数奇な運命に巻き込まれ、名にし負う『三国志』の時代へと降り立った少年・北郷一刀。 後に三国の一つ『魏』を建国する英雄・曹操孟徳―――華琳に見出された一刀は、 その持てる『天の国』の知識と自らの才覚により、逞しく強かに、この乱世を生き抜いていた。 そんな彼に、ある一つの転機が訪れる。 それがどの様な運命を齎すのかは――――まだ誰にも分からない。 さぁ、貴方に僅かな時あらば活目あれ。 この捻じ曲げられた外史の行く末を――――。 隻腕の御遣い 一 「…む? あれは………戦か?」 眼下に広がる荒野を見渡して、断崖に立つ青年は独りごちた。 鍛え上げられた体躯に赤い髪の、精悍な印象の青年である。 旅の途中なのか、その手には大きな荷物が無造作にぶら下げられている。 その鋭い瞳が見据える先には、出城の前に布陣した紫の旗と、そこから目算で十里程度離れて布陣した緑の旗。 『曹』。そして『劉』。 翻る牙門旗は静かに、しかし熱気に包まれて激突の時を待っている。 「また、人が傷付くのか―――」 苦悩を秘めた呟きを漏らし、青年はそのまま崖を降り始めた。 その目指す場所は、彼にしか分からない。 劉備・呂布連合軍の侵攻を受けてから、既に七日余り。 遠征中の主だった武将を欠き、兵数においても敵を下回る状態で迎え撃った曹操軍は、 関羽・張飛を初めとする名立たる勇将達の猛攻の前に徐々に劣勢へと追い込まれつつあった。 そんな中、後曲の指揮に当たっていた一刀は華琳の危機を察知し、単身前線へとその身を奔らせていた。 (……流石に、無謀だったかな?) 疾駆に震える鞍の上で、一刀は前方を睨み付ける。 (真桜にも言ったように、ここであいつを失う訳にはいかない) 腰に眼を落とし、騒々しい部下から掻っ攫ってきた包みがそこで揺れているのを確認する。 (間に合ってくれよ―――) より速く、より強くと願う様に手綱を握り直し、馬体を締める腿に力を込める。 空身の馬を併走させながら、鋭く前だけを見据え走る。 その視線の先には、自ら剣を振るう彼の主の姿があった。 「はあああっ!」 裂帛の気合と共に放たれた一閃が、群がる雑兵の首を纏めて刈り飛ばす。 息つく暇も無く攻め立てる敵を前に、華琳は自ら剣を執って陣頭に立っていた。 「ふふ……、私自ら戦わなくてはならないほどとはね……少し甘く見ていたのかしら。  しかし、それもまた良し!」 周囲には敵と味方の怒号が交錯し、悲鳴と叫喚の重奏の中で次々と互いの命の火花が散っていく。 既に手勢の四分の一を失いながらも、華琳は楽しげに口の端を持ち上げてみせた。 「死ねぇぇぇっ!!」 「失せろ下衆が!」 「がはぁっ!?」 横合いから飛び掛った兵士を、視線すら向ける事無く両断する。 「雑魚は下がれ! 私が相手をするのは強者のみ!  誰か居ないのか! 曹孟徳はここに居るぞ!!」 押し寄せる敵を薙ぎ払い、押し包まれる味方を鼓舞する様に華琳は吼える。 その手に握られた死神の鎌・絶が振るわれる度、その優美な肢体が朱に染まっていく。 そんな彼女の声に応える様に、兵の波を割って大音声が響き渡った。 「―――曹孟徳! いざ尋常に、勝負っ!!」 砂塵に煌く黒の長髪、緑衣を翻すその姿を認めた華琳は、獰猛な笑みを浮かべて新たな敵を迎え撃つ。 「……関羽か! 成程、貴女ならば相手にとって不足無し! ……来なさい!!」 「参るっ! ―――でぇぇぇぇいっ!!」 