ。そう思い、腹に力を込め、凪は更に声を張った。 「これより、復帰に際して隊長よりお言葉を賜る! 心して傾聴せよ!」 言葉が列に浸透するのを確認し、一歩退く。 「隊長、お願いします」 「いや、だから…」 「あーもー、じれったいのー!」 「ここまで来たら覚悟を決め、や!」 「だっ、うわわっ!」 背後の二人―――沙和と真桜に押し出され、半ば無理矢理前へと進む“隊長”。 外套の如く肩掛けにしたその服は、緩やかな風に靡く袖も、翻る裾も、共に黒一色。 何とか体勢を持ち直し、彼はゆっくりとその顔を上げた。 「あー……」 まだ若く、少年と言って差し支えない顔付き。 だが、左頬に刻まれた三日月の様な大きな痕が、一見すると柔弱にも思える印象を大きく裏切っている。 固唾を呑んで見守る兵達を眺めるその眼は、何処か茫洋として底が見えなかった。 「………少し見ない間に、知らない顔が増えたなぁ」 声には苦笑と、離れていた時間を噛み締める様な、ほんの僅かな自嘲の気配。 黒衣の少年―――北郷一刀は、真っ直ぐ隊員達を見据え、口を開いた。 「あーと、そのー………何だ。隊長の北郷だ。訳有って暫く留守にしてたけど、今日から復帰する事になった。  また宜しく頼むな」 「…………」 静寂が、場を包んだ。 「……………終わりかい!?」 「隊長、短過ぎるよー!」 「ええっ!? いや、つーか何も考えてないのにいきなり話せる訳ないだろ!?」 「隊長……もう少し頑張って下さい」 背後の三人に突っ込まれ、一刀は渋々といった調子で頬を掻いた。 「んー……困ったな、あんまり長々しく喋るのは好きじゃないんだけどなぁ。どうしようか……。  それじゃ、今この場を借りて、伝えておきたい事だけ伝える事にするよ」 そう言って柔らかく微笑んだ一刀が、眼前の兵士達を眺め渡す。 いつの間にか、随分と人数が増えてしまった自分の隊。 今まで何をしてきたのか、そしてこれから何をしていくのか。 考えるより先に、言葉は声として出ていた。 「……俺が居ない間、皆が頑張ってくれてた事は聞いてる。報告は逐一読ませてもらってたよ。  大きな事件は無かったみたいだし、街の治安はちゃんと守られてる。まずはそれについてお礼を言いたい。  ―――ありがとう、皆」 決して大きくは無いが、良く通る声。 威厳には程遠く、強さともまた違う、素直な、気負いの無い言葉。 その飾らない物言いに、兵士達、特に新兵達は口を閉じる事も忘れ、壇上の一刀を凝視する。 これまで抱いてきた軍に対する印象、将軍に対する先入観が、この隊長からはまるで感じられなかった。 「俺はこの前、戦場に行ったよ。皆の中にも、行った奴は沢山居ると思う。  最後には勝てたけど―――誰も彼も、そこで喪ったものは、きっと一杯有った筈だ。  正直、怖かったよ。倒れていった部下や仲間―――或いは敵と同じ様に、ここで死ぬのか、とも思った」 一刀はそこで言葉を区切ると、胸の留紐を外し、羽織っていた制服の左肩だけを肌蹴た。 その左上半身が露になった瞬間、息を呑む音が連続する。 「既に知ってる奴も多いだろうけど、この通り、今の俺はこの体たらくだ。  これから先、後ろに居る三人を初めとして、ここに並んでいる皆には迷惑を掛ける事になると思う」 「…………」 背後に控える直属の部下―――右に沙和、真後ろに真桜、そして凪が一刀を守る様に左側。 三人も、兵士達も、誰も彼もが無言で一刀の黒い袖無しシャツから伸びた左腕を見つめていた。 包帯が巻かれた、上腕から先の無い、左腕を。 「はは……何か、取り止めが無くなってきちまったな。まあ、何が言いたいかって言うとさ……」 制服を羽織り直した一刀が、居心地悪げに頭を掻いた。 この場の人間全てが、音も無く、身動ぎすらせずに一刀を見守っている。 俯き加減だった一刀が顔を上げ、真正面から皆を見据えた。 「……もう一度ここに立った以上は、この事を戦えない理由にはしたくない―――ただ、それだけなんだ。  力が足りないのは分かってる。だから皆に力を貸して欲しい………頼む、不出来な隊長を助けてやってくれ」 言い終えた一刀が、自然と頭を下げた。 将らしからぬ―――しかし彼らしい意思表示に、暫し沈黙が場を支配する。 「………」 その静寂は、一刀の真後ろから破られた。 「隊長、おっかえりー!」 「たーいちょっ! ずぅーーーっと待ってたのー!」 「………お帰りなさい、隊長!」 驚きと共に振り向けば、三人が満面の笑みと共に駆け寄ってくる。 