「ええい、何しとん! 雑魚に構っとらんでしっかり機を見ぃや!」 ひび割れた荒野に、叩き付ける様な叱咤の声が木霊した。 (ちっ、迂闊やった……まさか豪族の兵力を丸ごと囮にしよるとは) 手綱を引き、愛馬を疾駆させながら霞は喉の奥で唸る。 斥候からの報告を受け、地方軍の一部隊と対峙していた叛徒の集団へ横殴りの強襲を掛けた。 絵に描いた様な横撃。そこまでは良かったが、それに対する反撃は霞の予想を大幅に裏切った。 壊走する叛徒を追い討った騎馬隊は、次第に原野から遮蔽物の多い荒野へと移動し――― 直後、罠に誘い込まれた事を悟った。 獲物を追い詰める狩人の様に、岩陰に潜んだ伏兵が徹底して中距離からの射撃を加えてくる。 騎馬の機動力は十全には活かせず、伴った歩兵は敗北に慣れた地方軍の寄せ集め。 敵もまた烏合の衆には違いあるまいが、伏撃を仕掛けてきている連中は明らかに毛色が異なる。 「――――邪魔やぁっ!!」 いつの間にか反転して攻勢に加わっていた叛徒の一兵を切り捨て、霞は戦況を分析する。 伏兵によって生じた混乱に乗じ、叛徒の一部が延びた戦列の後方にも攻撃を仕掛けていた。 (このままやと、包囲される) 確かに、最初はたかが賊徒でしかないと侮っていた。だが、それも戦が始まるまでの事だ。 戦う以上、中途半端は性に合わない―――完膚なきまでに叩き潰すつもりで仕掛けた。 (ウチが甘かった、ちゅーこっちゃな) 歴戦の武将としての矜持が、自身の失策を冷静に受け止めている。 今にして思えば、あの無様な壊走も、その後の追撃も、敵は全て折込済みだったのだろう。 一撃で決める手筈だった為に、殊此処に至っては後手に回り過ぎていた。 「張遼様! これ以上は歩兵が保ちません!」 傍に侍っていた騎馬の一人が、鋭く戦況を伝えた。 霞の本領は原野における蹂躙戦である。 歩兵の扱いは弁えているとは言え、今の地方軍は正規軍と比べて余りにも錬度に差が有り過ぎる。 既に策を練る時間も、ここから逆転する芽も無い。 ならばと、霞は胆を決めた。 「………しゃあないな。――――総員、後退や! 殿はウチと直属部隊に任しとき!  騎馬隊の半分は先行して退路を確保! 急げや!!」 「……了解! 総員、後退せよ! 後退ーーーっ!!」 撤退の合図である太鼓が鳴らされ、同時に騎馬隊の一部が突出して間近に迫った敵を二つに切り裂く。 流石に正規兵、それも張遼旗下の精鋭が相手では支えられる筈も無く、包囲に綻びが生じた。 「今や!!」 飛龍偃月刀を振り回し、纏わり付く雑兵を薙ぎ払った霞が叫ぶ。 櫛が欠ける様に削れていく敵陣のもっとも脆い箇所へ、先行した騎馬隊の全兵力を叩き付けた。 更に拡がった綻び目掛け、死に物狂いの歩兵が殺到する。 (良しっ、抜けた………っ!?) この場は凌いだ―――そう確信した瞬間。 敵陣へ食い込んだ楔の先端が、巨大な圧力に粉砕された。 木っ端の様に蹴散らされた先鋒が宙を舞い、起死回生の突進が力を弱める。 「んな、阿呆な――――」 その先に、霞は見る。 「嘘や――――」 戦塵の向こう、血煙の帳を破り裂いて、漆黒の刃先が舞い踊る。 「あれは―――――」 褐色の影が跳ねる度、騎馬が、歩兵が、まるで冗談の様に打ち倒されていく。 「まさか――――――――」 刹那、両断された陣形を飛び越え、真紅の瞳が霞を射抜く。 「―――――――――――――恋ッッ!!!」 魂削る咆哮は、虚しく空へと吸い込まれた。 隻腕の御遣い 五 後編 朝議の席より数日が経ち、変わり無き許都の城内。 その中庭の片隅に動く影が一つ、無心で木刀を振るっている。 影には、片腕が無かった。 「………しっ!」 隻腕の少年―――北郷一刀は、摺り足から一気に跳躍した。 呼吸は鋭く一瞬。大きく刀を振る事は無く、速く小さな打撃音が小気味良く響く。 あの日以来、単独での外出を禁止されてしまった為、今ではここが一刀の訓練場所だった。 今まで使っていた物より少し短い木刀を持ち、半身の体勢から地面に立てた丸太へ打ち込みを行う。 より現状に即した動作を追求していく内に、一刀の動きはそれまでの主体だった剣道のものでは無くなっていた。 腰を落とし、深く身を沈め、よりコンパクトな振り抜きで丸太を数度、斬り付ける。 一撃、二撃、三撃と連続する響きに、一刀はふと懐かしさを覚えた。 (爺ちゃん、か) もはや戻れるかどうかも分からない元の世界で、祖父と修行を重ねた日々。 当時は全く捉える事の出来なかったその動きも、この世界の武将達と比べればまだ常人の域を超えてはいない。 望まずも戦いに身を投じ、超人的な戦闘の数々を目の当たりにした事で、それを理解出来る様になった。 (幾ら強いからって、流石に“氣”だの何だのはどうにもならないしな) 下手に武将と渡り合おうとしても、結果はこの左腕の二の舞である。 だからこそ今の一刀にとっては、祖父の動きこそがやはり目指すべき位置として最適と思えた。 (必要なのは、技術だ) 前に一度、華琳の戯れで春蘭と手合わせをした時の事。 曹操軍が誇る最強の武将が繰り出す攻撃を、一刀は曲がりなりにも防ぎ続けていた。 あれは即ち、体力はともかくとして、現代の技術がこの時代にも通じるという証左だ。 記憶の中にある動きと、かつて身体に叩き込まれた動きを重ね合わせ、一刀は尚も動き続ける。 決して激しくは無いが、奇妙な重心移動によって緩急の付いた体捌き。 通常よりも短い柄を操る指先が、その隻腕が振るわれる度に目まぐるしく変化する。 以前は習慣的に発していた気合の声も、鍛錬を続ける内にいつしか出さない様になっていた。 鋭く深く、一瞬で息を吸い、突き、薙ぎ払い、唐竹と攻撃を連続させる。 