第三章 第三話 「殺ってしまおう。我らの力を思い知らせてやらないとな」 孫策隊と華雄隊の交戦以来、水関はしばらく静かな日々が続いていた。 五千に満たない攻め手と、その十倍近い守り手が互いに ほとんど手を出さないという奇妙な睨み合いを続けるという膠着状態。 董卓軍としては、このまま戦を長引かせるのが目的ではあるわけだから、 敵が手を出して来ないのは願ったり叶ったりだし、 孫策隊としては、下手に手を出しても無駄に兵を損じるだけなので 自然とこうなる。 さて、攻め手の孫策隊が所属する袁術軍の本陣では…… 「孫策はようやったのぉ!妾の作戦がズバリ的中したのじゃー」 水関での緒戦の結果を聞いて、袁術はすっかりご満悦な様子。 余談だが、何も的中はしていません。 でも孫策の手柄は袁術の手柄。袁術の手柄は袁術の手柄。 見よ、この溢れるジャイアニズム。 「さっすがお嬢様。で?で?この後はどうするんですか?」 張勲が目をきらきらさせながら袁術に尋ねる。 「ウムー。ここはやはり……ごにょごにょごにょ」 こっそりと張勲に耳打ちする袁術。 「ふんふん……なるほどー。素敵すぎる作戦ですねー」 「そうであろ?そうであろ?」 「美羽さま天才ーっ。美羽さま極悪ーっ。美羽さま人でなしーっ」 最初の一つ以外褒め言葉ではなくなっている気がする。 「うむうむ。苦しゅうないぞよ。ほめよほめよ。もっとほめよ」 しかし、そんなことは袁術はまるで気にしていなかった。 大物なのか、ただおつむが足りないのか。 ともかく、袁術軍の本陣は、今日も楽しそうである。 「恋殿ーっ!出撃の準備が整いましたぞーっ!」 「……ん……」 董卓軍の増援部隊、その数は三万。 恋を補佐する形でねねが従軍し、虎牢関経由で水関へと向かう。 「万一、水関が陥落した際には、霞たちと虎牢関で合流するのよ」 そして、総軍統括の詠が二人に指示を出している。 「……ん……」 「ごめんね……。  本当はもっとたくさんの兵を連れて行かせてあげたいんだけど……」 詠は霞に対して、あと五万の増援を約束していたのに、 今回、恋が連れて行く兵の数は三万のみ。 敵の方が圧倒的に兵数が多い以上、詠としても出来るだけ多くの兵を 増援に向かわせたいところではあったのだが……。 「仕方ないのです。 ですが、我々が張遼殿の部隊と合流すれば、こちらも八万。  水関と虎牢関の地の利があれば、連合軍如き、恐れるに足らんのです!」 空元気を満面に見せ、ねねが両手を挙げる。 「ありがとう、陳宮。  もう二万……できればもう少し、どうにか増援で送れるように、  ボクの方でも頑張ってみるから……」 「詠はがんばった……。  霞もかゆーもがんばってる……。  次は恋たちががんばる……」 「はいなのです!ねねも微力ではありますが、力添えを致しますぞーっ!」 「ちんきゅ」 「はい!」 「ありがと。  それと……詠」 「……何?」 「へーかには……心配をかけたくない……」 「……わかったわ。  あんたたちが戻ってくるまでは、意地でも誤魔化し続けてあげるから。  ……だから……だから……生きて……帰りなさいよ」 「……ん……」 こうして、恋もまた俺の知らないところで戦場へと旅立って行った。 「ふへぇー」 姿勢の矯正に上品な歩き方の習得レッスンで、すっかり肩と腰がバキバキになった俺。 剣道やっていたから姿勢の良さには、自信があったつもりだったんだけどなぁ……。 情けない姿勢で部屋から出ようとしたところ、護衛の人に声をかけられた。 「……陛下、どちらへ?」 「風呂ー」 「お供するであります」 「いや、いいよー……というわけにはいかないんだよね」 「はい」 ちなみに、さすがに中までは入って来ない。 さすがにね! 見られたら恥ずかしいしね! 「……ああ、そーいえば……」 何日か前から護衛にあたってくれているはずだけど、この人とは初対面だな。 恋と華雄が山賊退治に出ているから、代理の人が来てるんだった。 「ごめんね、挨拶が遅れて。  えーっと名前は……?」 「ははっ。高順と申します。  臨時ではありますが、皇帝陛下の護衛という大任を仰せつかりましたこと、  光栄に思います」 うーん。何か堅物な感じは華雄を思い出すなぁ。 華雄、今頃どうしてるだろう……元気でやっているだろうか。 それにしても、高順……どこかで聞いた名前だ。 