それに併せて、下からも歓声が突き上げてきた。 「待ちくたびれましたよ隊長ー!」 「お戻りになられて嬉しいっスー!!」 「隊長! また昼飯連れて行って下さいよー!!」 「俺らで良ければ幾らでも力になりますぜ隊長ー!!」 「「「「「さーいえっさー! さーいえっさー!」」」」」 それまでの静けさが嘘の様に、爆発的な歓呼が練兵場に響き渡る。 見覚えの有る顔も無い顔も、等しく笑いを面に刻んでいる。 (……帰ってきた) 真桜も、沙和も、凪も、そして自分も。 (帰って、来たんだ) じわじわと込み上げてきた喜びに、頬が緩むのを感じる。 ようやく、あるべき場所に戻ってきた―――。 そんな感慨が、安堵と一緒に心の奥から湧き起こってくる。 声はいつまでも、止む事無く続いていた。 「………ふむ?」 一斉に前進した兵達が奏でる、地鳴りの様な足音。 擦れ合う鎧と、手にした武器が織り成す硬質な金属音。 陣形を組み替え、ぶつかり合う度に腹を震わせる鬨の声。 そんな雑多な調練音楽に紛れて、何処からか風に乗った喜びの切れ端が流れてきた。 耳を澄ませば、どうやら歓声の様だ。 声が流れてきた方向を遠目に見遣り、秋蘭は櫓の上で軽く腕を組み替えた。 短く切り揃えられた髪が、風に吹かれてさらさらと流れる。 (あちらは確か……北郷隊の練兵場か。そう言えば今日が復帰だったな) 得心した秋蘭が一つ頷き、再びその視線が運動を繰り返す兵士達へと向けられた。 先の戦における事後処理も一段落し、許都郊外の各練兵場では、連日に渡って激しい調練が繰り返されている。 特に被害の大きかった留守居部隊は補充の新兵も多く、かつての力を取り戻す事が急務となっていた。 そしてそれもようやく形が整い始め、何とか様になりつつある。 「そこぉ、切り替えが遅いぞー! 何度言えば分かる!!」 鋭い叱咤に視線を下へと移せば、姉である春蘭が陣形変更を指揮していた。 その隻眼からは強い光が放たれ、大音声が上がる度に兵士達は必死になって走り続ける。 春蘭が現場で実際の指揮を取り、秋蘭がそれを細部に渡って監察する。姉妹の間で自然とそうなった、最も効率の良い役割分担。 最初の頃はもっと時間が掛かっていたが、今では全軍が以前と遜色無い程度には動ける様になっていた。 (うむ。何とか間に合いそうだな) 目まぐるしく動き回る眼下の軍勢を見据えながら、秋蘭は密かに嘆息する。 この二ヶ月間、調練に精を出してきた甲斐があったというものだ。 (まあ、元々の素地が出来ていなければ、ここまで早くは仕上がらなかっただろうが……) 補充された兵士の六割以上は、北郷隊の直轄で訓練を受けてきた新兵である。 無論、実戦を経た兵とは比べられないが、士気の高さや命令に対する忠実さには眼を見張るものがあった。 (やはり、北郷はあの三人を上手く使えている様だな) 実際の訓練指導は凪・真桜・沙和の北郷隊三羽烏が行っているが、上に立つ者が無能であればこの結果は出ない。 部下をきっちりと掌握し、全体の管理に眼が行き届いてこそ、初めて部隊は十全に動く事が出来る。 誰に教わるでもなく、一刀はそれを己が経験から知っている様だった。 (最初に拾った時は、これほど重要な人物になるとは思ってもいなかったのだがな……) 軽い驚きと共に、一刀の存在を認めている自分を自覚する。 この世ではない場所、遥か未来の世界からやって来たと称する、得体の知れない少年。 確かにこの世の物とも思えぬ知識を持ち、それを活かすだけの頭も有る。 特に黄巾の乱から今までの働きは、成程良い拾い物をしたと頷けるだけの価値はあっただろう。 だが、その覚悟の程は―――己を含めて皆、見誤っていたという他無かった。 文字通り、一刀は死ぬ覚悟で華琳を救い、そして生き残ったのだ。 その代償として左腕を失い―――それでも尚、ああして今までと同じ様に笑っている。 (全く、底が知れん男だ) あの時の光景は、今でも眼に焼き付いている。 何しろ、人前で憚る事無く泣き叫ぶ主の姿など、終ぞ見た覚えが無かったのだから。 嫉妬も通り越して、もはや敬意すら抱いてしまいかねない―――勿論、口にしたりはしないが。 「………ふふ」 もし言ったら、さぞ驚くだろうな。それとも気味悪がるだろうか。 どちらにせよ慌てふためくに違いない少年の顔を想像し、秋蘭は人の悪い笑みを漏らした。 「……らーん! おーい、秋蘭ー!! 何してるー! 早く降りてこーい!!」 「む?」 下を見れば、こちらを見上げた春蘭が剣を振り回している。 