大気を裂いて迫る青龍偃月刀を、華琳は絶の柄で受け止めた。 その衝撃に軋む身体を抑えながら、舞う様に反撃を繰り出す。 「くっ……容赦無し、という訳ね。―――はぁっ!!」 受けた一撃をそのまま返すかの如き凄絶な斬撃を、関羽は振り回した偃月刀で打ち払う。 「ぬぅっ! ……ちぃ、やはり伊達に前線に立つ訳ではないか!」 初撃を防がれた関羽の言葉に込められた僅かな畏怖に、華琳はこの状況でありながらも艶然と微笑んでみせた。 「舐めて貰っては困るわね。しかし……流石は関羽、良い腕だわ。  ―――どう? 今からでも遅くは無いわ、私の下へ来ない?」 「……この後に及んで、戯言を!!」 あからさまな挑発に激昂した関羽が踏み込み、更なる攻撃を見舞う。 必殺の連撃を防ぎながら、華琳は内心で歯噛みする。 (流石は万夫不当の勇将・関雲長。まともにやり合えば……保って後数合と言ったところかし、らっ!?) 勿論そんな内面は億尾にも出さず、むしろ涼しげな顔で攻撃をいなす華琳。 ただその限界は、刻一刻と迫っていた。 そこへ―――― 「ぎゃああああっ!!」「ぐわぁっ!?」「ぎええええええ!!!」 「!?」 兵達の断末魔に思わず振り向いた華琳は、その先に具現化した“死”の訪れを見る。 「………みつけた」 抑揚を欠いた小さな声。だが、そこには怖気を震うほどに凶悪な何かが秘められていた。 決して高くは無い背丈、細い身体つきから、物理的な圧力を感じるほどに放たれる闘気。 見間違えようも無い、あれは。 「――――――呂布、奉、先」 眼前の関羽に加え、天下無双・最強最悪とまで呼ばれた暴将の出現。 絶望が、黒い染みの様に心を蚕食していく。 「おお、呂布か! 良いところに来た! お主は周りの兵を頼む! 私は…」 「―――遅い」 「!?」 呟きと共に振るわれた方天画戟が、塵芥の様に兵達を吹き飛ばす。 寸でのところでその凶刃から逃れた華琳が体勢を立て直すよりも更に早く、感情の失せた深紅の瞳が間近に迫る。 「……っ!!」 「くっ…!!」 文字通りの全力を以って追撃の矛先を逸らした華琳の鼻先に、金糸のような髪が幾本も乱れ散る。 しかし、呂布は何の痛痒も感じさせない挙措で、手にした得物をぐるりと回した。 「…もう、一撃」 死神の指先に首筋を撫でられる感覚。 悪寒を通り越した絶対的な予感に、華琳は僅かに身を震わせた。 (駄目、もう、保たない……!) 瞑りかけた瞳に諦めが過ぎる。 大地を揺るがす踏み込みと共に、呂布が天にかざした切っ先を振り下ろす。 こんな所で―――――― 「華琳ッッ!!!」 「ッ!?」 この場に有る筈の無い声。 同時に破裂音が連続し、華琳の視界が白に染まる。 「なっ、何だ!? 何も見えんぞ……!!」 「………まっしろ」 突然の事態に狼狽した関羽と呂布が、闇雲に武器を振るう。 「こっちだ、華琳!!」 「え、あ……!」 その隙を突くように伸ばされた腕が、倒れかけた華琳の身体を強引に攫う。 (一刀……ッ!?) 声の主―――軍馬を駆った一刀に抱えられたまま、華琳は再び白煙に包まれる。 「くそっ、何処だ曹操……!」 「まっしろ…」 何も見えず、強張った身体を力強く支える腕。 その温もりに、華琳は自分でも呆れるほどの安堵を感じていた。 「危ないところだった……真桜の煙玉を持ってきておいて正解だったぁ……」 間一髪で華琳を救出する事に成功した一刀は、ようやくといった感じで大きく息を吐いた。 関雲長と呂奉先。