ああ、霞が頭固いのが玉にキズだけど、正義感がとても強い人だって言って 韓玄を逮捕しに行ってもらった人が高順だったか。 「ああ、楽成の件では急なお願いを聞いてもらって、悪かったね。  でも、おかげで助かったよ。ありがとう」 「いえ。自分は職務を果たしただけであります」 本当に堅物だ。 しかし……この人はどうしてこんなに重武装なんだろう。 唯一露出されているのは顔の部分だけだ。 重くないんだろうか。暑くないんだろうか。 しかし、背は恋と同じくらいだけど、鎧のせいで体型はよくわかんないな。 顔は……割と整っている……けど……。 「……何か小官の顔についているでありますか?」 怪訝そうな顔で俺を見つめる高順。 「目と鼻と口がついてる」 「……陛下でなければ、鉄拳制裁するところであります」 「……ごめんなさい」 厳しい!この人、華雄とかの比じゃなく真面目で厳しい! つまんない冗談言っただけで鉄拳制裁されるらしいよ! 「だいたい、何ですか。そのみっともない歩き方は。  帝たる者、もっと背筋をしゃんと伸ばして!」 「こ、こう?」 「そうであります。やればできるではないですか。  それに、その話し方も何ですか。  仮にも小官は、陛下の家臣なのですから、  そのようにまるで友人と話す時の……よう……な……」 みるみる顔が青ざめていく高順。 「……ど、どうしたの?顔色悪いよ?大丈夫?」 「い、いえ……あの……  申し訳ございません!!」 床にごんっと重い音が響く程に頭を叩きつけて、高順が土下座した。 ノリノリで説教を始めたと思ったら、いきなり土下座。 あまりの変化の早さについていけない。 「え?え?」 「臣下の分際で陛下に対し、とんだご無礼を……本当に申し訳ございません。  死を仰せつかれば、死にます。  二度と陛下に無礼な口が利けぬよう、舌を抜くと仰せならば、この場にて  我が舌を抜いてご覧に入れます!」 「い、いや、そんなことしなくていいから!とにかく顔を上げて!」 「ですが……」 「いいから!命令!顔を上げて……じゃないや、顔を上げよ高順」 「は……ははっ」 そう言って顔を上げた高順の額からつうっと血が流れる。 そんなに強く頭を打ちつけたのか! 「うわっ!血が出てるじゃないか!」 慌てて手に持っていたバスタオル的な布を、止血のために高順の額に押し当てる。 「……っ……」 「ごめんね。女の子の顔に傷つけさせちゃって……」 「そ、そんな……全ての罪は小官にあります。陛下が謝られるようなことは何も」 「ごめん。傷が残らないように早めに手当てしてもらおう」 「……陛下……」 「……何?」 「小官は武人であります。  武人たるもの、傷の一つや二つ如き、気にしていては務まりませぬ。  それに、今危険な戦場におられる張遼将軍や呂布将軍などのことを思えば、  この程度の傷を痛がっていては、申し訳が立たないであります」 「恋たちだけじゃなくて、霞もか……。  霞も山賊?」 恋と華雄だけじゃなくて、霞まで都を離れているというのだとしたら、かなり大事だ。 「賊と言えば賊ではありますが……」 「あれ?違うの?」 「どちらかと言えば、逆賊であります。  董卓殿に対して、叛旗を翻した逆徒どもの連合軍を」 「何だって!?」 「……もしや、陛下はご存知ありませんでしたか」 高順が露骨にしまった……という顔をした。 「ああ。詳しく聞かせてくれ」 でも、もうそんなことは気にしていられない。 「月!詠!」 俺の顔を見た月と詠は、バツの悪そうな表情で互いに顔を見合わせた。 「連合軍のこと、どうして教えてくれなかったんだよ!」 俺は悲しかった。 紫苑さんたちの一件の後、政務にも参加するようになって、 やっと月たちと本当の仲間になれたと思っていたのに。 「誰から聞いたの?」 「誰からでもいいだろう。そんなことより、どうしてだ!」 思わず、大声を出してしまう。 だって、国の一大事じゃないか! 王允が死ぬ直前に言っていた『鳥籠の外には既に』っていうのは このことだったのか。 俺だけ蚊帳の外とか、そんなのなしだろ!? 「へぅ……」 「月……」 詠が、俺の大声に怯えた月の手をきゅっと握る。 いけないいけない。 思わず大声を出してしまったけど、脅かしたりしたいわけじゃないんだ俺は。 なので、出来るだけ穏やかな口調で大声を出してしまったことを詫びた。 