どうやら先程から呼んでいたものらしい。 (……驚くと言えば、姉者もだな) 通常の倍ほども有る大剣を小枝の様に扱う姉を眺めながら、秋蘭は眼を細めた。 姉はあれで人見知りする性質だ。普段がああだから気付かれないが、そう簡単には他人に心を開かない。 何でも主が第一で、しかも自分の様に上手く取り繕う事も知らないから、他者との軋轢が生まれ易い。 特に興味の無い人間はともかく、部下ですら名前どころか顔さえも覚えないというのは、流石にどうかと思うが。 その姉が、一刀の前では子供の様にはしゃぎ、自然体で接しているのは、秋蘭と言えど驚愕に値する事だった。 (男で顔と名前が一致しているのは、下手するとあいつしか居ないのではないか?) 他ならぬ姉の事である。その可能性は十分以上に有り得る。 「しゅーらーん!!」 「分かった分かった。今行く、姉者」 降りて来ない妹に焦れたのか、飛び跳ね始めた春蘭に応えながら、秋蘭は梯子を伝って降り始める。 最近は忙しくてまともに買い物にも行けていないから、姉も相当鬱憤が溜まっているだろう。 次の戦いも間近だ。その前に、軽く息抜きさせてやらなければならない。 (………また奴にご出動願うとするか。ふふふ、うむ) 心の中で狙いを定めながら、秋蘭は梯子の中程から飛び降りた。 「………ぶえっくしょい!」 「隊長、風邪ですか?」 「いや……こう、急にムズッと……何だろ?」 「ふふ、誰かが隊長の噂でもしていたのでは?」 「別に悪い事はしてないんだけどな……」 隣で鼻を擦る一刀を見ながら、凪は笑いを噛み殺した。 一刀が復帰の挨拶を終え、こうして城下へ警邏に出ておよそ半刻余り。 町は既に、活気に満ち溢れていた。 「んー……久しぶりだな、この雰囲気」 思い切り深呼吸する一刀につられて、凪も朝特有の清涼な大気を吸い込んでみる。 先の戦の傷も癒え、凪達の主である華琳から現場復帰の許しを得たのがつい一昨日の事である。 療養の間、外出自体が無かった訳ではないが、それでも一刀がこうして大手を振って歩けるのは随分と久々の事だ。 そして凪自身にとっても、こうして歩く一刀の隣は長らくご無沙汰だった。 自然と緩みそうになる頬を引き締めながら、凪は一刀の左側を守る様に歩調を合わせる。 (……駄目だ、隊長の復帰初日だぞ。真剣になれ、凪) 折角、真桜と沙和を差し置いて手に入れた組み合わせである。二人には悪いが、これだけは譲れない。 二人の後方を進む一隊は、周囲に視線を飛ばしながら、胸を張ってゆっくりと進んでいる。 「別に街自体は毎日見てたのに、こうやって警邏に出るとやっぱ何か違うな」 「そうですね……大体ふた月ぶりくらいですから、何処か新鮮に感じるのも無理はないかも知れません」 「かもな。まあ元々、もう俺が現場に出る回数も前に比べれば減ってたけどな」 実際、河北四州を版図に加えた頃から、一刀の仕事量は飛躍的に増大していた。 占領した街の治安維持計画、各軍への兵力の補充、新規の警備計画立案など、他にも様々な仕事が山積している。 大まかなところは他部署とも分担しているが、警備部門全般の責任者である一刀に掛かる重圧は軽くない。 凪は一刀の言葉をやんわりと受け止め、違う表現で返した。 「仕方ありません、隊長には大事な仕事があるのですから。現場は我々に任せて下されば良いのです」 「まぁ、な。俺はこっちの方が好きなんだけど。机仕事は正直、息が詰まる」 げんなりと呟く一刀の言葉には、中間管理職の実感が篭っていた。 復帰と言ってもそれは“現場仕事”というだけの事で、実際に何も無かったという訳では無い。 この二ヶ月、療養の合間に諸々の仕事を進めていた身であれば、この程度の愚痴は罰も当たらないだろう。 部下の欲目ではないが、そんな風に凪は思う。 「息抜き……ってんじゃないけど、偶には許してくれよ。篭りっ切りだと身体も鈍っちまうからさ」 「ふふ、そうですね」 話している間にも、凪は常に周囲に気を配る。 現在の許都は平穏そのものだが、今は乱世。何が起こるかは分からないのだ。 (忘れるな。隊長をお守りするのが、私の役目だ) あの日から、そう思い定めている。 何を言われようと、例え一刀自身が拒もうと、凪はそれを貫くつもりでいた。 「……お? 何だぁ、隊長じゃねーか!」 「!」 「ん? ああ、おっちゃんか。久しぶり」 ……流石に、危険が無いと分かっていながら過剰反応するのは、自分でもどうかと思ったが。 「最近顔見せねぇから、てっきり死んだんじゃねぇのかって皆心配しとったんだぞー。  ……と言うか、また随分変わったなぁ、ええ? 前は真っ白だったのに、今度は真っ黒かい」 「はは、まあ色々あってね」 顔馴染みの屋台の店主に、一刀は苦笑を返す。 二人のやり取りを少し離れて見守りながら、凪はひっそりと嘆息した。 (……当然だ。顔見知りと会う事くらい、想定しておかねば) 己の未熟さ加減に多少の憂いを抱きつつ、凪は気を引き締め直す。 だがこれも、ほんの始まりに過ぎなかった。 「おー、隊長サン! 今まで何処行ってたネー?」 怪しげな小道具を道端に並べた、怪しげな髭親父も。 「あっ、あーっ! 隊長ー! 良かったー、生きてたんだー!」 お団子にした髪形が愛らしい、茶店の看板娘も。 「北郷ちゃーん! 帰ってきたんならまた寄ってってよー!」 大きな鍋を事も無げに振り回す、恰幅の良い菜店の女将も。 「おお、おお……隊長さんかえ。暫く見なかったけど、元気そうで何よりだねぇ、うん」 皺に埋もれた眼を優しく細める、杖を突いた老婆も。 「「「「あー、たいちょーだー! おーい、たいちょー!!」」」」 朝から力の有り余った、元気いっぱいの子供達も。 老若男女、区別無く。 行く先々で、一刀は笑顔に迎えられた。 「……何か、随分と方々に心配掛けてたみたいだな」 「当然です。この街の治安を守ってきたのが誰なのか、皆知っているのですから」 困惑しきりの一刀に、凪は訳知り顔で頷いてみせる。 一刀が今までやって来た事が間違いではなかったのだという結果が、ここにある。 それはまるで、己の事の様に誇らしい気分だった。 「ま、俺は別に何もしてないけどな。凪達が頑張ってきたおかげだろ」 だと言うのに、この隊長は興味無さ気に頭を掻くだけなのだ。 余り主張し過ぎるのもどうかと思うが、もう少し覇気を持って欲しい。 片腕としてこれは見過ごせないと、凪は咳払いをしてから一刀に向き直った。 「隊長、謙遜も度が過ぎると良くありません。街の方々の声が何よりの証拠です」 「本当だってば。現にこの二ヶ月、俺抜きで何の問題も無かったじゃないか」 「それとこれとは話が違います! そもそも、隊長が居たからこその警備隊であり、我々は任務を遂行したに過ぎません」 「実際に動く奴が居なきゃ幾ら形が有っても意味は無いよ。だから、これは皆のお陰さ。  ……そうしといてくれよ、な? あんまり褒められると図に乗っちまうからさ」 「…………し、仕方ありませんね、隊長は」 悪戯っぽく微笑む一刀に、凪は何も言えなくなる。 (隊長は、ずるい) あんな顔をされたら、それこそこちらが折れるしかないではないか。 不意に訪れた沈黙の中、隊は喧騒に包まれた大通りを粛々と進んだ。 警備隊を見る街の人々の視線は一様に暖かく、そこには確かな信頼が見て取れる。 歩みは止めぬまま、凪はさりげなく、横目で隣を歩く一刀を盗み見た。 左目の下から頬にかけて刻まれた大きな刀傷。そして翻る黒衣に隠された、肘から下の無い左腕。 初めて出逢った頃と比べて、外見に関しては大きく変わった。 きっと、精神的にも強くなったのだろう。 だが、根本的な部分―――しなやかで、決して折れないその芯は、何一つ変わっていない。 (やっぱり、隊長は隊長なんだ) 一度は、永遠に喪ったと思っていた時間。 またこうして共に歩める事が、何よりも嬉しい。 すぐ傍で支えられる事が、何にも増してかけがえの無いものに感じられる。 「………隊長」 「………ん? 何?」 「! い、いえ、その……!」 無意識の内に、声が出ていた。 少し茶色がかった黒髪から覗く瞳に見つめられ、鼓動が勝手に一段階ほど跳ね上がる。 凪は慌てて言葉を探し―――吟味もしないままに、再びその口を開いた。 「そ、そう言えば、隊長は霞さまのお見舞いには行かれましたか?」 「お見舞い? ……あー、そういや」 咄嗟に振った話題に、一刀が遠くを見る様な仕草をする。 先日、冀州から急遽帰還した霞は、負傷の為に安静を余儀無くされている。 一刀が華琳から復帰を許された時はその場に立ち会っていたのだが――― やはり無理が祟ったのか、その直後に倒れ、今は寝台の上である。 「やっぱ、謁見の間では無理してたんだな、あいつ」 (……誰の所為だと思っているのですか) 「ん? 何か言ったか?」 「いえ、何も」 鈍感な上司を素気無く切り捨て、凪は正面を向く。 不思議そうに首を傾げる一刀だったが、すぐに表情を改めた。 