「…おや? 華琳さまに桂花ちゃん……帰ってきたのですかねー?」 日向ぼっこでもしているかの様な、聞いているだけで眠気を誘う様なのんびりとした声。 声の主である、城壁の上から門の周辺を伺っていた小柄な少女は、ごく緩やかに下へと降り始めた。 「風は華琳さまのお出迎えには出られませんでしたが……はて?  何かあったのでしょうかねー? どう思います、宝ャ?」 自らを風と呼ぶ少女は、階段をするすると降りながら頭に載せた人形の様な物を撫でた。 すると、少女に良く似た声音で、人形が喋り出した。 「そんなの俺に聞かれても知らんがね」 ―――これが腹話術なのか、はたまた実際に喋っているのか、余人には謎である。 「むぅ。相変わらず肝心なところで役に立ちませんねー、ホウケイやろう」 外見からは余り想像の付かない口の悪さで、頭の上の人形―――宝ャを罵る風。 一人と一体の奇妙な問答は続き、やがて城門に到達したところで――― 「……おかしいですねー?」 肌を刺す空気の違いに気付いた風が、今まさに閉じようとしている門扉まで急ぐ。 ぞろぞろと駆け込んでくる兵士達の中に、豪奢な金髪と、特徴的な頭巾が見え隠れしていた。 金髪は風の主・曹操孟徳―――真名は華琳。 そして頭巾は風の同僚であり曹操軍の筆頭軍師・荀ケ文若―――真名は桂花。 共に、この城で留守居を預かる歴戦の士である。 「あー、華琳さまー! 桂花ちゃーん! どうし……」 彼女にしては大きな声で呼び掛けようとして、風―――曹操軍軍師・程cははたと気付く。 華琳と桂花が寄り添う、怪我人用の担架―――そこに載せられた一人の少年の姿に。 風も良く見慣れた、その少年の顔は――― 「………お兄、さん?」 呟きは塵風に流され、届く事は無かった。 隻腕の御遣い 二 「愛紗! 朱里から作戦の指示をもらってきたのだ!」 雑多な兵が行き交う陣内に、張飛―――鈴々の元気な声が響き渡った。 曹操軍が立て籠もる城塞から半里ほど離れた位置で、劉備・呂布連合軍は先陣を構築していた。 「うむ。…朱里は何と?」 鈴々に頷いた関羽―――愛紗は、続きを促した。 「覚えられないから書いてきてもらったのだ! 星、読んで!」 欠片も悪びれる事無く指令を記した竹簡を愛紗の隣に立つ趙雲―――星に手渡す鈴々。 「なになに…? ……成程、我らが軍師殿も可愛い顔をして、なかなかにお人が悪い」 苦笑しながら指令を開いた星は、一読するや笑いの質を変え、自軍の策士を皮肉交じりに賞賛した。 「どうするのだ?」 「まずはな…」 星の説明に聞き入る愛紗と鈴々。 激突の時は、近い。 「急いで組み立てなさい! 敵は待ってはくれないわよ!!」 城壁の上で工兵達に指示を下しながら、桂花は裡から湧き上がる怒りを持て余していた。 既に撤退は終わり、主と共に帰還した桂花は現在籠城戦の準備に追われて文字通りの不眠不休。 目の前では、今この場には居ない真桜―――武将・李典の秘密兵器が急速に組み上げられようとしている。 しかし、口汚く兵士達を罵り命令する桂花の眼に、それは映っていながら捉えられていない。 (あの馬鹿…っ! 華琳さまをあんなにも悲しませておいて……何をしているのよ!) 口と手は次々に部下へと指示を飛ばし、しかし桂花の頭の中はある一つの事柄で飽和状態となっている。 思えば黄巾の乱からずっと、まだ曹旗が一州すら制していなかった頃から共に居たのだ。 いつだって目の敵にしていた。 汚らわしい種馬のくせに、のうのうと華琳さまの傍に立つあの男を。 何の取り得も無いくせに、抜け抜けと軍議に参加しては噛み付き合っていたあの男を。 臣下の誰より弱いくせに、いつの間にか傍に居る事が当たり前になってしまっていたあの男を。 (さっさと起き上がりなさいよ、この愚図! もし起きないのなら……その時は私が殺してやるから!!) 理不尽であろうと、矛盾であろうと、氾濫する思考が止まる事は無い。 この途轍も無い苛立ちが、実は恐怖と隣り合わせである事に――― 桂花は敢えて、気付こうとはしなかった。 「相手が定石通りに動くとは限りませんがー……備えあれば憂い無し。  