「…………、ん」 全身を柔らかく包む温もりを感じ、閉じていた瞼をゆっくりと開く。 無意識に翳した右手を透ける陽光に、北郷一刀は朝の訪れを知った。 「………」 寝台に転がったまま、一刀は束の間逡巡する。 正直、まだ起き上がりたくは無い。 この身を優しく抱き締める至福の時を、もう少しだけ堪能していたい。 「…………ま、そういう訳にも行かないか」 脳裏に邪悪な微笑を浮かべたとある少女の姿を思い描き、一刀は潔くその身を起こした。 「……おっとと」 途端にバランスを崩し、慌てて右手を突っ張って身体を支える。 「流石にまだまだ、慣れないな」 そう呟く一刀の眼は、裸の上半身―――正確には包帯が巻かれたその左腕に据えられていた。 上腕から先の無い、左腕に。 隻腕の御遣い 三 「華琳さまーーーーー!!」 勝利に沸く軍勢を背後に従え、眼帯の女将軍が大きく手を振り近付いてくる。 桂花と風を伴って最愛の武将達を出迎えた華琳が、薄く笑みを浮かべながら労いの言葉を掛けた。 「ご苦労様、春蘭。秋蘭達も、良くやってくれたわ」 「いいえ! 華琳さまの敵を打ち砕く事こそ我らの役目です!」 「ええ。当然の事をしたまでですよ、華琳さま」 鼻息荒く主に応える姉・夏侯惇―――春蘭と、対照的に冷静沈着な妹・夏侯淵―――秋蘭。 華琳が最も信頼する曹操軍の双璧が、共に主の無事を心から喜んでいた。 「あー、お腹空いたー! やっと終わったねー、流琉」 「こら、季衣! すぐそうやって……全くもう」 戦塵に汚れた顔を綻ばせる幼い少女を、こちらよりは大人びた風情の少女が窘める。 許緒―――真名は季衣と、典韋―――真名は流琉。 どちらも見た目の印象を裏切り、曹操軍きっての怪力を誇る少女達である。 「お帰りー、稟ちゃん。寂しくなかったですかー?」 「……どうして寂しがる必要があるのですか」 「いえー、華琳さまと離れちゃっていやらしい身体が疼いてないかなーと」 「なっ………そんな事、有る訳無いでしょう!?」 口許に手を当てながらの風の揶揄に、顔を真っ赤にした郭嘉―――稟が反論する。 二人とも軍師であると同時に連れ添って旅をしていた仲であるが故に、そのやり取りは気安い。 「ふぃー……相変わらずやなぁ。ま、何にせよ勝ったんやし、幾ら騒いでもバチは当たらんけど」 「もー、髪も服もドロドロなのー! 早くお風呂入りたいのー!」 「……だから、真桜も沙和も……もう少し部下の目を気にしろ。まだ気を抜いて良い訳じゃないぞ」 「あーもー、凪ちゃんは真面目過ぎるのー」 「ホンマやなー。ジブンこそ、早く帰って隊長に褒めて貰いたがっとったくせにー」 「……なっ!?」 「ひゅーひゅー♪ 何やー凪、お堅いフリしてやりおるなーこのーうりうり」 「し、霞さままで……!」 「……アンタ達、少しは静かにしなさいよ」 結局揃って騒々しい三人娘、北郷隊の三羽烏と呼ばれる楽進―――凪、李典―――真桜、于禁―――沙和。 そして更に悪乗りする袴姿の騎馬武者・張遼―――霞を、桂花が溜息交じりに注意する。 戦始めからここまでずっと続いてきた緊張が緩み、兵達にも笑顔が戻りつつあった。 ただ――― 「そう言えば華琳さま、奴はどうしたのです? 姿が見えませんが……」 「……え?」 何気ない春蘭の言葉に、華琳の表情が固まった。 同様に、桂花と風も押し黙ってしまう。 「んー? そう言や居らんなぁ。どないしたん?」 「確か、華琳さま達と一緒に防衛に当たっておりましたよね?」 「何やー、せっかく可愛い部下がめっちゃ急いで帰ってきたっちゅうのに……イケズやなぁ、隊長」 「ホントなのー……ハッ! まさか隊長一人だけさっさと帰っちゃってたりー!?」 「隊長に限ってそれは無いと思うが……変だな」 「おーい兄ちゃーん、何処ー? 帰ってきたよー?」 「季衣、そんなトコロには兄様は居ないから……兄様ー?」 春蘭の問いを皮切りに、各々がこの場に居ない一人の男の顔を探し始める。 