「昨日は何だかんだでドタバタしちまったから、すぐに様子見に行けなかったんだよな」 「準備がありましたから、それはどうしようもありません」 「まあそうだけどさ」 復帰が決まったからと言って、即座に動ける訳では無い。 煩雑な事務処理や正式な認可など、面倒だが必要な手続きは山ほど有った。 一刀が忙殺されている間、手持ち無沙汰になった凪は霞の様子を見に行っていたのだった。 生憎、凪が行った時は眠っていたが、聞くところによるとその後すぐに眼を覚ましたらしい。 「幸い、昨日からもう起きられてはいる様ですので、面会はいつでも出来るそうですよ」 「そっか、そりゃ良かった。だけど、そうか………黒山、か。そういや、後で桂花達が会議やるとか言ってたっけな……」 その、思っても見ないほどに真剣な呟きに、凪は驚いて一刀を仰ぎ見た。 俯き加減の瞳は鋭く、右手は腰裏に差した刀―――『流星』の柄に添えられている。 その横顔の痕が、まるで別の生き物の様に歪んだ―――様に見えた。 「隊長……?」 「――――――んにゃ、何でもないよ。霞のお見舞いだっけ、なら後で一緒に行こうか?  警邏のついでに何か買って行けば良いだろ。霞の好きそうなモンでも」 直前の雰囲気など何処吹く風とばかりに、一刀は殊更明るい声でそう提案する。 凪もまた、それに同調する様にわざと窘めてみせた。 「………お酒は駄目ですからね?」 「やっぱり?」 おどけた一刀が肩を竦め、愉しそうに笑い出す。 刹那、垣間見えた何かは、もう微塵も残っていない。 (………考え過ぎだ) 笑顔を作りながら、凪は自分にそう言い聞かせる。 そうする事で、何かを忘れようとするかの如く。 だが、裡に生じた微かな不安は、心の何処かにこびり付いたままだった。 どんな人間にも、朝の訪れを止める事は出来ない様に。 例え皇帝その人であろうと、天の理を捻じ曲げる事は叶わない。 況やこの身如きに、一体どれ程の力が有ろうか。 (………埒も無いわね) 視線を机に落としながら、華琳は胡乱な思考を頭から追い払った。 縦横に走る手先は些かも淀む事無く、流麗な文字を書簡に記していく。 午前は主に雑務処理に当てる。習慣の様なもので、感覚としては流れ作業に近い。 いつもなら秋蘭や桂花が傍に居て、華琳の補佐をしているところだが――― 生憎、秋蘭は軍の調練、桂花は稟や風らと会議の準備などに追われており、今は居ない。 華琳の執務室に入る事の出来る人間はごく少数であるから、時々はこうして独りになる場合がある。 だから、こんなどうでも良い事が泡沫の様に浮かんできたりもするのだ。 「……………ふむ」 筆を置くと暫し己が文章を眺め、最後に印璽を押す。 完成した竹簡を横に退け、山積みになった報告の中から新たな巻を取り出し、眼を通していく。 既に昼も近いが、案件は次から次へと運び込まれて切れ目が無い。 華琳からしてみれば、殆どが一度の思案で済んでしまう様な他愛無い事柄ばかりだが――― やはりこの量だけは、如何ともしがたい。強いて作業に徹する事で、効率良く捌いていくしかない。 その間にも、華琳は改めて、今後に関する考えを巡らせていた。 (……やはり、今後の要諦は北ね) 袁紹を追い出した後の河北四州の統治に関しては、既に幾つもの計画が立案されている。 しかし実際に施行する為には、解決しなければならない事案が最低でも二つある。 ―――黒山賊への対処。そして北方異民族の征伐である。 その内、急を要するのはやはり黒山賊であり、彼らと陰で手を結ぶ地方豪族達だ。 ただ、幕僚の中で意見が割れていた。 一見すると、大軍を以って一挙に収めれば事足りる様にも思えるが、実際はそう単純な話でも無い。 まず、河北四州を手にしたとは言え、その統治はまだ日が浅い事。 そして、先の劉備・呂布連合軍との戦いにおける消耗から完全には立ち直っていない事。 更に、倍増した領土の守りとして、州境に駐屯軍―――つまり、兵数を割かなければならない事。 他にも要因は幾つか有るが、意見が割れる主たる原因はこれら三つだ。 (力で圧すのは簡単だけれど………) これまでの経緯から見てもそれは下策に思える。 かと言って慎重論に傾けば、各地の群雄達が我先にと動き出す公算が強い。 時間を掛ける訳にもいかず、さりとて荒っぽいやり方では大魚を逸するかも知れない。 整理すればするほど混沌としてくる状況に、華琳はその秀麗な面をほんの僅か歪めた。 (忌々しい事ね) ここまで事態をややこしくしたのは、やはり呂布の参入という凶事だろう。 劉備との連合を解消し、何処へ消えたかと思えば、まさか黒山に流れていたとは。 