二人の豪傑を出し抜いた脱出劇が僥倖でしかない事は、彼自身が一番良く分かっている。 (まあ……我ながら無茶するよ、本当に) 思わず身震いしながら、発明好きの部下に感謝する。 未だ乱戦は続いている筈だが、今この場所ではその気配は無い。 一刀と華琳に付き従って落ち延びた親衛隊の生き残りは、周囲に散って警戒を続けている。 この時だけと分かってはいるものの、安堵は抑え切れない。 (それに華琳も、な) 轡を引いた一刀は、先程降ろされた時から蹲ったままの華琳に笑いかけた。 その笑顔に、呆然としていた華琳はキッと表情を引き締める。 「一刀……貴方、どうしてこんな場所に居るの!? 後曲での仕事はどうしたのよ!」 「……もう、送れる兵なんて居ないさ」 「……え?」 至極当然とばかりに肩を竦める一刀に、珍しく華琳は絶句する。 「もう限界なんだよ。―――今は、城まで退こう」 その諭す様な響きに、反射的に立ち上がった華琳が叫び返す。 「ここで兵を引けと言うの!? 劉備を…あの甘ちゃんを相手に負けを認めろと!?」 「そうだ」 有無を言わせぬ断定に、再び口を閉ざす華琳。 そこへ被せる様に、一刀は滔々と理を紡ぐ。 既に理解している事実を、相手に再確認させるかの如く。 「でも、まだ終わった訳じゃない。まずは城まで下がって、そこで春蘭達との合流を待てば…  活路は幾らでも開ける」 「……嫌よ! あの子の様な甘い考えに膝を折るなんて……この私の誇りが許さないわ!」 「だから関羽と…呂布を相手に一人で戦ったって言うのか?  ―――馬鹿げてるぞ、そんな考え」 「ええ、そうよ」 分かっている。分かっているのだ。理性では、一刀の言が正しい事くらい。 だが、それを認めてしまえば……今まで自分を自分足らしめてきた何かが崩れてしまう。 微かな恐怖と共に、華琳は反駁を続ける。 「それが馬鹿なら馬鹿で結構。理想を貫く事が愚か者の証なら、それは私にとっては褒め言葉だわ」 「……」 「例えそれで野に散ったとしても、それこそ本も――」 “本望”―――そう言い切る前に、肉を打つ音が辺りに木霊した。 「……っ!?」 一気呵成に捲くし立てていた華琳が三度沈黙し、赤くなった頬を押さえて一刀を見上げる。 華琳の顔を張った一刀は、自身の方が余程苦しげだった。 「それが……、馬鹿だって言ってるんだよ!!」 「……っ! かず……と?」 此処に至るまでの長い付き合いの中で初めて聞く彼の怒声に、華琳は思わず身を竦ませた。 「この一戦に負けたくらいで、華琳が劉備に負けた事になるのかよ!?  ……そんな訳あるか! まだ負けてないだろ? まだ華琳は、ここでこうして生きてるだろ!?」 「……」 悲痛な響きさえ伴った一刀の言葉を、華琳はただ黙って受け止める。 「負けだって言うなら、膝を折って、命を取られた時こそが負けじゃないのか?  信念を、心を折られたその時こそが、本当の負けじゃないのか!?」 「………」 「……今は一旦城に退いてみせるだけだ。体勢を立て直して…籠城するくらいの戦力はまだ残ってるだろう?  後は春蘭や秋蘭が戻ってくるまで持ち堪えれば……最後には勝てる。絶対に……!」 「………一刀」 ひたむきに、確信を込めて言い放つ一刀。 それを何処か眩しげに見つめていた華琳が、ぽつりとその名を呟く。 一刀は苦笑して、小さな主に手を伸ばした。 「それに、あの二人が居ないところで華琳が死んだら……俺は一体どう説明すりゃ良いんだ?  