本当ならば、皆の帰還を一番に祝福してくれたであろう、その人を。 「…………華琳さま」 ただ一人、神妙な顔をした秋蘭が華琳へ目を向ける。 勿論、離れていた彼女が事実を知る由も無い。 だが尋常ならざる三人の様子に、持ち前の聡さから何かを読み取ったのだろう。 「つかぬ事をお伺い致しますが………北郷は、どうしたのですか?」 「―――――――………一刀、は」 重く、軋む様な声音。 今まで聞いた覚えの無い主の声に、武将達の中で嫌な予感が膨れ上がる。 「あ、あはは……嫌やなぁ華琳さま、そないな声出してー。どうせその辺に隠れとるんやろ?  おーい隊長ー、早よ出てきー」 殊更明るさを装った真桜が、わざとらしく大声を上げる。 だが、期待した声が応える事は無く。 「………」 「………」 桂花と風は、尚も口を閉ざしたまま。 膨らんだ疑念は、急速に確信へと変化していく。 「………まさ、か。一刀殿」 「待てや! まだ何も言うてへん! なぁ、どうなんや!? 桂花、風、黙っとらんで何か言い!」 「え? え? に、兄ちゃんは? ねぇ、兄ちゃんは!?」 「わ、私に聞かれても分かんないよっ! 兄様ぁ……!」 「な、何ー!? 何なのー!? 隊長ー!!」 「……たい、ちょう?」 「か、華琳さまっ! ど、どういう事なのですか!? 北郷は、北郷は……っ!?」 「落ち着け姉者! 華琳さまはまだ何も言っておられない! まずは話を…」 「……………………うるさいっ!!!」 「………っ!!」 予期せぬ華琳の叫びに、重臣達は一斉に言葉を失う。 「無事に決まっているでしょう!? それ以外にどんな答えがあるというのよ!」 常の余裕など何処かに打ち棄てたかの様な、その悲痛な響きが心に直接突き刺さった。 「華琳さま! 落ち着いて下さい!」 「そうですよー、皆びっくりしちゃってますよー……」 見かねた桂花と風が、肩で息をする華琳を制止する。 「…………。そう、ね」 流石と言うべきか、華琳はすぐさま沸騰しかけた頭を冷やそうと努めた。 ここで怒鳴り散らしても、何も解決しない。 不安げな武将達を見据え、華琳は殊更ゆっくりと口を開いた。 「一刀は――――」 「ああ、こんな処に居たのか。探したぞ、曹孟徳」 華琳が言葉を継ぐよりも早く、横合いからの精悍な声がそれを遮った。 「……誰だ!」 いち早く反応した春蘭が鋭く威嚇の誰何を放つ。 続いて横を向いた華琳が、驚きの声を上げた。 「…………華佗!?」 不意に現れた赤髪の青年―――『神医』華佗は、真っ直ぐに華琳を見据えている。 「この城の怪我人はあらかた治療し終わったが………何をしてるんだ? こんな場所で」 「………華佗! 一刀は………一刀はどうしたのっ!?」 「うおおっ!? 待て、落ち着け! あいつなら……」 「“あいつなら”何!? 何なのよ! さっさと答えないと百回穴に落とすわよ!?」 「華佗さん、前置きは良いから早く説明するのですー!」 華琳ばかりか桂花や風にも攻め立てられ、華佗は二、三歩後ずさった。 「もうとっくに処置は終わってる! 今は安静に………おい!」 「あっ! 華琳さま!?」 華佗の言葉が終わる前に、華琳は駆け出していた。 「華琳さまーーー!!」 その後に、訳も分からず武将達が続く。 「………何なんだ?」 残された華佗が一人、不思議そうに首を傾げていた。 「…………ん?」 気が付くと、何やら妙な場所に居た。 ぐるぐると、ぐにゃぐにゃと、不規則に揺らぐ視界。 ありとあらゆる色彩が乱舞し、かと思えば次の瞬間には闇に沈む。 何も聞こえず、触れるものは無く。 地に足が着いているのか、それとも浮かんでいるのか、それさえも分からない。 「何だここ……?」 不思議と恐怖は無いが、全く以って状況が掴めない。 「あれ?」 首を捻り、腕を組んだ―――つもりで、右手が空を切る。 目を向けると、そこに有る筈の物が無かった。 「ありゃ? ………何で左腕が無いんだ?」 