その呂布に、地方軍を中心とした討伐隊は元より、自軍を率いた直属の部将でさえも遅れを取った。 正に由々しき事態ではある。しかし――― 「……惜しいわね」 我知らず漏れた呟きに、書類を抱えて入室してきた秘書官が怪訝そうな顔で主の様子を伺った。 但しいつもの事だと慣れているのか、秘書官は書類を積むと速やかに退出する。 それには一顧だにせず、華琳は思考を先へと向けた。 (―――張燕、それに呂布) 見通しの甘さは有ったとは言え、確かに黒山賊は手強い。 但し、翻せばそれは彼等がそれだけ有能なのだという証左でもある。 大陸は広く、曹旗に従わぬ者の数は未だ多い。なればこそ、使える駒は一つでも多く確保しておきたい。 黒山賊は正規軍に比べればごく少数の勢力に過ぎないが、首領たる張燕以下、その働きには非凡なものがある。 更に、そこへかの飛将・呂布が加わったとなれば―――このまま放っておくのは、如何にも惜しい。 唯、才有るのみ―――官だろうと賊だろうと、善だろうと悪だろうと、そんなものは関係無い。 所詮は神ならぬ人の身、清濁併せ呑めずして覇道を進む資格など有りはしない。 (……まあ、取り敢えずは) 今はまだ、何の方策も浮かんでいない。 後刻に開かれる参謀会議。決断は、そこで幕僚達が出す意見を聞いてからでも遅くは無いだろう。 華琳は一旦総てを棚上げし、目の前に聳える書類の山を崩しに掛かった。 「………そう言えば」 怒涛の勢いで書類の処理を進めながら、華琳はふと思い出す。 (今日から確か、一刀が隊に復帰……するのだったわね) 頭の中で像を結んだのは、黒衣を羽織った隻腕の少年の顔。それが、あの時描いた横顔に重なる。 その紙はまだ、棚の奥に仕舞い込んだまま、手元に残してあった。 (今頃は警邏かしらね) 時間的に考えれば、もう午前の警邏は終了していてもおかしくは無い。 (あの三人は色々と準備していた様だけれど) 慕ってやまない“隊長”の、二ヶ月ぶりの復帰である。 聞いていた予定では、隊員を集めての訓辞なども行うと言う話だったが、 (………一刀の事だから、困り果てたのでしょうね、きっと) その地位や実績に反して、人の上に立つという事に何処か戸惑いを抱いていた少年。 整列した部下達を前に苦虫を噛み潰した様な表情で立つ一刀を想像し、華琳は思わず笑みを零した。 (……今度、演説集でも貸してあげようかしら) 今後、益々乱世は激化し、戦いも熾烈を極めていくだろう。 一刀とて、いつまでも只の警備隊長だけに甘んじている訳にもいかないだろう。 ならば、これからはそういう機会も増えるかも知れない。 もしごねる様なら、不本意ではあるが手ずから叩き込んでやっても良い。 「………ふふっ」 全く、手の掛かる男だ。 抑えようとしても、自然と頬が緩む。 筆の運びも何処か滑らかに、華琳は軽快な調子で政務を片付けていった。 その部屋は、奇妙な熱気に包まれていた。 「だから、それは」 「ですから」 「……ぐぅ」 十数人は楽に収容出来ようかという間取りの中心。 地図や小道具が散らばった大卓を挟み、二人の女性が対峙していた。 「主力を一気に投入すればこの程度なら」 「他地域の守備も考えねば」 弁が弁を遮り、論に論を被せ、凄まじい速度で言葉を交わす両者。 互いに力量を知り抜いているからこそ、その追求には遠慮も容赦も微塵も無い。 「ぐぅー……」 そんな二人に挟まれる様に座る、一際小柄な少女。 すぐ傍で行われているやり取りにも関わらず、ゆったりとした寝息を立てている。 「このまま手を拱いていれば連中は調子に乗るわ。見せしめの意味でも」 背中に垂らした頭巾を揺らし、畳み掛ける様な語調で切り込むのは筆頭軍師・荀ケ―――桂花。 「我が軍の状態も勘案しなければなりません。そこまでの余裕はとても」 眼鏡に指先を添えつつ、理知的な物言いでその切っ先をいなすのは次席軍師・郭嘉―――稟。 「ぐぅー……」 そして我関せずとばかりに舟を漕ぐのは軍師補佐・程c―――風。 三名共に曹操軍が誇る珠玉の頭脳の持ち主であり、その政戦両面における要たる重臣達である。 「だからと言って、この期に及んで弱腰な策なんて問題外よ!  華琳さまの覇道を邪魔する者がどうなるのか、劉表や孫策にも分からせてやる必要があるわ!」 「潜在兵力は軽く数えても数万を超える敵ですよ? それに核となる黒山三千は明らかに通常の賊とは違う。  それは桂花殿もご存知の筈です。