という訳で、ちゃちゃーっと準備しちゃってくださいねー」 風は城の中庭で、火攻めの際に必要な鎮火作業の準備に勤しんでいた。 傍目には余裕のある物腰だが、彼女の心境もまた、その外見通りではない。 (風ともあろう者が取り乱してしまいましたー……) あの瞬間、思わず宝ャを落としてしまいかけた。 だが、事実を知れば、今の城内で衝撃を受けない者は恐らく一人もいないだろう、と風は思う。 風が呼ぶところの“お兄さん”は、華琳の支配下においては他の将軍達と同様、或いはそれ以上の影響力を持っている。 領内の街の治安維持における実績、そして軍の新兵のおよそ半分以上が彼の下から出ているという事実。 知らぬは本人ばかりだが、一般民衆にも軍内部にも、彼を慕う人間は数多く存在しているのだ。 その為、彼の負傷は親衛隊以下、武将達にさえ知らされていない。 (本人はただの警備隊長だー、なんて嘯いてますけどねー) そう苦笑する彼の顔を思い出し、風は束の間気持ちを緩める。 が、それも長続きはしない。重苦しい気分は、再び胸の裡を苛む。 「全くもう……早く戦を終わらせないとー……おや?」 沈思している間に、何やら騒ぎが起こったらしい。兵士達の狼狽する声に混じって、時折怒声が聴こえる。 (はてさて、やはり面倒は続くもの―――ままなりませんねー) 若干の憤りと大いなる眠気、そしてそれを上回る心配を秘め、小さな軍師はふらりと騒動へと歩を進めた。 主である華琳の危地を救い、撤退の時間を稼いだ少年――――北郷一刀。 だがその代償は余りに大きく、取り返しの付かないものとなった。 華琳の無事と引き換えに自身の左腕を失い、重体のまま担ぎ込まれた一刀は、現在も意識不明のままである。 「…………一刀」 寝台の上で苦悶に歪む少年の寝顔を布で清めながら、華琳は嗄れた声で呟いた。 上半身は衣服を脱がされ、二の腕から下が失われた左腕の包帯には今も血が滲んでいる。 従軍医―――そう、これも一刀の考えから始まった制度だ―――の話では、この城では最低限の処置しか出来ず、 後はもはや、本人の生命力次第―――。 思わず勝手に首を刎ねようとした腕を押さえ、華琳は戦いの前にここを訪れたのだ。 火の様に熱い額を撫で、汗に張り付く前顔を指先で梳かす。 心の中に、一刀と出逢ってからの出来事が通り過ぎては消えていく。 この男の能天気さ、鈍感さ、そして優しさ―――それに、孤独なこの身がどれだけ救われていたのか。 失うかも知れない。そう考えただけで、膝から力が抜けそうになる。 (王になる。そう決めてから涙は捨てた―――その筈、だったのに) 今まで意識する事の無かったその重みが、ずっしりと全身に圧し掛かっている様だ。 もう、自分の難題に頬を掻きながら応える、あの困った様な笑顔を見る事は出来なくなるのか。 もう、自分の料理に目を白黒させてはしゃぐ、心が満たされる笑い声を聞く事は出来なくなるのか。 もう、自分の我侭に溜息を吐きながら律儀に付き合う、背中越しの信頼を感じる事は出来なくなるのか。 会う事も、話す事も、触れる事も――― そう考えるだけで、華琳の全身に抑え難い震えが走った。 (こんなにも―――) こんなにも、大きくなっていたのか。 覇道は独り。民も、臣も。共に歩むのではなく、降し従えるものだと知っていたのに。 心の奥から湧き上がる恐怖を押し込めて、華琳はゆっくりと言葉を紡いだ。 「……今は、許しは請わないわ。一刀」 でも、と華琳は声に出さず、心の中だけで続ける。 (これは、私の戦い) ―――それが……、馬鹿だって言ってるんだよ!! (貴方に救って貰った命だけれど) ―――この一戦に負けたくらいで、華琳が劉備に負けた事になるのかよ!? (皆が信じる『王』という存在を、汚さない為にも) ―――そんな訳あるか! まだ負けてないだろ? まだ華琳は、ここでこうして生きてるだろ!? (私は、戦う) ―――負けだって言うなら、膝を折って、命を取られた時こそが負けじゃないのか? (例え、貴方が望まなくても) ―――信念を、心を折られたその時こそが、本当の負けじゃないのか!? (そう) きゅ、と拳を握り締める。迷いは変わらず、漣の様に瞳が揺らぐ。 だが、彼女は再び王の仮面を被る事を選んだ。 