まるで拭った様に、二の腕から先が掻き消えた左腕。 振ってみても、二の腕から先は何の感触も無い。 「え? あれ? 何がどうなって……」 『――――ふん。良いザマだな、北郷一刀』 ひたすら頭に疑問符を浮かべていると、唐突に声が聴こえてきた。 姿は見えないが、若く鋭い語調には幾らかの皮肉が込められている。 「だ、誰だ? 今度は何だ?」 『……覚えていないのか。ふん、近しいとは言え所詮は別物か』 「???」 意味不明な独白に、一刀は再び首を捻った。 そんな一刀の様子には頓着せず、声の主は嘲笑うかの如く言葉を紡いだ。 『まあ俺の事はどうでも良い。――――北郷一刀。  どうやら貴様自身は気付いていない様だから教えてやるが』 「……何?」 『死んだぞ、貴様』 「ええっ!?」 『半分な』 「半分って何だよ!?」 『まだ、思い出さんか』 「思い出すって何を………」 ――――華琳ッッ!!! ――――命を賭して主を守るか! ――――……………かずとーーーーーーーーーーーっ!!!! 「………!!」 突然、だった。 生々しく蘇った感覚に、一刀は思わず左肩を抑える。 見えない血が流れ出て来る様な錯覚に襲われ、全身に震えが走った。 「そうだ、俺は――――」 あの時、包囲された華琳を助けに行って。 追ってきた関羽の青龍偃月刀に、左腕を落とされた。 そして――― 『ふん、ようやく状況を認識したか』 心底から呆れた様な声は、苛立ちと侮蔑に満ちていた。 『観測者が自ら介入し、あまつさえ身を投げ出すなど………有り得ぬ愚行だな。  あの時ですら、定められた流れから外れる事は無かったというのに』 「………?」 『だが、貴様が生んだ歪みは―――もはやこの外史に何をもたらすか、予測も付かん。  やがて来るであろう全ては狂い、既に本筋を外れている』 「だから、さっきから何を……」 『馬鹿は死なねば治らんらしいが……お前の場合はまた格別の様だな。  あの小賢しい星詠みですら読み切れぬとは』 「一体何なんだよ! 大体お前は……っ!?」 怒鳴ろうとした瞬間、世界が揺れた。 ぶれた視界が激しく明滅し、耳の奥で甲高い音が鳴り続ける。 「う、わ………っ」 『どうやらお目覚めらしいな。さっさと帰れ、己が外史へ。  そして――――精々足掻くが良い。いつか自らの行いを後悔するその日まで、な』 「―――――――――――」 指先から全身が崩れる。 元より曖昧だった感覚は更に輪郭を無くし、何処までも拡散していく。 それに併せてこの不思議な世界も、流れる様にその形を変化させていった。 (あれは―――――) 溶け出していく光景の中、一刀は見た。 (ああ、そうか―――――) 自分を抱き締めて泣き叫ぶ、金髪の少女の幻影を。 『………ふん、行ったか』 目の前から少年の姿が消え去り、呟く声には実が宿りつつあった。 北郷一刀―――異なる外史の要素が消え、不定形だった世界が徐々に形を取り戻していく。 数瞬の後、空間は壮麗な大広間へと変貌を遂げていた。 その華美を形にした装飾の中心に、一つの影が生まれる。 影は徐々に厚みを増し、いつしかそこには―――白い装束を纏う一人の少年の姿が在った。 「……チッ。流石に未だ介入は出来んか」 そこだけが一際高い階に置かれた巨大な銅鏡を眺め、少年は色素の薄い短めの髪を振って苛立ちを露にする。 その様子は外見相応にも見えるが、眼に宿した光は何処か昏く、声には禍々しい熱を宿していた。 「何だ、帰っていたのですか?」 その苛立ちに反応した様に硬質な足音が響き、別の青年が姿を現した。 少年と同じ白装束を纏った、やや長い黒髪に眼鏡の青年は、ごく柔らかな物腰で苛立つ短髪の少年に声を掛ける。 「余り無理をしてはいけませんよ。只でさえ、前の外史から弾かれた影響が抜け切っていないのですから」 「……分かっている」 整った面を歪ませ、短髪の少年は吐き捨てる様に呟いた。 先程の邂逅とて、あの男――――“観測者”が境界から半歩こちらへ踏み外していたからこそだ。 