「――――ふっ!!」 最後に手の中で柄を回し、逆手持ちから逆袈裟気味に斬り上げる。 一気に振り抜き、斬撃が丸太を穿った瞬間、限界を迎えた木刀が音を立ててへし折れた。 振り切った姿勢のまま、手に残った柄を握り締めていた一刀は、長い呼気の後で静かに残心を解く。 「…………」 丸太には、無数の傷跡と、最後の一撃による一際大きな太刀筋が刻まれていた。 「………ふぅ、折れちまったか。また新しいの作らないとな」 折れた柄を弄びながら、一刀は今までの動きを反芻し、手応えを掴んでいた。 以前は皮が破れ、マメだらけになっていた掌も、鍛錬を繰り返す内に硬く、強くなっている。 (身体の調子は戻った―――後はまあ、出たトコ勝負だな) 肌を露にした上半身は、湯気が立ちそうなほど大量に汗を掻いている。 ふと空に眼を向けてみれば、既に陽が傾き始めていた。 (井戸で汗でも流すか……それからメシだな) 地面に放り出していた上着を取り上げ、歩き出そうとした矢先。 「………お?」 ふらり、と一刀の視界が揺れた。 「と、とと」 堪えたのも束の間、そのまま一刀は腰を落としてしまう。 「―――――あー」 立ち上がろうにも、身体に力が入らない。 呆然と落ちていく陽を眺めていると、不意に横合いから声が掛かった。 「………何してるんだ、北郷」 「あ、華佗」 顔を向けると、赤髪の青年医師が呆れた様な表情で立っていた。 「…………ふぅ」 手元の竹簡から眼を離し、華琳は軽く息を吐いた。 「お疲れですか? 華琳さま」 同じ様に書類へ眼を通していた秋蘭が、柔らかく問い掛けた。 城奥の執務室には、華琳と秋蘭の二人だけしか居ない。 「お茶でも如何ですか?」 「……そうね、お願いするわ」 「畏まりました」 席を立った秋蘭が、別室に備え付けられた小さな竈へ向かう。 その背を見るとも無しに眼で追いながら、華琳は背凭れに深く沈み込んだ。 窓からは黄昏時の赤い光が差し込み、部屋全体を紅に染め上げる。 全身を朱に浸したまま、華琳は数日前の会話を思い返していた。 『北郷の復帰?』 『ええ』 『そうだな……。肉体の傷は既に完治しているし、精神的にも何ら問題は無い。  復帰するだけなら、十分に可能だろうな』 『うわーい!』 『こら、季衣! 話の邪魔しちゃ駄目でしょ! す、すいません、華琳さま、華佗さん』 『良いわ。………そう。復帰は、出来るのね』 『ああ。君さえその気なら、という話だが』 『………どういう、意味かしら?』 『それは君が一番良く分かっているだろう? 俺は医者だ。患者の事以外は分からんさ』 『………………』 結局、華佗はそれ以上何も言わず、微妙な雰囲気のまま話は終わった。 確かな事は、一刀の復帰については何の問題も無いという事だけだ。 ただ、それを季衣や流琉の様に、無邪気に喜んでばかりもいられない。 (この曹孟徳ともあろう者が、ね) 一刀と出逢ってから、同じ想いを幾度抱いただろうか。 良くも悪くも、北郷一刀という男は他人への影響力が強い。 春蘭や秋蘭はおろか、あの桂花でさえも、一刀を相手にした時は余人とは反応が違うのだ。 そしてそれは、華琳自身についても同様と言えた。 「………全く、困った男ね」 呟きには、自嘲とそれ以外の何かが入り混じっていた。 「どうかなさいましたか? ………おや、これはこれは」 茶器一式を提げて戻ってきた秋蘭が、華琳の手元に視線を落として含み笑う。 「? どうしたの? 何がそんなに………え?」 秋蘭の視線を追って自らの視線も手元に移せば、そこには―――― 「―――北郷、ですか。成程、華琳さまの御手を拝見するのも久しぶりですが、やはり達者なものですね」 「〜〜〜〜〜っ!?」 開かれたままだった紙面に、一刀の顔が描かれていた。 どうも考え事の最中に、弄んでいた筆で無意識の内にやらかしていたらしい。 「おや、勿体無い。不要でしたら、私に頂けませんか?」 思わず握り潰そうと伸ばした手が、秋蘭の一言でぴたりと止められた。 「………」 横目で秋蘭を睨めば、眼を細めた秋蘭が微笑を浮かべている。 長い付き合いだ、からかっているのは明白だが―――そこに、幾らかの本気が透けて見える。 このまま思惑に乗ってしまうのも、何となく癪だった。 「………手慰みだもの。別に、このまま捨て置くわ」 「そうですか? ……ふふ、ご随意に」 ほんの少しだけ残念そうに、秋蘭は笑みを収めた。 沈黙の中、茶器を用意する硬質の音だけが部屋に響く。 その音を耳に浸しながら、華琳はぼんやりと紙の上の一刀を見つめる。 それはあの日、眼に焼き付いた姿のまま―――初めて出逢った頃より少し髪が伸び、少し精悍さを増した顔。 そして、自分を守った代償を刻んだ、その横顔。 「―――華琳さま、お茶が入りましたよ」 「………ええ、有難う」 音も立てず、目の前に茶器を置く秋蘭。 その視線もまた、此処には居ない誰かを見つめる様に、紙の上に据えられていた。 「……北郷の復帰に、何かご不安が?」 席に戻った秋蘭が、ごく控えめに促した。 元々、強いて出過ぎる性質では無い。それだけ華琳の懊悩が外に出ていたという事なのだろう。 だから、この年上の臣下には、僅かでも素直な心情を零す事が出来た。 「………そうね。無いと言えば、嘘になるのかしら」 「………」 途切れる声にも、秋蘭は急かさない。 こんな時でも薫り高い茶で唇を湿らせ、華琳は更に言葉を紡いだ。 「このまま復帰すれば―――また一刀は、あんな無茶をしないとも、限らないから」 「………」 目覚めてからの一刀を見ていれば分かる。 とても奇妙な事ではあるが、恐らく彼は自分が許せないのだろう。 