絶対に殺されるぞ……いや、それだけじゃ済まないかもな。ははっ」 「ふふっ………そうね。確かにそうだわ」 差し伸べられた手を取って、ようやく華琳は真っ直ぐ前を向いた。 「落ち着いたか?」 「……ええ。少し頭に血が昇っていた様ね」 「まあ、華琳も人間だ。そういう事もあるさ……だけど、ま、落ち着いたのならすぐに動こう」 「分かってるわ。貴方の言う通り、一度城へ退きましょう」 凛と澄んだ声音で、華琳は常の様に即断してみせる。 「ああ、実はもう桂花と風には撤退指示を送っちまってるんだ」 「なぁに? 無断命令? ……いつもなら、首を刎ねるくらいでは済まないわよ? ふふっ……」 適度に力の抜けた軽い笑い。 一刀は華琳が自分を取り戻しつつある事を知り、先程よりも深い安堵を覚えた。 「一刀、戻って本隊にも撤退命令を出しなさい。その煙幕をあるだけ使って、出来るだけ時間を稼いで頂戴。  一兵でも多く城へ帰還させるのよ」 一刀が連れてきた馬に跨りながら、華琳は王としての威厳を持って命を下す。 「ああ、了解……っ!?」 既に馬上の華琳に応えようとした一刀が、唐突に言葉を切って背後を振り向く。 その視線の先に、戦塵を切り裂いて疾駆する黒髪の女武者の姿があった。 「見つけた……! 今度こそ逃さんぞ、曹操!!」 「……関羽!」 殺気を漲らせ、青龍刀を構えて突進してくる関羽。 状況に気付いた親衛隊が行く手を阻もうとするが、悪鬼と見紛うばかりの美髪公の動きに 一人、また一人と斃れ、血溜まりに沈んでいく。 それを見た一刀は瞬間、馬首を返した華琳に視線を飛ばす。 今の華琳では、関羽に対抗する事は出来ない。 援軍の可能性は無い。こちらの手勢は手負いの上に劣勢。 現状はどう考えても最悪。ならばどうする。 今、最も大事な事は何だ。それは。 (決まってる…!) 刹那、決意を固めた一刀は自分でも信じられない行動に出た。 「……華琳! 走れ!」 「なっ、一刀!?」 素早く馬に飛び乗った一刀が、抜き放った剣で華琳の乗る馬の尻を浅く傷付ける。 その痛みに驚いた馬が、華琳を乗せたまま疾走を始めた。 咄嗟に手綱を強く握り締めた華琳が、反対方向に走っていく一刀に向けて声を放つ。 「一刀! 何を……っ!?」 「二手に分かれるんだ! 一塊になって狙われるよりその方が良い!  ―――親衛隊! 華琳を守れ!!」 そう叫び終わらぬ内に、一刀は手にした煙玉を地面に叩き付けた。 先程と同様、盛大に噴き出した白煙が朦々と周囲を塗り潰していく。 その背後で馬の嘶きと、それに続く複数の馬蹄が連続した。 「く…っ!? おのれ、そう何度も同じ手が通用すると思うな!」 「端からそう思っちゃいないよ…!」 純粋な武力ではそれこそ天と地の差ほども開きがある両者だ。 正攻法で一刀に対抗出来る訳も無い。 (そんな事は百も承知。だからここは逃げの一手だ…!  ―――でも、その前に華琳が離脱する時間だけは稼ぐ!) 二手に分かれる。 そう華琳に言った事を振り捨てて、一刀は馬首を逆方向へと向ける。 最悪、ここで華琳だけでも逃れる事が出来ればそれで良い。 魏という勢力の要である彼女さえ生きていれば、幾らでも反撃の機会は掴める。 それだけを考え、一刀は立て続けに煙玉をばら撒いた。 「ちぃっ!」 短く、だが苛立ちに溢れた関羽の声が聞こえる。 少なくとも、華琳の姿は既に見失っているだろう。 これで良い。