「私が、私である為に」 だから、今は行かせて。 未練を断ち切る様に、華琳は振り向かず、足早に部屋を去る。 残された一刀が、微かに身じろいだ。 「さて……軍師殿の指示では確か、この辺りに使われなくなった用水路が…」 既に日も沈みかけた頃、宵闇を利用して城へと近付いた星が、密かに内部への抜け道を探っていた。 「………………穴」 「星! あったのだー!」 同行していた呂布と鈴々が、いち早くその入り口を発見する。 「ふむ、流石は軍師殿。情報通りだな……よし。誰か、明かりを持って来い!  私達はここから突入するぞ!」 松明を掲げる星を先頭に、鈴々、呂布、そして少数の兵士が続く。 「うわぁ………まっくらなのだ〜。もう誰も使ってないのかな〜?」 その言葉通り、天然の洞窟を利用して造られた用水路は闇に沈んでいた。 時折響く水音が、まだこの水路が生きている事を侵入者達に伝えているかの様だ。 「こんな所に用水路がある事自体、忘れ去られているのだろう。  軍師殿も資料が無ければ気付かなかったらしいからな」 「ふぅん…」 星の説明に生返事を返しながら、鈴々は暗闇のあちこちに油断無く視線を飛ばす。 その隣を緩慢に歩く呂布は、特に何も気にしていない。 と。 「………。………?」 その呂布の足元で、何か妙な音が生まれた。 「どうした? 呂布」 「………?」 「いや、そこで首を傾げられても良く分からんのだが…」 溜息を吐く星。 「あにゃ? 何か、糸みたいのが切れてるのだ」 「……何?」 鈴々の呟きに星が反応を返すと同時に、頭上で何かが外れる音が重なる。 「……しまった、罠か!」 苦虫を噛み潰した様な星の声を押し潰す様に、洞窟の崩落が始まった。 「! 撤退、撤退なのだーーーー!!」 鈴々の叫びも、やがて落下する岩石に埋もれて消えていく。 ごく短い鳴動の後、用水路の出口は完全に塞がれていた。 「……あんな大きな抜け穴、気付かない訳が無いでしょう?」 外から一部始終を見届けていた桂花が、口の端を持ち上げて邪悪な笑みを作る。 恐らく敵の大部分は逃げただろうが、今はこれで良い。迂闊に動けば手痛い反撃を喰らう。 それを危惧して二の足を踏む機会を多くすれば、それだけこちらに勝ちの目が傾くのだ。 そこまで考えると、更に遠くから轟音と地響きが連続した。 城壁で待機していた連中が命令を実行したのだろう。 「今回は特に容赦してやらないわよ。……精々、苦しむが良いわ」 言下に吐き捨てる。奴等がどうなろうと、そんな事はどうでも良いと言わんばかりに。 解消出来ない苛立ちが更に膨れ上がるのを感じながら、桂花は兵士を呼んで後始末を開始させる。 「さ、早く華琳さまの処へ戻らなきゃ」 最低限の指示を出し、桂花は素早く踵を返す。 「桂花ちゃーん!」 その耳に、望まずとも今は聞き慣れてしまった同僚の声が入り込んで来た。 見れば、風が(あくまで当人比だが)とんでもない速さで駆け寄ってくる。 「風? どうしたのよ? 貴女の持ち場は向こうでしょ、 さっさと…」 「それどころじゃないんですー! 桂花ちゃん、早く華琳さまを呼んできてくださーい!」 「ええ!? いきなり何言って」 「お兄さんを……お兄さんを助けられるかも知れないんですー!」 「………へ?」 息せき切った風の剣幕に押されていた桂花の思考が、その瞬間、完全に停止した。 「撃て、撃てぇっ! 狙いは適当で構わん! 取り敢えず、城の中に届けば良いっ!!」 愛紗の号令一下、弓兵部隊が斉射した火矢が城壁へと殺到した。 大半は石壁や木盾に叩き落され、運良く飛び込んだ矢もすぐに消火される。 加えて――― 「まさかあんなモノまで持ち出してくるとは……やはり一筋縄ではいかんか」 弓兵の援護に押される様に城壁に取り付いた攻城兵達が、落下してくる巨大な質量に潰されてその侵攻を阻まれる。 兵を打ち払ったその装置―――縄に吊るされた巨大な丸太が、するすると元の位置へと昇っていった。 これでは、城壁に近付いてもどうにもならない。 掴まらせて登ろうとしても、巻取りの間は良い的になるだけだ。 「ええい……まだか、星!」 先程の轟音も気になるが……今はとにかく消耗を強いる時。 