無力な自分が。何も出来なかった自分が。 そうでは無いと。無力などでは無いと否定してやりたくても、彼は首肯しないだろう。 分かってしまうのだ。華琳もまた、自分自身を許せないから。 「おかしなものね。この曹孟徳がここまで悩む事があるのだなんて」 「………」 「今までどれだけの部下を得て―――失ってきたのか、分かっている筈なのに。  覇道という業がどんなものであるのか………知っていた、筈だったのに」 「……いえ、華琳さま。それは、違います」 今まで黙って聞いていた秋蘭が、初めて口を挟んだ。 「違うとは、どういう事?」 「僭越ながら―――私は嬉しく思っております。華琳さまが、その様にお心を明かして下さる事を」 「………」 「そして、それは私や姉者では成し得なかった事。その事に忸怩たる想いは御座いますが……。  北郷が華琳さまを変えてくれたのであれば、私はそれを喜びます」 「…………秋、蘭」 「存分に思い悩まれれば良いと思います、私は。  その上で、華琳さまには己に背かぬお答えをお出し頂きたい。  ―――もっとも、一時の気の迷いはどうあれ……華琳さまは既に決めておられると、私は思っておりますが」 絶対の信頼と親愛を込めて、秋蘭は断言する。 「………………」 それには応えず、華琳は立ち上がると、既に夜の帳が降り始めた窓辺に歩み寄った。 中庭に眼を遣れば、配置された灯篭に火が点された情景と、風に揺れる漆黒の樹影が見て取れる。 そのままゆっくりと視線を流していくと、視界の片隅に、見慣れた姿がぼんやりと浮かび上がった。 「…………一刀?」 「え?」 秋蘭の声も遠く。 華琳の視線は、背の高い誰かと共に居る一刀の姿に釘付けになっていた。 「疲労だな」 「うぐ」 「全く、お前は眼を離すとすぐに無茶をし出すな。曹操にも叱られていただろう」 「………ぅ〜、面目ない」 処変わって、一刀の自室。 寝台にうつ伏せた一刀の背に鍼を打ち込みながら、華佗は何度目になるか分からない釘を刺していた。 「傷が塞がり、体力が戻ったとは言え、今のお前の身体は以前とはまるで違うんだ。  集中している内は良いが、それをしっかり自覚しておかないとまたいつ何時均衡が崩れるかも分からんのだぞ」 「ああ、分かってる……くぅ〜」 華佗が鍼を打つ度、一刀の口から意識しない呻きが漏れる。 生返事を繰り返す一刀の身体は、確かに二ヶ月前とは比べ物にならないほど回復していた。 しかし、医者として患者の無茶を許す訳にはいかない。そういう意味では、一刀は余り良い患者ではなかった。 (動ける様になったのもそうだが、心の方もここまで順応が早いとはな) 呆れると同時に、華佗は感心してもいた。 実際、肉体の一部を喪った人間というのは、良くも悪くもその部分に執着するものだ。 しかし一刀の場合、そうした未練や後悔といったものがすっぱりと欠落していた。 (初めは無理をしているのかと思ったが―――) どうやらそうでもないらしいというのは、然程長い付き合いでは無いが良く分かった。 直接の原因となった華琳に対してもわだかまりは無く、むしろ彼女に対する気遣いすら見える。 それさえも特別な事ではなく、周囲にはむしろ一刀ならば当然という捉え方をされているのも理解出来た。 「そろそろ復帰しても良いかと思っていたが……こんな事ではまだ許可は出せんかな?」 「そうかぁ………って、ええ!?」 何気ない華佗の呟きに、一刀は思わず身を起こした。 「こら、大人しく寝ていろ。まだ治療中だ」 「いや、今復帰って! 復帰して良いのか!?」 「良いから寝ろ」 「うお?」 首筋に鍼を打ち込むと、騒いでいた一刀が再びうつ伏せに倒れた。 何とかもがこうとする背中に手を当てると、まだ気血が滞っている箇所が感じられる。 「な、なぁ華佗! 今の……本当なのか?」 「ああ、もう身体そのものには何の問題も無い。予想していた後遺症も幻痛も、どうやら発してはいない様だしな。  妙な話だが、お前は自分の腕に全く未練が無いらしい」 「じゃあ!」 「だが、こんな無茶を続ける様なら少し考えなければならないな」 「しない! しないから! だから頼む!! ………うぐぁ」 背骨に沿う様に鍼を打ち、指先で気の流れが整っていく様子を具に感じ取る。 「安心しろ、もう曹操には言ってある。………後で、自分から伝えに来るだろうさ」 「え?」 「――――必察必治癒、疲労回復! げ・ん・き・に・なれぇぇぇぇぇぇーーーーーっ!!!」 「―――――――ッ!!」 最後に一点、氣を込めた鍼を打ち込み、華佗は大きく息を吐いた。 電撃を受けた様に引き攣っていた一刀の全身から、徐々に力が抜けていく。 「……お、終わった………のか?」 「ああ、完了だ」 「はぁ〜〜……」 一刀が詰めていた息を大きく吐き出す。 その背に当てた掌から一刀の気脈が正常に戻った事を確かめ、華佗は鍼を仕舞い始めた。 「………なぁ、華佗」 「ん? どうした?」 敷布に横顔を埋めた一刀が、治療道具を片付ける華佗に声を掛けた。 「お前、これからどうするんだ?」 元々、華佗は一刀の治療の為に、華琳が無理に留め置いていたのだ。 その一刀が復帰する以上、華佗自身にはこれ以上ここに居る理由は無い。 知り合ってから二ヶ月、周囲に対等な同性が居ない一刀にとって、華佗は気の置けない友人の様なものだった。 それは華佗にとっても同じだった様で、要するに二人は気が合ったのだろう。 「そうだな……。まあ、また前みたいに旅の空に戻るさ。  俺の―――五斗米道の助けを必要としている人は、何処かに必ず待っている筈だからな」 これまでと同じ様に、華佗は旅を続けるつもりらしい。 