真桜特製の煙幕だ、当分は晴れまい。 (華琳は逃げられた筈。後は俺が―――) ここから逃れれば。 ―――その思いが、無意識に小さな緩みを生んだ。 「―――――――――そこかぁっ!!!」 「!!!」 全ては一瞬。 怒声と共に、白煙を突き破った黒髪の武神が姿を現す。 その腕から伸びた龍の顎が、真正面から一刀に牙を剥いた。 「命を賭して主を守るか!―――良い度胸だが、私を相手にするには力が足りんな!」 「ぐぅっ……ぐあっ!?」 左手に握っていた剣を咄嗟に突き出し、繰り出された偃月刀の切っ先を逸らす。 だが、その抵抗も僅かに終わりを先延ばすのみに過ぎない。 容易く剣を弾き飛ばし、しかし軌道をずらした青龍の刃が、一刀の左腕に喰らいついた。 鍛え抜かれた鋼の切っ先が布地を貫き、肉を断ち割り、骨を砕く。 「がああああああーーーーーーっ!!」 その事実を理解する前に、一刀の喉から叫びが生まれた。 迸る血飛沫が白い制服の半身を濡らし、今までに味わった事の無い痛みが稲妻の様に全身を暴れ回る。 (こん、な……と、ころ……で) 激痛に刻まれる意識を繋ぎ止め、一刀は狭まった視界を強引に抉じ開ける。 もはや形すら定まらない。目の前には流れる黒、翻る緑、そして伸びる鉄色。 それらを認め、無事な右腕が無意識に腰の袋へと伸びる。 「――――――死んで、たまるかぁぁーーーーーーーー!!!!」 血を飛沫く様な咆哮。 抜き放った右手に握り締められた黒い玉を、一刀はそのまま眼前の関羽に思い切り叩き付けた。 その動きに、一刀を貫いたままだった青龍偃月刀が大きく揺らぐ。 「何を―――ッ!?」 呟きにも似た、関羽の狼狽。 ぶちぶちと、肉を断ち切る刃の叫び。 咄嗟に小刀を抜き放った関羽が、投擲された黒玉を二つに断ち割る。 直後、全てを掻き消す様な耳を劈く爆音が、高く空へと駆け昇った。 僅かな兵と共に城へと帰り着いた華琳を、飛び出してきた桂花が出迎えた。 砂塵と血糊、戦場の化粧に汚れて尚美しい主の姿に、桂花は全身から喜びを露にする。 「華琳さま! ご無事で!」 だが、虎口を逃れた筈の華琳の顔は焦燥に満ちている。 当然の様に指示を飛ばすものと思っていたその唇から、悲鳴に等しい叫びが走った。 「桂花! 一刀は!? 一刀は戻っているの!?」 「……え?」 華琳の問い掛けに、桂花は戸惑いを覚えた。 先程、指令を携えて出撃した真桜からは、あの種馬―――北郷一刀が華琳を連れ戻しに行ったと聞かされている。 ならば、奴だってこうして戻ってきた華琳の傍に居るのが、認めたくは無いが道理というものではないか。 「ご、ご一緒では無かったのですか?」 「城へ戻る前に二手に分かれたのよ! まさか……」 此処に至って、華琳は自分が冷静さを欠き続けていた事をようやく自覚した。 関羽と呂布の襲撃を前にして、あの男がどんな行動に出たか。 弱いくせに仲間を何よりも大事にするあの一刀ならば、自分の危機に際してどう動くのか。 (そんな事、分かり切っていた筈………なのに!) ぎり、と華琳は唇を噛む。 抑え切れない悔恨と悪寒が、犬歯に破られた小さな傷から血と共に流れていく。 それを見た桂花が、まるで己の事であるかの様に悲鳴を上げた。 「か、華琳さま!? 何を…」 「桂花! 兵の収容を急ぎなさい!」 「ええっ!? い、いえ兵の収容は既に完了して」 「ならば、すぐに総員城壁の上に待機! 籠城戦の準備を急がせて!  