「……ごめん。大声出したのは悪かった」 「いえ、陛下がお怒りになるのは……ごもっともだと思います……」 「月は悪くないわ!  陛下に黙っておこうって言ったのはボクだし」 月を庇うように前に出る詠。 「……何でだい?詠」 「これはボクたちの失態だもの。  関係ない陛下を巻き込むわけには……いかないじゃない……」 何とも。 何とも水臭い話だなぁ、おい。 「もう……巻き込まれてるだろ」 「……え?」 「恋も華雄も霞もねねも連合軍と戦いに行ったんだろ?  この戦いに負けたら、月も詠も大変なことになるんだろ?  二人がどう思っているか知らないけどさ。  俺は、みんなのこと仲間だと思ってる。  俺が大切だと思っている人たちのことなんだ。  それは、俺ももう巻き込まれているのと同じだよ。  みんなが危ないかも知れないのに、俺だけ知らずにのうのうとしているなんて  俺は耐えられない。  だから、俺は怒っているんだ」 特に華雄なんか歴史どおりだったら、この戦いで関羽に殺されるかも知れない。 早く助けに行かないと……。 「……陛下……」 「巻き込んでくれよ。もっと。  俺が役に立てることくらい、あるだろう?」 「陛下……本当に申し訳ございませんでした。  ただ……陛下が私たちを心配してくださっているように、  私や詠ちゃんも陛下のことを心配しているんです。  私たちに万一のことがあっても、陛下だけの御身だけはお守りしよう……  そう思っていたのですが、確かに私たちは陛下のお気持ちを考えていませんでした。  本当にごめんなさい……」 月がそう言って、俺に頭を下げる。 「せっかく気を遣ってくれたのにごめんな、月。  俺も、この国を良い国にしたい。  俺は、月たちと一緒にこの国を、良い国に変えていきたい。  だから、月たちがいなくなっちゃ意味がないんだ」 「……陛下……ありがとうございます……」 月がそっと袖の裾で、目の端を拭った。 「礼には及ばないよ。  それより、月、詠。今の状況を教えてくれないか?」 「……わかったわ。  その前に……ボクからもごめん……。  連合軍のことを教えなかったことも。そのために嘘ついたことも。  ボクたちのこと、仲間だって思ってくれていたのに、  その気持ちを裏切ってしまったことも……全部全部ごめん……。  それと……ボクたちのことを信じてくれて、ありがと……」 「いいさ。仲間だからな!」 そして、俺は詠の口から今の厳しい状況を知らされた。 連合軍の迎撃に向かった部隊は水関に五万、虎牢関に三万。 対する連合軍の兵力は、三十万。 あれ?でも、董卓たちって二十万の軍勢を連れて都に来たのに、 何でそんだけしか動員できていないんだ? 「……ああ、それは……」 聞かれたくないことだった……という表情を露骨に見せる詠。 「へぅ……あのですね……」 話は随分と遡る。 月たちが都に上る前の話。 月たちは十常侍から、何進と対抗するための兵を 二十万人揃えるように命令されたらしい。 詠も四苦八苦して、兵役経験のない若者たちまでかき集めたが、 用意できたのは半分の十万。 残りの十万をどうやって揃えたものか、と途方に暮れているところに、 同郷の豪族である李確と郭の二人が、声をかけてきたのだという。 だが、詠は迷った。 この二人の手勢を加えれば、確かに二十万の兵は揃えられる。 しかし、この二人。性格に非常に難があったのだ。 それでも、この李確と郭の二人は月の言うことなら割と聞くため、 背に腹は変えられず、月は、二人に従軍をお願いすることにした。 そして、揃えた軍勢が二十万。 実質的には、董卓軍十万と李確軍五万、郭軍五万という状態であった。 そして、今回の戦についても、出来るだけ李確と郭の部隊は動かしたくない…… この危機的状況にあってもなお、詠はそう考えていたのである。 「けど、勝ってからの心配をするより、まず勝たないと意味ないだろ」 という俺の意見を月が支持した結果、月と詠が二人を説得することになった。 恋……華雄……頑張って生き延びてくれよ。 必ず助けに行くからな! 「ねー。めーりーん」 所変わって、水関付近の孫策の陣。 「……何だ、雪蓮」 「お腹空いたー」 「……奇遇だな、私もだ」 深いため息をつく周瑜。 現在、孫策隊は本陣からの兵糧輸送が途絶えており、絶賛空腹中である。 