怪我や病に苦しむ人々を救う為に、五斗米道の教えのままに。 暫しの沈黙が流れ、部屋にはただ淡々と後始末の音だけが響く。 それも止んだ頃、一刀が再び口を開いた。 「華佗」 「………? 何だ、いきなり」 殊の外真剣な口調に、華佗はほんの少しだけ不審そうな顔をする。 一刀は静かに、しかし焦がす様な熱を込めた声で、命の恩人である青年医師へと切り込んだ。 「―――――俺に、協力してくれないか」 「………何?」 壁の灯が、吹き込む風に強く揺らいだ。 「総員、構え! ――――――魚鱗っ!」 号令一下、鼓の音と共に完全武装の兵士達が陣形を組み替える。 瞬く間に変化した陣構えをつぶさに観察しながら、春蘭は更に声を張り上げた。 「遅いっ! 戦場で敵は待ってくれんぞ! ――――――鶴翼っ!!」 その叱咤を反映する様に、兵士達は更なる速度を以って将軍の命令に応える。 「ふむ、まあまあと言ったところでしょうか」 指先で眼鏡を抑えながら、閲兵台に立った稟は静かに裁定を下した。 許都郊外の原野に設けられた演習場にて、現在は見ての通り陣形演習の真っ最中である。 既に陽は中天に座し、まだ払暁の内から始まった調練も早十刻に及ぼうとしている。 「そろそろ終了しておいた方が宜しいですかねー? 兵士さん達もヘトヘトですしー」 「……風は、自分が眠いだけでしょう?」 「ぐー」 「寝るなっ!」 「………おおっ」 律儀に突っ込みを入れてから、稟は春蘭に向き直った。 「如何でしょうか? 風の言う通り、そろそろ兵士の集中力も限界かと思いますが」 「そうか………良し、総員集合! 集合ーーーーっ!!」 打ち鳴らされた終わりの合図に、兵士達は最後の力を振り絞って整列する。 一糸乱れず並んだ兵卒を前に、春蘭が大音声を発した。 「皆の者、ご苦労! これにて本日の大調練は終了する!  常に曹操軍の一員たる誇りを忘れぬ様、今後も各員一層の奮励努力を期待する!!  ―――――以上、解散!!」 春蘭の宣言に、居並んだ兵士達から快哉が飛ぶ。 ぞろぞろと隊ごとに撤収していく兵を尻目に、閲兵台の重鎮達は事後処理の準備を行っていた。 「うーむ、やはりこういうのは苦手だ……秋蘭が居てくれたらなぁ」 戻ってきた春蘭が、苦虫を噛み潰した様な顔で呟いた。 「上手に出来ていたではありませんか、何も問題はありませんよ」 「むむぅ……」 「まー、後ろ手に“めも”を隠していたのはどうかと思いますけどねー」 「うううう、うるさい! 仕方ないだろう!? ええい、あんな長ったらしいのが悪いんだ!」 頬を真っ赤にして喚く春蘭に、稟と風が顔を見合わせて苦笑する。 「……春蘭殿の記憶力については置いておくにしても。  何にせよ、これでようやく先の戦いの補充が付いたというところですかね」 「そーですねー、後は………」 ちらり、と二人は春蘭の握り締めた小さな紙片を見遣った。 共に同じ少年の顔を思い浮かべたのだろう、稟が咳払いして姿勢を正した。 「……か、一刀殿も、そろそろ復帰を考えねばならない、というところでしょうね」 「うふふー、誰もお兄さんの事だなんて言ってないんですけどねー?  全くもう、稟ちゃんは正直さんなのですー」 「べ、別に私は特に深い意味を込めた訳ではなくてですね!?」 「声が裏返ってるぜぃ?」 「ぐっ……」 「まあ良からぬ妄想を逞しくしてしまう稟ちゃんであれば不思議はありませんけどねー。  この前の書庫でもー」 「そ、それはもう良いでしょう!?」 悲鳴に近い声を上げて、稟が風の口を塞ぎに掛かる。 風はされるがまま、目元だけでにやにやと笑っていた。 「んん? 二人とも何をやってるんだ?」 じゃれ合う二人の様子に、春蘭が不思議そうに首を傾げる。 「と、とにかく! 我々も早く撤収の準備を……」 業を煮やした稟が、強引に場を収拾しようと腕を振り上げる。 そこへ、息せき切った早馬が到着した。 「もっ、申し上げます!」 「何だ!」 「はっ! 先程、演習場より約半里の地点にて―――」 「前置きは良い! 何が起こった!」 「ちょ、張遼様が! 張遼様がご帰還され……!」 「……何ぃ!?」 「霞殿は今、常山へ向かっていた筈では…!?」 「何かあったのですかねー?」 「と、とにかくこちらへ!」 「分かった!」 伝令兵に先導され、三人は霞の待つ場所まで急行する。 少し馬を走らせたところで、地べたに直接座り込んだ一団と、その中心にしゃがみ込んだ青髪の武将の姿があった。 「あれか!?」 「霞殿ー!」 「霞ちゃーん」 「おー……自分らかー……イチチ」 全身至る所に包帯を巻いた霞が、顔を顰めながら三人を迎えた。 「な、何があったのです? 霞殿」 「ま、詳しくは華琳の前で話すわ……ちぃとばかし、厄介な事が起こってん」 「厄介……?」 「ん、せやな……うん」 言葉を濁した霞が、よろめきつつも立ち上がった。 苦痛を押し殺し、無理に笑顔を作ってみせる。 「とにかく、一旦帰ろや……ウチらの大将んトコに、な」 霞の突然の帰還から一夜明けて。 「………」 自室の寝台で、一刀は現場復帰当日の朝を迎えていた。 閉ざした瞼の裏側で、昨日の出来事を思い返す。 (呂布――――か) 黒山賊に、呂布の姿有り。 霞のもたらした凶報に、緊急招集された重臣の面々は驚愕の渦へと叩き込まれた。 かつての戦友と矛を交えた霞は、傷を圧して自ら報告に駆け付けたのだ。 その霞も、今は華佗の治療を受けて安静を言い渡されている。 『他の奴ならともかく―――ウチが、恋を見間違う筈が有らへん!』 今にも泣き出しそうな程に切羽詰った声で言い募る霞に、華琳は決断を下した。 