そう考え、愛紗は更なる斉射を命じた。 すぐに、夜が来る。 「風! 一体どういう事!?」 呼びに来た桂花を従え、一刀の眠る部屋に飛び込んできた華琳は、 そこで風と共に寝台の横に立つ赤髪の青年の姿を認めた。 「貴方……何者?」 殺意すら漂わせた誰何に、青年は鷹揚に応えた。 「君が曹操か。俺は華佗、流れの医者だ」 「……華佗?」 「ここに重傷者が居るとこの程cから聞いてな。無断で入った事に関しては謝罪しよう」 そう言って風を指し示すと、風は珍しく困った様な顔で頷いた。 「そもそもどうやって入ったのよ……正門はおろか、その他の出入り口だって封鎖してるのに」 「ああ、壁を越えた。歩いてな」 「……アンタ、何言ってんの?」 唖然とした桂花の反応に苦笑して、風が説明を続ける。 「まー、それは置いといて……先程、中庭で兵隊さん達が騒いでいましてー……見ると、こちらの華佗さんが」 「何か下っ端ドモと押し問答してたってぇワケよ」 後を継いだ宝ャの言葉に、華琳は疑わしげな視線を投げ掛ける。 「……で、その医者が一体何の用なのかしら?  まあ、私の知っている華佗と同一人物なら、奇行には事欠かない様だけれど」 「! 華琳さま、この男を御存知なんですか!?」 思わせぶりな華琳の言葉に、桂花が驚きの声を上げる。風も同様に、見開いた瞳で華琳を見つめていた。 「人伝にね。苦しむ人間が居れば何処にでも現れ、ありとあらゆる傷を治し、病を癒し、死人すら生き返らせる……  人呼んで『神医』華佗。究極の医術・五斗米道を継承したと言われるこの世で最高の医者だそうよ」 「違う!」 言葉とは裏腹に疑念を色濃く滲ませた華琳の言葉に、華佗が強い反応を示した。 「違うって……何が? 確かに噂は大きくなるものだけど…」 「そんな事はどうでも良い! それより、“ごとべいどう”じゃない!  “ゴットヴェイドー”だ! 良いか、間違えるな! “ゴットヴェイドー”だ!!」 「…は?」 「………ごと、べー?」 「べー」 三者三様に目を丸くした面々を見据え、『神医』華佗は鼻息も荒く力説する。 「……まあ、それは取り敢えず置いておくわ。で、話を戻すけど。その神医が何故、こんな所に居るの?」 「良くは無い!」と抗議する華佗を当然の様に黙殺し、いち早く頭を切り替えた華琳が冷徹に切り込んだ。 「一体、目的は何なのかしら? 生憎こちらは忙しいの。彼を見れば分かるでしょう?  気紛れや酔狂に付き合ってる暇は無いのよ。首は刎ねないでおいてあげるから、さっさと消えなさい」 「いや、このまま帰る訳にはいかない。俺はこの城の怪我人達を救いに来たんだ」 「……何ですって?」 至極真面目にトチ狂った事を口にする目の前の青年に、華琳は思わず聞き返していた。 「戦いが始まる前に止められれば一番良かったんだが……力不足だった。  仕方が無いから、まず劣勢に見えたこちら側からどうにかしようと思ってな」 「……何の為に、そんな無意味な真似をするの?」 「無意味じゃない。俺は医者だ。怪我人や病人が居て、それで苦しんでいるのならば俺は助ける。  それが五斗米道を修めた俺の使命だ」 「………」 一片の迷い無く言い切ってみせる華佗。 有体に言えば、狂人の妄言である。わざわざ相手にする必要など無い。 だが、そう切り捨ててしまうには、華佗の眼は余りにも真剣で、しかも熱意に溢れ過ぎていた。 この男は、本気なのだ。 「あのー……華琳さま。風は、任せてみてもいいかもー…と思うのですよ?」 「ちょっと、風!?」 控えめにそう提案した風を、桂花は愕然とした顔で見遣った。 「いきなりの事で信用ならないのは当然だと思いますけどー。  ……実は風も、前に華佗さんに会った事があるのですよ」 「ええ!?」 唐突な風の爆弾発言に、桂花は再び驚愕する。 「だからここでお会いしてびっくりしました。  前の時は稟ちゃんの治療をして貰っただけなのですけどー……。  でも、華佗さんの人を助けようとする気持ちは良く分かったのですよ。  ………だから、お兄さんも」 「まあ一回コッキリだけどなー? 分かり易いっちゃ分かり易いワケだ」 「………」 華琳は一度目を閉じ、すぐに開いて寝台の上の一刀を見つめる。 