それから、一小隊で良い、別働隊を組織なさい! 可能な限りで良い、一刀を捜索するのよ!  ―――急ぎなさい、関羽達の追撃が来る!!」 「は、はい!」 有無を言わせぬ王者の命令に、桂花は一先ず全てを棚上げにした。 無事かどうかは、探し出せば分かる事だ。 (そうよ、それにあの殺したって死なない馬鹿が簡単に死ぬ訳無いじゃないの) こんな処で死ねるのなら、とっくの昔に自分が呪い殺している。 全く、この私にこんな面倒を掛けさせて……あの種馬。大馬鹿の全身精液孕ませ男。 「戻ってきたらタダじゃおかないんだから……伝令!」 「はっ!」 「待機している小隊をここへ連れて来て! 最優先よ!」 「了解しましたっ!」 走り去っていく伝令を、焼け付きそうな焦りと共に見送る華琳と桂花。 いつまでもこうしてはいられない。すぐに体勢を整えなければ、劉備達はこの機を逃しはしないだろう。 出来るならば、今すぐにでも飛び出して行きたい。 そんな想いを、華琳は握り締めた掌に食い込む爪の痛みと一緒に飲み込んだ。 (一刀……) 黄砂舞う戦場は広く、見渡す限り地平の彼方まで続いている。 そこに現れる全てを見逃すまいと、華琳は瞳に更なる力を込めた。 「ぐ……今のは、何だったんだ……? まだ、耳が…くぅ」 辛そうに呻きを上げながら、関羽はようやく体勢を立て直した。 既に煙幕は風に流れ、視界を遮るものは何も無い。 (……妙、なっ……物を……西方の妖術か……?) あの黒い玉。あんな珍妙な道具は見た事も聞いた事もない。傷を負わせるでもなく、それでいて効果は絶大。 関羽は知る由も無いが、あの時一刀が投げた物は音響爆弾……要するにスタングレネードである。 一刀から話を聞いた真桜が煙幕を作った際に試作した物が、たまたま紛れ込んでいた訳だが――― そこまでは、使った一刀自身も知らない。 ただ無我夢中であったが、それ故に成功した奇策とも言える。 未だに痺れる耳を押さえながら、関羽は頭を一度だけ強く振った。 「あーーーーー! 愛紗ーーーーーーー!! 見つけたのだーーーーーーーー!!!」 その時、戦場には似つかわしくない幼い声音が、銅鑼もかくやと言わんばかりに響き渡る。 立ち尽くす関羽の許へ、赤い髪の幼い少女が、身の丈を遥かに超える武器を振り回して駆け寄ってきた。 「愛紗!」 「……おお、鈴々か。どうした」 「どうしたもこうしたもないのだ! 追撃に行った愛紗が帰ってこないから探しに来たのだ!」 「そうか……それは済まん」 関羽―――愛紗は、頬を膨らませる妹分・張飛―――鈴々に素直に謝った。 痺れは大分抜けてきたものの、頭の中では何かが反響しているような感覚が抜け切らない。 そこへ、言葉通り落ち着き払った声が割り込んだ。 「いい加減落ち着け鈴々、死んでいなければいずれ見つかると言っただろう?」 「これが落ち着いていられるかなのだー! 死んでたらどうするのだー!」 「それは……どうしようもないな」 「星は役に立たないのだー! 結局見つけたのだって鈴々なのだー!」 「やれやれ…それより愛紗、無事で何より」 「…ああ、お前も済まんな、星」 尚も叫び続ける鈴々を窘めながら、星と呼ばれた少女―――趙雲はひっそりと息を吐いた。 「しかし、曹操はどうしたのだ?」 「済まぬ……後一歩のところで逃げられた。二度とも、妙な男に邪魔をされてな……」 「ほぉ……あの関雲長を出し抜くとは。