即ち、黒山賊に対する対応は“懸案事項”ではなく、れっきとした“即時対処”――― 軍事行動の必要へと、格上げになったのである。 (何にせよ、状況に余裕は無い) だからこそ、という訳でも無いのだろうが、復帰とそれが重なった事には、多少の皮肉も感じた。 一刀が腕を失った原因、その一端には存在するであろう武将の影。 その姿を脳裏に思い描き、一刀はゆっくりと眼を開いた。 「さて、そろそろ行くか」 復帰に際しては、玉座の間で華琳から直々に言葉を賜る事になっている。 大仰にしたくない、と一刀自身は固辞したのだが、あの金髪の少女の言葉に抗える訳も無い。 寝台から降りた一刀は、簡単に身支度を調える。 相変わらずの惨状を呈している床を勝手知ったる足取りで進み、衣服が置かれた棚へと歩み寄った。 黒いズボンは以前のままに、右手だけでも手馴れた調子でベルトを通す。 上に着た黒いシャツは、負傷の際に左袖が千切れ飛んだ為、どちらも切り取って今は袖無しになっていた。 更にその上から当世風の長衣を羽織り、支度は完了となるのだが――― 棚に収められた長衣を取ろうとしたところで、不意に部屋の扉が開いた。 「たーいちょっ! おっはよーなのー!」 「へへー、隊長おはよーさん」 「おはようございます、隊長」 入り口から、見慣れた三つの顔が現れた。 「ああ、お早う三人共。つーか、ノックしろノック」 「えへへー、ごめんなのー」 「まーまー、固いコト言いっこなしやって。しっかし相変わらずきったない部屋やなー」 「……すいません、止めたのですが」 棚に伸ばした手を引っ込めつつ、一刀は横目で入ってきた三人を見比べた。 凪はいつも通りだが、沙和と真桜が何故か大荷物を背負っている。 「放っとけよ。で、何、こんな朝っぱらからどうした? 今日から復帰だってのは知ってるだろ?」 「何や冷たいわー、んなのは承知の上やって。たーだー」 「えへへー、そーのーまーえーにー」 「……二人とも、隊長が引いてる」 何が嬉しいのか、妙ににやついている二人を凪が諫める。 一刀もようやく三人に向き合い、その顔を順繰りに見直した。 「で、何かあるのか?」 「………ほら。真桜、沙和」 「う、うん。えーとね、そのねー?」 「せやからー、そのなー? えーとえーと」 「……ええい此処まで来て鬱陶しい! ―――隊長。この二人から、復帰のお祝いに贈り物があるそうです」 「な、凪ーー!?」 「そ、そんな直球なのー!?」 「………お祝い?」 心底不思議そうな一刀の言葉に、真桜と沙和が恥ずかしげに頷いた。 「ホンマはもーちっと焦らそ思っとったんやけど……ま、えっかー。  ―――ほな隊長、まずはウチからのお祝いや。遠慮せんでぽーんと受け取っときー!」 照れを隠す様に捲くし立てた真桜が、無造作に机の上の竹簡やら書物やらを蹴散らし、持っていた包みを置いた。 「いや、お前な………まあ良いや。で、真桜の贈り物ってのは」 「んっふっふー、見て驚くなやー………じゃじゃじゃじゃーん!!!」 妙な効果音と共に開かれた包みの中から、ごろごろと硬質な何かが転がり出てくる。 金属で作られた筒状の物体や、掌大の球など、幾つかの種類があった。 「………何だ、こりゃ」 「真桜さま特製、護身用絡繰七つ道具や!」 「護身用?」 「せや。まー聞くより見た方が早いやろ。隊長、その筒取ってぇな」 「あ、ああ」 言われるがまま、一刀は真桜の指差した筒を手に取った。 筆くらいの大きさの筒には妙な出っ張りと、尻の部分に玉紐がくっ付いている。 「んで、ソッチに筒先を向けてな? その出っ張りをポチッとな」 「ポチッとな」 指示通りに壁に筒先を向け、親指で出っ張りを押し込む。 その瞬間、筒先から飛び出した何かが、壁に深々と突き立った。 「……っておい! 危ねぇ!」 「おー、良く飛んだのー」 「これは……暗器、か?」 「ちゃうちゃう、絡繰やっちゅーに。真桜さま特製護身用七つ道具の壱『李典懐箭(りてんかいせん)』や」 「……成程」 えっへんと胸を張る真桜を、一刀は改めて見返した。 その名の通り、ごく短い矢が筒先から飛び出す絡繰の様だ。 「まず棒矢を入れてな? そんで、その玉紐を音が鳴るまで引っ張ったら準備完了や。  基本的には懐に忍ばせとく必要があるねんから、装填状態なら矢も落ちひんで。  まあ、その分あんまし射程は無いねんけど……」 指先を大きな胸の前で合わせながら上目遣いに説明する真桜に、一刀は笑い掛けた。 細部に違いは有れど、この絡繰の元になったアイデアは以前に一刀が話した現代の武器だ。 この時代の技術で再現してしまった真桜も凄いが、一刀はむしろ、彼女がそれを活かしてくれた事に驚きを感じていた。 「……凄いな、真桜。前にした話、ちゃんと覚えててくれたんだ」 「べ、別にそういう訳や、あれへんけど……」 頬を真っ赤にしてそっぽを向いた真桜の頭を、一刀は優しく撫でた。 ざっと見る限り、ここにある“七つ道具”は全て、右手だけで扱う事を前提にした物ばかりだ。 馬鹿な隊長が無茶をしでかした時の為に、真桜はそれを考えた上で製作してくれたのだろう。 その心遣いが、一刀の心に染みた。 「ありがとな、真桜」 「………へっへへ、他にもあるねんから、ちゃんと使ってや?」 「ああ、有り難く使わせて貰うよ」 何処か暖かく、柔らかな雰囲気に包まれる二人。 「………はいはいはい、良い雰囲気のところ真に申し訳ないけどー。  沙和のもあるんだから真桜ちゃんはさっさと退くのー!」 その間に、頬を膨らませた沙和が割り込んだ。 「ああんもー、沙和〜」 「そういうのは後でやれば良いのー! 時間無いからちゃきちゃき行くのー!」 