ここで時間を食えばそれだけ、一刀が助かる可能性が削れていく。 その時、眉根を寄せて呻く一刀の唇から微かな声が漏れた。 「……か、り………ん」 「……!」 空耳かも知れない。だが、確かにそう聴こえたのだ。 「……華佗」 「何だ?」 「本当に、一刀を救う事が出来るの?」 「全力を尽くす」 やはり一分の迷いも無い断言に、華琳はふと微笑を浮かべた。 「そう―――もし一刀が死んだ時は、貴方の首を刎ねるわよ?」 「ああ、構わん」 「!」 「!」 冗談なのか本気なのか、判断のつきかねる華琳の言葉に、これもまた即答。 華琳と華陀のやり取りを見守る二人が絶句する。 華琳は笑みを収め、挑む様な瞳を華陀に向けた。 「ならば、お願いするわ。一刀を―――私の大切な仲間を、助けて」 「心得た。―――では、治療を開始する!!」 高らかに宣言した華佗が、腰帯から大小様々な金属の道具を取り出す。 「……鍼?」 「ああ。我が五斗米道では様々な鍼を用い、気穴を操作して患者の生命力を引き出す事を基本とする。  この大怪我だ、手術の途中で病魔に憑かれて死ぬ危険性もある。  まずは気脈を刺激し、手術に耐え得る土台を整える―――――ぬんっ!!」 「!」 「はああああああああああっ!!!」 突然噴き出した強い“氣”に、華琳は咄嗟に身構えた。 「―――――――」 細められた華佗の両眼が、横たわった一刀の身体をつぶさに観察する。 最も大きな外傷は言わずもがな左上腕。加えて左肩や背筋に多少の筋断裂、間接に炎症。 細かい傷は挙げれば限りが無いが、特に目立つのは左頬に負った刀傷だろうか。 「……衰弱が酷いな、血を失い過ぎている。  熱はあるが、しかし幸いにして病魔の侵入は今のところごく僅か。  ………ならば!」 細い鍼を指先に構えた華佗が、天を突かんばかりに大きく振りかぶる。 「我が身、我が鍼と一つとなり! 一鍼同体! 全力全快っ! 必察必治癒、病魔覆滅!!  ―――――でぇぇぇぇぇぇぇいっ!!!」 気合一閃、勢い良く振り下ろされた鍼が、一刀の身体―――その点穴を一寸の狂い無く穿つ。 「―――――っ!」 一刀の身体が、一度だけ強く痙攣した。 「………」 「ふむ、まずは良し」 落ち着き払った華佗の言を、半信半疑で見守る三人。 その視線が集中する中、強張っていた一刀の身体が徐々に弛緩し、浅い早い呼吸が緩やかになっていく。 「……一刀!」 「……う、そ」 「おおー……お兄さんの顔色が心なしか良くなったのですよー」 その言葉を肯定する様に、一刀の顔からは先程よりも死の気配が遠のいている。 「取り敢えずの処置は済んだ。が、まだ安心は出来ない。まずは一刻も早く傷口を塞ぎ、身氣の流出を止めなければ。  ……すぐに準備を始める! 誰か手伝える人間を呼んでくれ!」 「ええ、分かったわ。…桂花!」 「はい!」 華琳の声に、桂花がすぐさま部屋を飛び出していく。 「私達は籠城戦の指揮をしなければならないから、ここは貴方に任せるわ。  ……さっきの誓い、二言は無いわね?」 「俺は医者だ、そして医は仁術。苦しむ人が居るのなら、全てを捨ててもそれを助ける。  それが五斗米道の教えだ」 「そう……ならもう何も言わないわ。  ―――風! 城壁へ戻るわよ!」 「了解しましたー。………華佗さん、お兄さんの事、よろしくお願いしますよー?」 「ああ、任せろ! 五斗米道の名に懸けて、必ず」 「期待してるぜぃ」 強く頷いてみせる華佗に一刀を任せ、華琳が風を伴って部屋を出る。 後は、一刀の生きる意志次第だ。 (私は私の戦いを。そして一刀は一刀の戦いを) それぞれが、力の限りにやり抜くだけ。 生きてみせる―――私も、一刀も。 決意を新たに、華琳は自らの戦場へと走り出した。 「撃てぇっ!!」 もう何度目になるか分からない斉射の合図に、弓兵達は忠実に応えた。 だが、篝火だけが目印では、思ったような効果は上がらない。 「ちっ……牽制ももはや限界か」 疲労が目立ってきた自陣を振り返り、愛紗はそう毒づいた。 一時撤退か…それとも。 その時、考え込んでいた愛紗の耳に聞き慣れた声が弱々しく響いた。 