どうしてどうして、曹操軍も厚いものだ」 「ああ、正直油断していた……だが」 言葉を切り、愛紗は視線を地面へ落とす。 そこには夥しい兵士の屍に紛れる様に、砂と血に塗れた白い布地がぽつんと転がっていた。 「既に、そやつの命運も尽きた。―――ひとまずは陣に戻ろう、星、鈴々。  速やかにあの城を落とし、曹操の首級を挙げる。それが桃香さまの望みだ」 「応!」 「応なのだー!」 三人が連れ立ち、足早に去っていく。 その後に兵が続き、残ったのはただ屍の群れ―――物言わぬモノばかりであった。 「荀ケ様! 第一小隊集合致しました!」 「遅いわよ、さっさと出発しなさい! 目的は分かっているわね?」 「はっ! 北郷殿の捜索、及びその救出であります!」 「それほど時間は掛けられないわ、無理だと判断すれば戻ってきなさい」 「はっ、では行きます! ……む?」 桂花に礼を捧げ、踵を返した小隊長が動きを止める。 それを訝しんだ華琳が、思わずといった調子で声を掛けた。 「どうした、何か気になる事でもあるのか」 「はっ、いえ……その、こちらに馬らしき影が走ってくるのですが…  誰も乗っていない様に見受けられまして」 緊張に身を硬くする若い小隊長の言に、華琳は眉を顰めてその指す方向を注視する。 砂風に穿たれた黒い影が一点、徐々にこちらへと近付いて来る。 あれは――――― 「………まさか!?」 「えぇっ!? そんな、ちょっ、華琳さまっ!?」 駆け出した華琳を追って、桂花や小隊も走り出した。 背後の騒動など歯牙にも掛けず、全力で影までの距離を踏破する。 やがて、並足に近い速度で駆ける軍馬の背に、見慣れた白い制服が飛び込んできた。 「一刀ーっ!」 ぐったりと背に凭れ掛かった一刀の姿に、知らず視界が歪み始める。 それを振り切り、華琳は馬の前に立ちはだかって轡を取り、その足を停めた。 「一刀! 生きて……いいえ、当然よね。そうよ、断りも無く死ぬ事なんて、誰が許すものですか」 極度の安心感から思わず軽口を叩く華琳。 だが、うつ伏せになったままの一刀から何の反応も無い。 「………一刀? どうし……」 華琳が言い終える前に、一刀の身体が背からずり落ちる。 「一刀! ……くっ、何よ、安心して力が抜け―――――、え?」 間一髪で一刀を受け止めた華琳の顔が、苦笑から驚愕へと摩り替わる。 ぬるり、と。 掌を濡らす赤。 赤の源は、左側。 有るべき筈の物が、無い。 「………かず、と?」 そこで、今更の様に気付いた。 死人のように白い顔は、苦悶を刻んだまま。 薄く開かれた唇からは、今にも止まりそうなほど弱々しい呼気が断続的に漏れ出ている。 収まらない震えは、力の抜け切った一刀の身体からなのか、それとも抱き締める自分の身体からなのか。 「一刀、嘘よね? こんなの……かずと、かずと、かず…」 夜闇に怯える幼子の様に、華琳は一刀の名を繰り返し呼ぶ。 小隊を留め、ようやく追い付いた桂花はそこで信じられない光景を目撃した。 「起きて、一刀! 起きなさい! 私の命令が聞けないの!?  一刀、一刀、かずと……」 「華琳、さ、ま………?」 平素の威厳は粉々に砕け散り、見開かれた双眸から滂沱と涙を流す華琳。 その腕に頼りなげに抱かれた、半身を朱に染め、左腕を失った一刀。 「……………かずとーーーーーーーーーーーっ!!!!」 遥かに続く蒼天の下。 王者の仮面を投げ捨てた少女の叫びが、儚くも虚しく、木霊した。 隻腕の御遣い 一 了