「……そう言えば、沙和も何かあるんだったな」 「ひどいのー! 隊長忘れてたのー!?」 「いや、忘れてないから。大丈夫だってば」 疑わしげな眼で睨んでくる沙和に、一刀は軽く手を挙げて降参の意を示す。 「もー………んじゃ、気を取り直してー………こほん。  沙和からの贈り物はー、これなのー! じゃじゃーん!!!」 そう叫ぶや否や、沙和は後ろ手に隠した包みを開け、一気に中身を広げた。 「……おおっ!」 「……これは」 真桜と凪の口から驚きの声が漏れる。 「えっへへー、どう? 隊長、びっくりしたー?」 「………」 満面の笑みを浮かべる沙和が掲げ持った“それ”に、一刀は声も無く釘付けになった。 あの日、左腕と共に失ったと思っていたもう一つの物。 見慣れていた筈の造形が、不思議と懐かしく感じられた。 「―――――――――俺の、制服」 口から、我知らず呟きが漏れた。 この世界に来た時から来ていた、聖フランチェスカの制服。 一刀と共に戦塵に塗れ、血飛沫に汚れ、そして喪われた己が故郷の証。 千切れた筈の左袖も、戦場の細かな傷も、その全てが丁寧に修復されている。 それが今、目の前にあった。 但し――― 「………なぁ、沙和。これ、何で黒いん?」 「確かに……以前のお召し物は、確か白かったな」 「はぅ」 そう。 沙和の持つ一刀の制服は、意匠こそ同じだが―――その色が、かつてのそれとは正反対になっていた。 「実は……もう使えないからって、言われてたんだけど……。でも、何とかならないかなーって。  それで服屋さんと相談したの。千切れた左袖は何とかなるけど、染み付いた血とか汚れはどうしようもなくて……。  跡はどうしても残っちゃうから、いっそ黒く染めちゃって、そういうの目立たなくしちゃおうって。  ……ごめんなさいなの、隊長。隊長の服、ちゃんと直してあげられなくて」 一刀の沈黙をどう受け取ったものか、沙和は小さな声で申し訳無さそうに呟いた。 漆黒の制服を胸に抱いたまま、眼鏡の奥の大きな瞳が今にも決壊しそうに歪んでいる。 それを見た一刀は、おもむろに沙和の腕から制服を抜き取った。 「あ、隊長………」 「んーと……うわー、凄ぇ久々だなこの感触……」 三人が見守る前で、一刀は懐かしい感触に頬を緩めた。 多少難儀しながらも右袖に腕を通し、左袖は垂れるに任せ、以前と同じ様に前を留めて着込む。 着替えを終えて見下ろした自身の姿は、色以外はほぼかつてのままだ。 「んーーーー……何か、違和感有るなぁ……」 久しぶりに着た制服の、左側が軽い感覚がどうも馴染まない。 しかし腕が無い以上、どうやったところでこの感覚は容易に消えてはくれないだろう。 「どうしたもんかなー………あ、そうだ」 「え? え? 隊長?」 沙和の驚きには構わず、一刀は一度脱いだ制服を大きく広げ、打ち振るう様にして肩掛けに羽織った。 やや変則的だが、袖を通していない為、左腕の欠損だけが目立つ事も無い。 「お、ちゃんと留紐も付いてるのか」 右の胸元に結われた留紐を左胸のボタンに引っ掛け、そのまま外套の様に後ろへと流す。 その立ち姿に、三人の部下は思わず息を呑んだ。 「……どうかな? おかしくないか?」 一刀の問い掛けに、三人は慌てて首を横に振った。 「おかしくなんかないのー! すっごく似合ってるのー!」 「ふえー……やんなぁ隊長。ちょっとした伊達男やん………はふぅ」 「………っ! ………っっ!!」 沙和と真桜は感心した様に口を開け、凪は声が出ないのか真っ赤な顔でただ只管頷くばかり。 一刀は口の端を持ち上げ、沙和の頭も真桜と同じ様に撫でた。 「ありがとう、沙和。もう失くしちまったとばかり思ってたから………凄く、嬉しい」 「た、隊長………。ううう、良かったのー………本当はすっごく不安だったのー…………」 「良かったなー、沙和」 安心したのか、鼻を鳴らしながらも笑顔を取り戻す沙和。 真桜もまた、いつもの不敵な笑みを童顔いっぱいに浮かべている。 朝の光が差し込む部屋に、穏やかな空気が流れていた。 「………………」 「……凪?」 ただ一人、悲しげに俯いてしまった凪を除いては。 一刀の問い掛けにも応えず、凪は唇を噛み、強く拳を握り締めている。 「どうしたんだ、凪」 「―――――………っ、申し訳、ありません」 搾り出した言葉は、軋んでいた。 その沈痛な響きに、真桜と沙和も思わず眼を見張る。 「な、凪ー? ど、どないしたん?」 「凪ちゃーん…?」 気遣いの滲む二人の呼び掛けに、凪は激しく首を振った。 「………っ、す、すまない………っ。わ、分かっていたのに、私は……っ!  ごめんなさい、隊長………ごめんなさい、ごめんなさっ……」 声を詰まらせた凪の双眸から、ぽろぽろと雫が溢れ出す。 それを見た一刀が、慌てて凪の肩に手を掛けた。 「ま、待て凪、落ち着け! 一体何が…」 「わ、私は……っ、駄目な、部下です。  真桜と、沙和は、自分に出来る事で、隊長の御力になっているのに……っ。  自分一人、何も、何一つ、出来ないのが、悔しくて……っ!  今、だって……っ、隊長を、二人を、困らせてばかりで………っ!!」 必死に嗚咽を噛み殺し、たどたどしく言い募る。 その小さな肩に触れた右手を通して、凪の震えが一刀へと伝わってきた。 「……そないな事あらへん! 凪は誰よりも頑張っとったやないか!」 「そうなのー! 沙和も真桜ちゃんも知ってるのー!  凪ちゃん、隊長が居ない間も一番警備隊の事見てたの! 誰も気付かない所も、見過ごしちゃう部分も全部!  隊長がいつ帰ってきても良い様に、ちゃんと帰って来てくれる様にって!」 「真桜、沙和………で、でもっ! でも私は………っ!」 