そう簡単に行けば苦労はしません」 益々熱を帯びる二人と居眠り中の一人を取り巻く様に、十数人に及ぶ参謀達がそれぞれの卓に就いている。 誰も彼も、全知を懸けて論陣を張る軍師同士の論戦に入り込めず、ただ恐ろしげに事態の推移を見守るのみである。 「それに、あの呂布が黒山に居るという事も無視出来る要素ではありません。霞ですら、ああして一敗地に塗れているのですから。  兵は神速を尊ぶとは言いますが、拙速は厳に戒めるべきです」 「そんな事は分かっているわよ! だからこそ、余計に時間を掛ける訳には行かないんじゃないの!」 「ぐぅーーー……」 「「……だから寝るなっ!!」」 「…おおっ」 二人の怒声を浴びて、ようやく風が眼を覚ました。 「全く……とにかく! 奴らの居場所さえ特定出来れば後は力で押し潰してやれば事足りるわ! 難しく考える必要なんて無いのよ!」 「その特定が出来ないから足踏みしているのではありませんか! それこそ冀州全域を押さえなければなりませんし、  第一そんな兵力は何処を探しても……」 一瞬だけ風に睨みをくれた後で、再び舌戦に舞い戻る桂花と稟。 「むー……平行線ですねー」 怒声でずれた頭の上の人形・宝ャの位置を直しつつ、まるで見て来たかの様に嘆息する風。 実際、本気で寝ていた訳では無く、先程から延々と続く堂々巡りに嫌気が差して狸寝入りを決め込んでいたのだが。 (二人とも、華琳さまに直接指示されたからって張り切り過ぎですねー) そのお陰で、ここ最近の会議は常にこの調子である。気持ちは分からないでもないが、正直なところ良い迷惑だ。 つい先刻までは参謀達も交えて活発な意見交換が行われていた筈なのだが、いつの間にやらこの有様である。 (本気になった二人に口を挟める様な勇気のある人は居ませんねー) きょろきょろと周りを見渡せば、皆気まずそうに下を向くばかり。 それこそ主である曹操―――華琳本人か、もしくは“彼”くらいしか居ないのではないだろうか。 春蘭ではそもそも話を理解出来ないし、秋蘭では分かっていても放置するだろう。 (そう言えば、お兄さんは今日から現場復帰でしたねー……惜しい) いっその事、始まる前に引っ張ってでも連れてくれば良かったか。 稟はともかく、桂花は確実に良い顔はしないだろうが、あの恐れを知らない性格は抑え役としては打ってつけだったろうに。 (何せ華琳さまにすら言いたい事あっさり言いますからねー) 無論、直言諫言は臣下の義務だが、一刀の場合はそれを軽く乗り越えている。 本来命懸けの筈の行為を、まるで夕食の提案でもするかの様に気楽に行うのだ。 それでいて無責任なのかと言えば、そうでもない。それが分かるまでは稟共々、随分と気を揉んだものだが。 (華琳さまは華琳さまで、それを愉しんでらっしゃるご様子ですしー) 見えざる信頼感―――むしろ絆とでも言うべき何か、二人が積み重ねた時間の長さを思い、風は軽い胸の痛みを自覚する。 その絆故に、少年はあの時、己が身を磨り減らす事を肯んじたのだろうか。 「また、無茶な事を考えてなければ良いのですけどねー……」 思わず漏れた呟きは、今尚続く討論に掻き消され、誰の耳にも届く事は無い。 その筈だった。 「――――――無茶ってのは、何がだ?」 「……? あ、お兄さん……!?」 突然掛けられた背後からの声に、風は心底からの驚きと共に振り返る。 見上げれば、丁度先程まで考えていた顔―――苦笑を浮かべた一刀が、喧々囂々と遣り合う二人を眺めていた。 周りが見えていないのか、桂花と稟が気付いた様子は無い。 「状況がいまいち良く分からんが……あっちは一進一退か?」 「………はい、そーですねー。お二人とも間違ってはいないので……中々難しいのですよー」 「ふぅん、そんなものかね」 そこだけが妙に熱気を放つ卓に眼を向けながら、一刀は首を捻る。 今来たばかりだから詳しい内容が分かる訳は無いが、こちらの事情はある程度聞き知っているのだろう。 どうやら、自分の驚愕は悟られてはいない様だ。その事実に安堵しつつ、風は一刀に問い掛けた。 「ところでお兄さんはどうしたんですかー? いつもならこんな場所には来ませんよねー?」 「ああ……まあ、別にこれと言って用は無いんだけど。ちょっと思うところがあったんで顔出してみただけ」 「そうですかー」 「………迷惑だったかな?」 多少の遠慮があるのか、一刀はやや自信無さげに言葉を紡ぐ。 その表情に、少しばかり風の悪戯心が疼いた。 「いいえー、風は大歓迎ですよー。