これ以上の介入は、未だ完全には程遠い己の存在を磨り潰す事にもなりかねない。 「しかし、どういう風の吹き回しですか? まるで彼の手助けをしていた様にも見えましたが」 「チッ、覗き見か。相変わらず悪趣味な奴だ」 階段を挟み、互いの視線を交錯させる二人の白装束。 感情がはっきりと表れた眼光に対し、押さえられた眼鏡越しの眼には冷静さだけが浮かんでいた。 「嫌ですねぇ。これも愛故、ですよ」 「気色の悪い事をほざくな」 短髪の少年が吐き捨て、長髪の青年は静かに苦笑する。 「だが、これであの許子将が示した今回の外史の流れは変わった」 「観測者が主体と化す……果たしてその因がどの様な果を招くのか」 「何れにせよ、未だ時は掛かる。―――それまで奴には生きていて貰わねばならん。不本意の極みだがな。  貴様も肝に銘じておけよ」 「ふふふ……まあ、そういう事にしておきましょうか」 何もかも見透かした様なその答えに、再び舌打ちの音が堂内に響く。 銅鏡は静かに、鈍い輝きを湛えていた。 眼を開けると、薄汚れた石造りの天井が視界を占領した。 「あ………」 出した筈の声がやけに遠い。 (今の、は――――) 夢ではない。さりとて現実でもない。 未だに感覚は曖昧なまま、一刀はぼんやりと天井を見つめていた。 (何処だ、ここは………?) 首を動かそうとして、気付く。 妙に身体が重い。まるで鉛か何かの様に、筋肉が言う事を聞いてくれない。 麻沸散―――麻酔の効力が切れ目覚めたとは言え、完全に抜けた訳ではない。 元から血を失い過ぎた上に、長時間の手術で体力はとうの昔の尽きている。 しかし今の一刀には、そこまで考えが及ばない。 (………う?) くらり、と視界が揺れる。 「だめ、だ………たしかめ、ない、と―――………ぐっ」 敢えて声を出し、再び薄れそうになる意識に一刀は抗った。 ―――――華琳。 あの世界が消える間際に見た少女の姿が、今も眼に焼き付いている。 「ぐっ、くぅぅ………」 渾身に力を込めて、上半身を起こす。 右肘を張り、次いで左肘にも――― 「……………え?」 力を入れようとして、空を切る。 徐々に持ち上がりつつあった身体から、白い掛布がぱさりと落ちた。 そして“それ”が、見開かれた一刀の眼に映る。 「―――――……一刀ッッッ!!!」 その瞬間、全力で開け放たれた扉から、強く鮮烈な、懐かしい声が響く。 その声に引き寄せられる様に、一刀の首が呪縛から解き放たれた。 「――――――――華、琳」 「………っ!?」 息せき切って飛び込んできた華琳が、身を起こした一刀に眼を留め―――絶句する。 「華琳さまーっ!!」 そこへ、主を追って到着した春蘭達が縺れる様に雪崩れ込んだ。 「華琳さま、一体どうし―――――ほっ、北郷!?」 いち早く進入した春蘭の叫びに、後続の武将達が我先にと身を乗り出す。 そうして、悲鳴が、重なった。 「北郷ッ!?」 姉を避ける様に立った秋蘭が。 「か、一刀殿!?」 華琳の横に立とうとして進み出た稟が。 「一刀!?」 春蘭を押し退けて前に出ようとした霞が。 「兄ちゃん!?」「兄様ッ!?」 立ち尽くす皆の隙間から這い出た季衣と流琉が。 「「「隊長っっ!!??」」」 全員を掻き分ける様に寝台へ到達した凪、真桜、沙和の三人娘が。 目の前の光景を拒絶する様に、一刀を呼ぶ声が連なる。 他ならぬ華琳を救った代償に自らの左腕を失った、その姿に。 縫い痕も生々しい刀瑕を頬に刻んだ、その顔に。 「………華琳、さま」 「………お兄さん」 元より承知していた桂花と風も、痛々しさに言葉を失う。 沈黙が支配する部屋の中、華琳がふらりと歩を進めた。 「か、ずと……」 喜び、悲しみ、怒り、悔い、恐れ――― 怒涛の如く溢れ出し、渾然一体となった感情は、逆に華琳の声音を平坦なものにしていた。 「は、はは……っ。やっぱり、夢じゃ………なかった」 凍り付いた華琳の顔を見て、黙っていた一刀がぽつりと呟いた。 