何も―――と、更に抗弁しようとした凪を、一刀は華奢な肩を少し強く握って遮った。 「……凪、それは違うよ」 「え……?」 「真桜や沙和の言う通り………凪が何も出来ないなんて、そんな事は無い。  例え凪自身が否定したとしても、それを認めてやる訳にはいかない―――絶対に」 「隊、長………」 呆然と見返す凪の頭を、一刀は掌でぽんぽんと優しく叩く。 そのまま指先で頬に残る涙の痕を拭い、静かに言葉を継いだ。 「俺はさ、弱くて情けなくて、ホントにどうしようもない隊長だけど………。  凪や、真桜や沙和―――皆が居てくれるから、こうして今でも立っていられるんだ。  これでも頼りにしてるんだぜ? だから、あんまり悲しい事は言わないでくれよ」 「あ、う………」 「ありがとうな、凪。それから真桜に沙和も。  腕を失くしちまった分、苦労は増えると思うけど………これからも宜しく頼む」 「た、いちょ………う、うう、うううう〜」 「ああああ、ほら、泣くなってば! 真桜、沙和! 二人ともどうにかし……げっ」 「う゛わ゛〜ん゛、だいぢょお〜!」 「ふえええええん! たいちょう、たいちょおー!」 一刀の言葉に、凪どころか、真桜と沙和までもが盛大に泣き出してしまう。 (全く、妙なところで似た者同士だな……) 頼もしい筈の部下達を必死で宥めながら、一刀は暖かい気持ちを胸の裡に感じていた。 「………落ち着いたか、三人とも?」 「ん、もう平気や………隊長、おおきに、な」 「えへへ……隊長、ごめんなのー」 「……お恥ずかしいところをお見せしました、隊長」 一刀の言葉に、ようやく涙を収めた三人が照れ臭そうに謝罪した。 眼は赤く、頬には流れが幾筋か残ったものの、三人とも何処かすっきりした顔付きをしている。 「良し、ならそろそろ行こうか? もう皆集まってる頃だろうしな」 正確な時間が分かる筈も無いが、起床からそれなりに時間が経っている。 呼び出しを食らう前にこちらから出向いておかなければ、また何を言われるか分かった物では無い。 (華琳の奴、そういうところは本当に容赦無いからなー) 苦笑を噛み殺しつつ、一刀は率先して扉へ向かい、手振りで三人を促す。 その背に、神妙な声が掛かった。 「………隊長」 「ん? どうした、凪?」 一刀が首だけで振り向くと、凪が声音同様に神妙な顔付きで一刀の眼を見据えていた。 真桜と沙和は、お互いに顔を見合わせ、それから凪を不思議そうに見つめる。 「先程のお言葉、とても………とても嬉しく思いました」 「ん、うん」 「しかし―――私が何も出来ていない、というのは、やはり事実です」 「え?」 聞き捨てならない言葉に、一刀はようやく身体全体で凪に向き直る。 「凪。だから、それは―――」 「ですから」 問い掛けようとした一刀を遮って、凪ははっきりと、挑む様にその言葉を発した。 「これからは私が――――隊長の、腕の代わりになります」 「………な?」 「に?」 「をーーーー!?」 突然の爆弾発言に、真桜と沙和が飛び上がらんばかりに反応した。 「ちょ、凪ぃ!? それ反則ちゃう!?」 「抜け駆け! 抜け駆けなのー! 凪ちゃんそれは禁止なのー!」 「ええい、うるさい! もう決めたんだ! 私はこれから隊長の片腕となってずっとお仕えする!  お前達だって言ったじゃないか! 自分に出来る事をすれば良いと!」 「それとこれとは話が別なのー!」 「せや! つか、隊長の腕はいつかウチが作ったるんやからそんなん必要あらへん!」 「作るにしたって時間は掛かる! それまでは代わりが必要だろう!?」 「だとしても何も凪ちゃんじゃなくても良いのー!」 たちまちの内に喧騒の渦へと叩き込まれ、一刀は一人、呆然と三人娘の口論を見守る羽目に陥っていた。 「いや、お前ら……」 「隊長! これからは何でも遠慮せず仰って下さい! 私が責任を持って隊長のお望みにお応えします!」 「え」 「だーかーらー! 凪ちゃんはここぞという時ばっかりずっこいのー!  たーいちょ、沙和も何でもするからねー? どーんと頼ってくれて良いんだよー?」 「あ、いや」 「ぬっふっふー、まあ誰が隊長の左腕になるんかゆーんはこの際後できっちり白黒付けるとして……。  な、隊長? さっきウチがあげた七つ道具あるやろ? アレけっこう複雑に出来とるからぁ……。  色々終わったらゆーっくり使い方説明したげる。手取り足取り二人っきりでぇ……な?」 「どわっ!?」 「真桜! そう言いながら隊長の背中に圧し掛かるな! しかも耳に囁きかけるんじゃない!  隊長が困っていらっしゃるだろう!?」 「凪ちゃんも! ちゃっかり距離を詰めて何する気なのー! 左袖なんか抱き込んじゃってー!  その手をはーなーすーのー!」 「沙和やって、隊長の右手どないするつもりや! ええからウチに全部任せとかんかい!!  第一、ウチはまだとっておきを見せてないねんからな!?」 「だから、お前ら少しは落ち着けー!?」 背中から真桜に圧し掛かられ、左袖を凪に抱き込まれ、右腕は沙和に捕まり。 全身を揉みくちゃにされながら、一刀は事態を収拾しようと制止の声を上げた。 しかし、興奮し切った三人の頭にその声は余りにも無力に過ぎ、それどころかより白熱の度合いを高めていく。 結局、華琳の使者が部屋に呼びに来るまで、三人娘の姦しい口論は続いたのだった。 玉座の間には、既に一刀と三部下以外の重臣達が出揃っていた。 階の上に座した華琳の右側に春蘭を始めとする武官が、左側に桂花を始めとする文官が整列している。 昨日帰参したばかりで治療の跡も生々しい霞も、どうやら起き上がれる様になったらしい。 