どうせ蚊帳の外でしたしー………よいしょっ、と」 言いつつ、空いていた椅子に座った一刀の膝に風が腰掛ける。 突然の行動に驚いた様子だったが、それでも拒まれる事は無かった。 「………何、これは」 「おや? 確かお兄さんの国の言葉では“あぴーる”というのでは無いでしたかー?」 「アピールって……いや、会議中だろ」 「勃っちまうかい?」 「こら!」 直接的な宝ャの物言いに突っ込みは入れるものの、それ以上は強く言ってこない。 それを嬉しく思う反面、何処か物足りなくも感じてしまう。 我ながら勝手なものだと考えつつも、風は先刻までの憂さを忘れていた。 「むー……お兄さん、焦らし上手ですねー?」 「……意味が分からん」 そのまま落ち着いてしまった二人の視線の先では、未だに桂花と稟が討論を続けている。 語勢は既に罵り合いにも近い激しさだが、理論はどちらも終始一貫しているのが逆に空恐ろしい。 「むーん……安全を取るのであれば稟ちゃんの主張に沿って徐々に懸案事項を潰していくべきですけどねー。  ただ、各地の勢力の動きを考えれば、平定にそれほど時間を掛けられないという事情もありますしー。  ……何か、上手く纏められる方法が有れば良いのですけどー」 一刀の膝の上で、風は思案げに溜息を吐く。 「………そうだな、難しい問題だ」 首を上に向ければ、彼もまた眉間に皺を寄せて黙考していた。 その左目の下を走る痕が、奇妙なほど生々しく見える。 (………また) その顔が、風の心に漣を立てる。 以前、風が指摘した事。一刀が無茶を考えている時の、静かで暗い、もう一つの貌。 まただ。また自分の前で、こんな顔をする。 その事実に、何故か口惜しさが募った。 「………はぁ、いい加減喉が渇いてきたわ。誰かお茶を―――って、何してんのよあんた!!」 「かか、一刀殿!? ひ、人が議論している間に風と一体何を!?」 流石に疲れてきたのか、一旦矛を収めた桂花と稟が、一刀達に気付いて素っ頓狂な声を上げる。 両者の視線の先には、椅子に座る一刀と、その膝に小柄な体を預けた風。 少なくとも、今この場において二人が言い訳御免な状態である事は間違い無かった。 「え、いや、これは……」 「……いえいえー、別に風達はお二人の邪魔は致しませんのでー。お好きなだけ不毛な議論してれば良いのですよー? むふ」 それでも何か抗弁しようとした一刀を遮り、口許に手を当てた風は意図的に艶のある笑みを浮かべた。 桂花と稟はその表情に一瞬だけ気圧されたが、即座に体勢を立て直して反論してくる。 「ふ、不毛とは何よ! 議論にも参加せずにこんな種馬と何やってるのよ!  それと北郷! そもそも何であんたがここに居る訳!? 誰の許可を得て私の目の前に存在してるのよ!?  馬鹿で愚鈍でどうしようもないあんたがこの席に座って得でもあるの!?」 「か、一刀殿の評価はともかくとして、居るなら居ると言って頂ければ……お人が悪いですね、全く」 「そーですねー、お兄さんはとんでもない悪党ですねー」 「さらりと何を言ってるのかな君は」 先程までとは打って変わり、気の抜けた空気が部屋に漂う。 (………少し、解れましたかねー?) 膝の上で尚も妖しい笑みを維持しつつ、風は心の中でだけ頷いた。 桂花も稟も少しは頭が冷えたのだろう、何処かばつの悪い表情を浮かべている。 少なくとも、あのまま止め処無く議論を繰り返すよりは良いだろう。 周囲の文官達も、何処かほっとした表情を見せていた。 (やっぱり、お兄さんはこういう時に打ってつけですねー) うんうん、と風は己が卓見に一人悦に入る。 一刀は一刀で、事情が掴めないなりに空気が変わった事は察したのか、軽い笑みを零していた。 「ちょっと! あんた、何一人だけ関係ありませんみたいな顔してへらへら笑ってんのよ!  少しは自分の立場ってものを考えなさいよこの変態! 種馬!! 全身精液脳天噴出男!!!」 「………ああもう。うるせぇなぁ、このネコミミ頭巾は」 「何ですってぇ!?」 気炎を上げる桂花に、一刀はやれやれと殊更に溜息を吐いてみせる。 「……くくっ」 そんな二人のやり取りに、稟がそっぽを向いて笑いを堪えている。 「……やれやれー」 見上げた一刀の顔は、穏やかだった。 これで良い。彼に暗い顔は似合わない。考えるのは、考える事しか出来ない自分達の役目だ。 ―――もう少しだけ、この暖かさを堪能してから動き出そう。 そう思い、風は密やかに、先程よりも深く一刀の胸に体重を預けた。 隻腕の御遣い 六 …後編に続く