「あ、愛紗ぁ……うー」 「……? おお、お前達か! ……ってどうしたんだ、その有様は」 「……………まっしろ」 可愛らしく咳き込む呂布からは、昼間の鬼神の如き強さは全く感じられない。 「けほっ、けほっ……すまん、連中にしてやられた。出口はおろか、入り口まで潰す念の入れ具合だ。  おかげで脱出するのに時間が掛かってしまった」 「そうか……こちらもあまり効果は出ていない」 顔を見合わせて溜息を吐く二人に、呂布は大きな欠伸を漏らした。 「………………………ねむい」 「おい呂布、お前な…」 「いや愛紗、ここは一旦退こう。既に兵も限界に近い筈だ。  向こうに時間を与えてやるのは痛いが……」 「くっ……」 「幸いにして、奴らの城に通じていた常用水路は止める事が出来た。  陽が昇れば、また攻め様も出てこようぞ」 「……分かった。総員、一時撤……」 悔しげに歯噛みした愛紗が大きく頭を振り、兵士達に大きく指示を叫ぼうとした。 だが、その前に進み出た影が一つ。 「……………行ってくる」 「…何だと? ―――おい、呂布っ!?」 仰天した愛紗の静止を振り切り、方天画戟を肩掛けにした呂布が陣から飛び出す。 「ああもう、勝手な……!」 「だが、見過ごす訳にはいくまい!」 「分かっている……! 全軍、呂布に続け! 奴を援護するんだっ!!」 どう足掻いたところで、今更取り返しは付かない。 ならば、災い転じて福と成す―――この事態を奇貨として、状況を打破するのみ。 愛紗は覚悟を決め、自身も呂布を追って突撃を開始した。 「……良し」 全ての準備を終えた華佗は、煮沸した湯と精製した高純度の酒精で手を清めた。 寝台の患者―――北郷一刀と言ったか―――は、既に処置を施されて寝かされている。 自らが発明した“麻沸散”、現代で言ういわゆる麻酔薬により、既に一刀の意識は此処には無い。 何せ骨を削るのだ、並大抵の人間であればその痛みだけで旅立ちかねない。 「後はこいつの体力が何処まで保つか…」 鍼により抵抗力を底上げしたとは言え、所詮は補助的な意味合いしかない。 最終的に全てを決するのは華佗の技術、そして一刀自身の生きようとする意志である。 「死なせはしない……死なせてなるものか!」 そうして、もう一つの長い戦いが始まった。 払暁に先んじて、劉備・呂布連合軍の攻撃が激化した。 城内、城外、至る所で篝火が炊かれ、夜闇に対抗しての連戦である。 もはや猶予は無いと判断したのだろう、全軍を小分けに展開し、絶え間ない波状攻撃を仕掛けてくる。 (先の董卓戦の経験……活かしている様ね、諸葛亮っ!!) 吶喊と防御の叫びが繰り返される中、華琳もまた城壁で采配を振るい続けていた。 「弓兵、構え! 良し…っ、丸太―――落とせぇっ!!」 指示と同時に一斉に丸太が落とされ、城壁に群がっていた敵兵達が叩き落される。 「丸太戻し、急げ! 弓兵! 目標、下方敵兵―――撃てぇっ!!」 何とか丸太を潰そうと寄って来る敵を纏めて沈黙させ、華琳は後方へ指令を飛ばす。 「伝令! 東の防御が薄い、工兵を急がせよ!」 「はっ!」 「―――曹操様! 敵陣から突っ込んで来る影が! 単騎です!!」 「……何っ!?」 兵からの注進に、華琳が身を乗り出す。 闇夜に蠢く敵兵の合間を縫う様に疾走する影が持つ、あの巨大な戟は――― 「……呂布か! 弓兵、構え! 当たらなくても良い! 物量で牽制しろ――――撃てぇっ!!」 華琳の檄と共に、数百を超える矢の雨が降り注ぐ。 「……当たらない」 だが呂布には掠りもせず、虚しく大地に突き立つ矢を置き去りに更に速度を吊り上げた。 そのまま城壁まで辿り着き、巻き上げ途中の丸太へと跳躍する。 「――――――っ!!」 火矢すら物ともしない極太の縄が、糸か何かの様に容易く切断される。 落下した丸太が、地響きを立てて転がった。 それを見た敵兵達が、挙って雄叫びを上げる。 「曹操様!?」 「……くっ、丸太に油と火矢を! 破城槌代わりにされても迷惑だわ!!」 「は、はっ!!」 素早く対処を決定し、もはや無用の長物と化した防衛兵器を後ろへ下げさせる。 (決定打は潰された……この期に及んでは撤退戦も可能かどうか) 最悪の展望に眉根を寄せる華琳の下へ、持ち場を離れた桂花と風が駆け付けた。 「華琳さま! 隊の割り振り、完了しています!」 「華琳さまー、城壁守備兵の配置転換、完了致しましたー」 「二人ともご苦労様。……ふぅ」 「華琳さま……少しお休みになられた方が」 「今この時に? 馬鹿な事を言わないで。全て終わってからゆっくりと休むわ。  ――――それに」 一刀だって戦っている。そう続けようとして、華琳は口を閉ざした。 気配を察したのか、桂花も風も、それ以上の追求はしない。 もう夜明けは近い。遥か天では緩やかに星々が勢力を弱め、明ける間際の蒼く濃い闇に取って代わろうとしている。 そして地では、内と外から叫びが連続し、怒号がそれに応え、更なる叫喚を呼び起こす。 その落差に想いを馳せ、華琳はふと溜息を漏らした。 (……ままならないものね、一刀) あんな啖呵を切っておきながらこのザマだ。 自嘲と後悔と恐れと―――今までの自分であれば絶対に抱く事を許さなかったであろう感情。 ある種の驚きと共に、華琳は固く拳を握り締める。 「……華琳さまー」 束の間、闇を眺めていた華琳が、ひっそりと口を開いた風に目を向けた。 「……何かしら? 貴女こそ、疲れている様なら少し休んでいても良いのよ?」 「いえいえー。大丈夫ですよー」 常ならば人の五倍は寝ているであろう彼女は微笑み、はっきりと首を横に振る。 笑みはすぐに消え、風はごく真剣な瞳で、自らの主を見据えた。 「……風はですね、華琳さまにお仕えする前、程立と名乗っておりました」 唐突な風の言葉に、華琳は眉を顰める。 「…そう言えば、改名したと言っていたわね。けれど、それがどうかしたの?」 「実は文官として採用された時、とある夢を見まして。それで名前を変えてみたのです」 「……何か、夢を見たとか言っていた話?」 桂花の確認に、風は頷いてみせる。 だが華琳も桂花も、風の話の意味は分かっても、話し始めた理由が掴めない。 二人の戸惑いに構わず、風は嬉しげに続ける。 「はい。…大きな日輪を、風が支えて立つ夢なのです」 「…日輪を? ああ、それで立からcに」 「はい。その日輪は強くて暖かくて……。  この大陸の隅々にまで命を届ける、とても優しい光だったのですよ」 「……その太陽が、私だと言いたいの?」 華琳の言葉に、風は大きく頷いた。 「今はそう思っているのです。華琳さまに仕え、この手で日輪を支えるのが風の役目なのです。  ……でも」 「……?」 「残念ながら、今の日輪は……曇っておいでです」 「な……っ」 予想外の呟きに、華琳は面食らう。だが、風は更に頭を振った。 「でも、日輪は滅んだりはしません……決して。ですから華琳さま。  貴女はここで死ぬような御方ではありませんよー………そう、お兄さんだって、きっと」 「……!」 予期せぬ方向からの衝撃に、華琳は軽く目眩を覚える。 だが、それは不思議と、不快なものではなかった。 「………ありがとう、風」 きっと、自然に言えただろう。 そうだ。私が此処で死ぬ筈が無い。何故なら――― 「そうです! 華琳さまは常に私達の中心に居られる御方なのですから!  あまり弱気な顔をされては兵士達も動揺してしまいます!」 「ふふー。桂花ちゃん、お兄さんみたいな言い方しますねー?」 「な……そんな訳ないでしょ!? 誰があんな奴の! 寝不足で頭がおかしくなってるんじゃないの!?」 二人の口論を聞くとはなしに聞きながら、華琳は改めて思った。 そう、私は王―――誇り高き曹操孟徳。こんな処で立ち止まる事など有り得ない。 何があろうと進み続ける。そしてこの手で全てを掴む。 それこそが私の生き方なのだと。 一刀ならきっと、そう言うだろう。 「さぁ、お喋りは終わり―――往くわよ、二人とも」 「御意!」 「御意ですー」 清冽な声で命令を下すと同時に、東から一条の光が差す。 長い夜が明け、蒼い夜の闇は急速にその色を塗り変えようとしている。 「……? 華琳さま!」 「どうした!?」 その光に目を細めていた桂花が、悲鳴に近い声を上げた。 「地平の向こうに大量の兵が!」 「敵の増援か!?」 