そのお目付け役なのだろう、少し離れた柱に華佗の姿もあった。 「遅い! 何をやっていたのだ北郷!」 「………面目無い」 扉を開けてすぐさまの春蘭の怒号に、一刀は肩を竦めて応える。 「全く、華琳さまをお待たせするなんて万死に値する重罪だわ!  あんたはもう少し、有って無きが如き立場ってもんを……」 珍しく春蘭の尻馬に乗った桂花の罵倒が、そのまま尻すぼみになって消える。 それどころか、腕を組んだ春蘭も、その隣の秋蘭も、並み居る重臣達は皆、一刀の姿に言葉を失っていた。 「たはは、すんませーん」 「ごめんなさいなのー」 「……申し訳ありません」 その隙に縮こまった三人がこそこそと武官側の列の最後尾に並び、ようやく陣容が整う。 それを見届け、列に挟まれた絨毯の上を、一刀は黒く生まれ変わった制服の袖を靡かせながら進んだ。 「…………そう。準備に手間取っていた、という訳かしら?」 段の下に達した一刀を、同じく眼を丸くしていた華琳が静かに迎える。 一刀は頬傷をにやりと歪め、何処か不敵に応えた。 「ああ、なかなかだろ? 良く出来た部下に感謝しないとな」 ちらり、と一刀が背後に視線を走らせると、それに反応した真桜と沙和が手を振り、凪に頭を叩かれる。 思わず苦笑する一刀に、華琳は深々と溜息を吐いて見せた。 「はぁ………まあ、貴方に形式や礼儀を期待しても仕方が無かったわね」 「おいおい、酷いな。まあ、確かにその通りだけどさ」 段差を挟み、眼と眼を合わせて思わず苦笑いする一刀と華琳。 静まり返った大広間に、二人の声だけが低く木霊する。 「でも、儀式には知るべき礼儀と、踏まえるべき手順というものがあるわ。それは分かるでしょう?」 王者としての威厳を漂わせ、華琳は微笑みと共に一刀の両眼を射抜いた。 その眼光の強さに、一刀は思ってもみないほどの大きな喜びを覚える。 (そうだ、これが) これぞ、曹操孟徳。 これこそが、華琳の華琳たる所以なのだ。 「………了解」 言葉だけはそのままに、一刀は裾を払って跪く。 片膝を突き、伏した頭の上から、立ち上がった華琳の峻烈な声が降り注いだ。 「―――北郷一刀。今この時を以って、貴公の現職復帰を申し渡す。  今後も我を扶け、その義に背く事無く己が職務を全うせよ。……精励を、期待する」 「―――応っ!」 儀礼など知らず、返す言葉を選ぶ事も出来ない。 しかも隻腕である為、一刀には両手を使った答礼が行えない。 だが、華琳は何も言わず、その無知を、その不作法を責める事も無い。 右拳だけを胸の前に掲げる変則的な礼を捧げ、今ここに、一刀は正式な復帰を果たした。 「さて………立ちなさい、一刀」 「ん?」 言われた通りに立ち上がった一刀の前に、細長い包みを携えた華琳が降り立った。 今まで気付かなかったが、どうも最初から用意されていたらしい。 「どうやら上司想いの部下に先を越された様だけど、私からも復帰のお祝いに贈り物があるの」 視界の端で硬直した三人の部下に忘れず睨みを利かせ、華琳は手ずからその包みを紐解く。 上質な布地から、黒く硬質な質感を持つ柄が顔を覗かせていた。 「この日の為に、真桜に造らせていた物よ。―――抜いて御覧なさい、一刀」 「……ああ」 真桜が言っていた“とっておき”とは、これの事だったのか。 一刀は右手を伸ばし、華琳の差し出した柄に手を添える。 一度目を閉じ、深く息を吸い――――――意を決して、鞘から引き抜いた。 瞬間、光が生まれる。 「これ、は………」 顕になった刀身に、一刀は息を呑む。 刃の長さはおよそ一尺四寸(約40cm)余り。 片手で扱う事を念頭に置いているのか、今まで使っていた物より短く、柄も同様に小振りである。 装飾性は皆無に近く、鞘も柄も、鍔さえも総身漆黒の拵え。 肉厚の刃は如何にも無骨で頑丈そうだが、見た目ほどには重くも無い。 だが、一刀の眼を奪ったのはそんなものでは無かった。 (―――日本、刀?) 冷静に考えれば、そんな筈は無い。 この時代の鍛造技術では、日本刀を再現など出来る訳が無い。 真桜にも、華琳にも、故郷の武器の話はしたが―――その製造法など、一刀は知らないのだ。 だが、片刃に浅く反りの入った、己が故郷の武器に似て非なるその刀身は、不可思議な煌きを宿して一刀の眼を灼いた。 「―――――――『流星』」 「……え?」 華琳の呟きに、一刀は顔を上げた。 「その剣の銘よ。………貴方には、相応しい名前ではなくて?」 「流、星……」 “黒天を切り裂いて、天より飛来する一筋の流星。その星は天の御遣いを乗せ、乱世を鎮めん―――” かつて聞いた、管輅という占い師の予言。 未来から来たという一刀の言葉に、天の御遣いという立場を与えた華琳。 この銘に込められた想いは、果たして何を意味するのか。 「………」 「………」 ふと気付けば、春蘭と秋蘭が鏡写しの様に揃って頷きを送ってくる。 短い動作に込められた信頼は、やはりこちらが戸惑いを覚えてしまうほどに、確かで強い。 最初に出逢った頃は、こんな未来を予想していただろうか。 「さぁ、これから忙しくなるわよ。貴方も、復帰したからには容赦無く使わせて貰うから。  覚悟しておきなさい、一刀」 取り返しの付かないものを喪った。 だが、かけがえのない人達が、こうして此処に居る。 この残った右腕で、何処まで支えられるのか――― それはまだ、分からないけれど。 「……………ああ!」 何処までも深く、誘う様な華琳の微笑みに、一刀は力強く頷いた。 握り締めた手の中では『流星』の冴えた刀身が、静かに光を放っている。 ――――――やがて来る次なる戦いを、その輝きが惹き寄せるかの如く。 隻腕の御遣い 五 了