華琳がびくりと身を震わせ、その場に立ち竦む。 一刀の次の言葉を、華琳は幼子の様に恐れた。 だが、思い浮かべたどんな言葉も、続く事は無かった。 「良かった――――――無事だったんだな、華琳」 心底から安堵した声。 呆然と顔を上げた華琳に、一刀は微笑んだ。 麻酔の残滓に引き攣れた、その不恰好な笑顔に。 「……………かずとぉっ!!!」 華琳の心が、決壊した。 弾かれた様に、身体ごとぶつかっていく華琳。 突き出された華琳の腕が勢いのまま首に巻き付き、満身創痍の一刀は思わず悲鳴を上げた。 「あがっ!? 痛ぅ―――――か、華琳っ!?」 「馬鹿っ! この大馬鹿っ! 何が『無事』なのよ!? 少しは自分の事を考えたらどうなの!?  貴方の瑕が誰の所為かなんて、貴方が一番良く分かってる筈でしょう……っ!!」 寝台の背に押し付けられ、抱きすくめられた一刀に、華琳は烈火の如く怒りをぶつけた。 華奢な両腕にはかなりの力が込められており、感覚を取り戻しかけている一刀の身体を容赦なく締め付ける。 痛みを訴えつつも、一刀はその苦しさに愛しささえ覚えた。 「どうして怒らないの!? どうして責めないのよ!! どうしてそんな風に……笑っていられるの!?  私が―――私が一刀を、こんな目に遭わせたのに!!!」 子供の様に泣きじゃくりながら、理不尽な問いを浴びせる華琳。 顰めた顔を苦笑の形に変え、一刀は右手を華琳の頭に伸ばし、優しくゆっくりと撫でる。 こんな時でさえ柔らかく、絹の様に滑らかな華琳の髪の感触が、一刀を嬉しくさせた。 「華琳は、怪我とか無いんだろ?」 「え……」 「皆も無事なんだろ?」 「え、ええ……」 「なら良いさ。全員生きてる、俺も生きてる、華琳がここに居る――――それで、良いんだ」 「………――――――ッ!!!」 もはや声も無く、華琳は一刀の胸に顔を埋めた。 力無く胸板を叩く拳をさせるがままにして、一刀は華琳の髪を撫で続ける。 壊れ物を扱う様にそっと。慰める様に。愛おしむ様に。 そこへ―――― 「「北郷!!!」」 「一刀殿!!」 「一刀ーっ!!」 「兄ちゃん!!」「兄様ーっ!!」 「「「隊長ーーー!!!」」」 春蘭が、秋蘭が、稟が、霞が、季衣が、流琉が、真桜が、沙和が、凪が。 「どわぁぁぁぁーーーーーっ!?」 一斉に飛び込み、その衝撃に部屋が揺れた。 「北郷ぉぉぉ! お前という奴はーっ!! 弱いくせにどうしてそんな無茶ばっかりするんだーーっ!!!」 「北郷……頼むからこちらの寿命を縮める様な真似はしないでくれ……」 「かかか、一刀殿! あれほど気をつけろと自分で言っておきながら、貴方は……!!」 「アホ! このアホ! 一刀のどアホぉ!! 心配かけさすなぁ………うぐっ!!」 「兄ちゃん! 兄ちゃぁぁん!! うわああああん!!」 「兄様ぁ……ひぐっ、ぐす……」 「たい、たいちょ、たいちょぉ……ごめ、ごめんな、ウチが、ウチが離れへんかったら……うああああん!!」 「痛くない!? 痛くないの隊長!? やなの、死んじゃやなのぉ!!」 「…………たいちょうっ………ああああああっ!!!」 抱き合った一刀と華琳を揉みくちゃにしながら、次々と泣き出す武将達。 「………なに、やってんのよ。馬鹿」 床にへたり込んだ桂花が、たちまち騒々しさを増した目の前の光景にぽつりと呟く。 その頬を流れるものに見ないフリをして、風はそっと溜息を吐いた。 「やれやれ、何ともはや――――お兄さんの馬鹿は、死んでも治らないみたいですね、宝ャ?」 「筋金入りってモンだぜぃ」 眠たげな笑顔もまた、泣き笑いだった。 「――――やれやれ」 部屋を覗き込んだ華佗が、廊下の壁に身を預けて苦笑した。 まだまだ安静は必要だが、あれだけの元気ならもう病魔に憑かれる心配も無いだろう。 誰彼構わず揉みくちゃにされている一刀は、死に掛けだったとは思えない。 (その笑顔こそが、俺にとっては何よりの報酬だ) 時には無力とも思えるこの技が、こうして人を救える事もある。 また一つ自信を手に入れ、華佗はのんびりと騒ぎが収まるのを待った。 その後はまた、一段と大変だった。 こちらの治療が終わったので、次は劉備軍を追おうとした華佗を華琳が必死に引き止めたり。 その劉備軍を追撃して皆殺しにしてやろうと息巻く春蘭達を必死で止めたり。 撤収作業に追われる中、誰が一刀の世話をするかで武将達が揉め始めたり。 巡業中に急報を聞いて駆け付けた張三姉妹が一刀を見舞いに来たり。 そして案の定、そこでまた一悶着があったり。 (……良くもまあ、生きて帰って来れたもんだよな) 寝台の縁へ浅く腰掛け、一刀は苦笑を浮かべた。 あの時はそれこそ無我夢中で、思い返してみても余り実感が沸いてこない。 こうして朝を迎えている事を、まだ心の何処かで信じられていない自分が居る。 傷から伝わる微かな疼きは、何よりも雄弁に物語っているというのに。 (自分よりもむしろ、皆の方がな) 春蘭はおろか、あの冷静な秋蘭でさえ、目尻に涙を浮かべていた。 そして、華琳。 この世界に来てから、ずっと一緒に居た少女。 (泣かせちまったんだなぁ) 眼に焼き付いた泣き顔に、心の奥がずきりと痛む。 「………やっぱり弱いんだな、俺は」 それは誰よりも良く知っていた。理解していた。身を以って体験もした。 しかし、それでも。 封じた筈の少女の貌を曝け出させてしまった事に、罪悪感を覚えずにはいられなかった。 「……止め止め。今更時が戻る訳でも無し」 自嘲も自己憐憫も、そんな甘えに意味は無い。 やらずに後悔するより、例え何かを失ってもやり遂げる方を選んだ。 (ただ、それだけの事だ) 一刀は右手で頬を張ると、際限無く沈んでいく思考を無理矢理切り替えた。 (兎にも角にも、早く完治させなくちゃな) 帰ってきてからこちら、一刀の一日はほぼリハビリに費やされていた。 華佗によれば「鍼と薬、そして行動療法で完治まで約二ヶ月」だと言う。 「…そんな短くて良いのか?」と聞けば、「我が五斗米道に不可能は無い!」と言い切られてしまった。 実際その効能はすさまじく、僅か五日で体力自体はほぼ元に戻っている。 リハビリは正直辛いが、生憎そんな泣き言を吐いていられるほど暇ではない。 今のところ、警備隊の業務は凪・真桜・沙和の三人が持ち回りでこなしてくれている。 正直なところ、自分がやるよりその方が良いのかも知れないが……。 「それはそれで、俺がここに居る意味がないしな」 三人は勿論、誰もが復帰を心待ちにしてくれている。 それは如何に鈍感と言えど、一刀にだって分かる。 あの桂花でさえ、憎まれ口と共に三日に一度は顔を見せに来るほどだ。 「さぁて………ん?」 ふと耳をそばだてると、僅かな物音。 段々と大きくなるそれは、この部屋を目指している様だ。 (………今日は誰だ? 春蘭か、季衣か、それとも霞か  ―――――それとも華琳とか? …まさか、な) 頭の中に幾つかの見知った顔を思い浮かべ、一刀はゆっくりと立ち上がった。 誰が来ても良い様に、まずは服だけでも整えておかなくては。 そこまで思ったところで、出し抜けに扉が叩かれる。 「早ぇよ! やべぇっ……って、ノック?」 律儀にそんな事をするのは、この城内に一人しか居ない。 わたわたと慌てながら、右手だけで取り敢えず掛けられていた着物を手に取る。 元の世界の制服は、あの戦いでもう使い物にならなくなっていた。 やがて音も無く、するすると扉が開かれる。 「…………あら、感心ね。呼びに来なくても起きてるなんて。―――おはよう、一刀」 陽光を浴びて輝く少女が、そこに立っていた。 小柄な身体は覇気に満ちて、相変わらず魅力的ではある。 気持ちの良い朝だと言うのに仏頂面で無ければ、だが。 「ああ、おはよう――――華琳」 何とか羽織る事だけは間に合った一刀が、微笑と共に挨拶を返す。 ――――そしてまた、一日が始まった。 隻腕の御遣い 三 了