「流石にこの状況で増援は…」 華琳と風も慌てて桂花の示す方角に目を向ける。 闇を切り裂く光を背負い、数十、数百……それに留まらない、もっと大きな数の群れが動いているのが分かった。 「うろたえるのは止しなさい! 桂花、新たな部隊の旗標を確認なさい」 「旗は……何あれ、こんなに大量の旗って……何処かの連合軍なの!?」 「…………まさか、西の部族連合か……!?」 「んーとー……」 華琳の脳裏に過ぎった最悪の可能性は、しかし風の能天気な声によって破られた。 「旗標は夏侯、楽、許、郭………それに紺碧の張旗。みーんな、お味方の旗ですねー」 「……っ! そうか、ようやく来たのね!」 華琳の顔に、隠し様も無い歓喜が滲み出す。 辛苦に塗れた戦いの中、ただ待ちに待った一瞬が、遂に訪れようとしていた。 「うっしゃ、間に合うたみたいやな!」 「急いだ甲斐がありましたね」 戦意に溢れた騎馬武者の声に、冷静そのものの軍師の声が応じる。 「春蘭さま! 城の旗は健在ですよ! 華琳さま達はご無事です!」 「当ったり前だー! 我らの華琳さまだぞ! そう簡単に負ける筈があるまい!」 「はいっ!」 喜びに満ちた少女の声に、一片の疑念無く確信を込めた隻眼の女将軍の声が応える。 「秋蘭さま! 城から反応がありました! あれは!?」 「うむ、城の側もこちらの動きに同調して、突撃を掛けてくださるのだろう」 「流石秋蘭さま! 全てお分かりなんですね」 「………済まん。今のは全部、私の勘だ」 敬意の滲む少女の問いに、飄々とした智将の声が重なる。 「…あれー? 隊長がいないっぽいのー」 「いや、流石にこの距離じゃ見えへんやろ」 「えー、でも華琳さま達が居るのは良く分かるよー? 居残りの将は全員城壁の上みたいなのー」 「あー……まー確かにあの種馬特有のやーらしい気配はせーへんもんなぁ」 「お前ら……少しは緊張感というものをだな。それに……隊長は隊長で、何か任務でもあるのだろう」 「せやなー。何たって華琳さまの窮地を救った立役者やもの」 「ふぅん……何にせよ、パパッと戦ってチャチャッと蹴散らしてサクッと勝って、隊長にご報告するのー!」 「おー!」 「やれやれ……」 三者三様に、城に居る筈の“隊長”を案じる声が尾を引く。 「おお。やはり華琳さまもこちらの作戦の意図に気付いておられる様だ」 「良し! 総員、力の限りに叫べ! 我らの存在を天下に示すのだ!!」 黎明を裂いて戦場に響く鬨の声が、城からの雄叫びに呼応して何倍にも跳ね上がる。 煌く陽光の中、魏武の精髄が今、花開こうとしていた。 「良いか、我らが目指すはただ一つ!」 「劉備の軍勢を打ち払い、我らが主をお救いする事だ!!」 「「「「「「応ォーーーーーー!!!」」」」」」 魏の柱石たる姉妹の下に、全軍の意志が集結する。 「ならば征くぞ! 総員、突撃ぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーっ!!!!」 高らかな咆哮と共に、馬蹄の響きが大地を揺るがす。 この戦いの最後を飾るに相応しい激突が、今まさに始まろうとしていた。 「……どうやら、戦は終わったようだな」 柔らかに差し込む朝日の中で、ぐったりと壁にもたれた華佗が吐息交じりに呟いた。 その視線の先には、穏やかな寝顔で横たわる一刀の姿がある。 左腕があった箇所には、真新しい包帯がきっちりと巻かれていた。 「これにて治療完了…………だが、まだまだ倒れる訳にはいかんな」 戦が終わったという事は、つまり治療を待つ怪我人が大勢出たという事だ。 ならば、いつまでも此処に居る訳には行くまい。 五斗米道の教え。それはあまねく全ての人々を癒し、救いへと導く事。 「ひとまずは安心だが……何もかも元通りにはならないだろう。  俺に出来る事はここまでだ。後は北郷、お前次第だ――――」 昏々と眠り続ける一刀の面貌には、もはや死相の陰は無い。 己が身体に活を入れ、華佗は再び自らの戦場へと舞い戻っていった。 危ういところでその一命を取り留めた天の御遣い、北郷一刀。 この先に待つ運命がどんな貌をしているのか――――それはまだ、誰にも分からない。 隻腕の御遣い 二 了