「……がぶーってしていい?」 「……だめだ」 孫策のおでこを周瑜がぺちっと叩く。 「ぶーぶー」 「……兵は相手が約十倍、そのうえに堅牢な要害として名高い水関に篭って、  こっちは味方の援護が期待できず、兵糧まで味方に止められたと来た……。  ……さすがにここまで来ると、お手上げね」 周瑜が思わず天を仰いで深く嘆息する。 「おぉい、冥琳や。飯はまだかのぅ」 そこに、やつれた様子の黄蓋がふらふらと現れた。 「祭殿、昼ご飯はもう食べたでしょう?」 母親を優しく労わるような声で、黄蓋に返事する周瑜。 「そうじゃったかのぉ……って、バカにするでないわ!  ……いかん……大きい声を出したら、ますます腹が減ったわい……」 「申し訳ございません、祭殿。  ですが、兵糧の輸送は途絶えたままでして……」 「なぜじゃ!ただでさえ、戦の時はしっかり食べねば身体がもたぬと言うのに、  もう三日もまともな飯を食うておらんぞ!  これでは戦いたくても、いざという時に戦えまいが!」 「黄蓋様の言うとおりです。  辛うじて脱走兵こそまだおりませんが、兵たちの士気の低下は著しく、  維持できなくなるのは時間の問題かと」 見回りから戻った甘寧の顔色にも憔悴の色が。 「袁術のところには兵糧を送るよう、催促の使者を度々送ってはいるのだがな……。  一人も戻らん」 一同、揃ってまたため息をつく。 「ここは退くしかないわねー」 「……そうだな」 「やむを得んのぉ」 「承知しました。敵に気取られぬよう、各部隊に撤退の準備をさせます」 「ああ、思春。敵に気取られてもかまわないから、急ぎ撤退の準備をさせなさい」 周瑜の言葉に、甘寧が眉をしかめた。 「……敵に気取られてもかまわないのですか?」 「ここで関から見送りに来てくれるようなこともあるまいて。  思春、構わん。一刻も早く本陣に合流して飯じゃ、飯」 「思春、冥琳の言うとおりにしてあげて」 「ははっ」 黄蓋と孫策にも言われ、不承不承ながら甘寧は、周瑜の指示に従うことにした。 一方、水関。 物見の兵から、ここ数日、炊煙があがらないことや、 輜重隊が後方から来た痕跡もないという報告が入っていた。 「うーむ。妙な話だが、事実だとすれば、敵は少なくとも丸二日以上、  まともに食事をしておらんということか」 報告を聞いた華雄が、腕組みをしながら唸る。 「妙は妙やけど、ウチらは油断せんとちゃんと見張っとけば、  取り立てて問題はないやろ」 という霞の方針で、董卓軍としては、事態を静観することにした。 孫策隊が撤退準備のようなものを始めているという報告を受け、 追撃を進言したものもいたが、あくまで霞は防御に専念するよう指示し、 一切の手出しを禁じた。 なので、孫策隊が後退を始めても、水関側はただ傍観を続けたため、 孫策隊は後方の袁術軍本隊に無事、合流した。 「ちょっと、袁術に会わせて欲しいんだけどー」 雪蓮が殺気を撒き散らしながら、甘寧一人を伴って、袁術の本陣へとやって来た。 数日まともなものを食べていないことも手伝い、その眼光はぎらぎらしており、 まさに修羅か羅刹かといった形相だ。 「ひ、ひいっ」 袁術の護衛の兵たちは、張勲から孫策たちが来ても通さないように命令されていたが、 あまりの恐怖に抵抗らしい抵抗もできず、素通りを許してしまった。 「お邪魔するわよー」 「あらら?孫策さんじゃありませんかー。  んもぅ、孫策さんたちが来ても通さないように言っておいたのに……」 涼しい顔で張勲が、袁術を庇うように前に出る。 「な、何じゃ、孫策。  な、なななななな何をしに来たのじゃ!」 冷静な張勲とは対照的にすっかり怯えきっている袁術。 「何って……あんたらねぇ……なんで兵糧送って来ないわけ?」 「そ、そそそそそ」 「それは道中、董卓軍の伏兵がいるという情報があったので、  輜重隊が輸送できなかったからですよー」 怯える袁術を抱きしめて、頭をなでなでしながら涼しい顔で張勲が答える。 「私たちは無事にこうして帰って来れたんだけど?」 「それはきっと、緒戦で胡軫将軍を倒した孫策さんの武勇を恐れて、  手を出して来なかったんじゃないでしょうかー?」 「……兵糧催促の使者を送ったはずだけど……?」 「さあ……知りませんねぇ〜」 あくまで笑顔を絶やさない張勲。 「……そう……。まあ、いいわ……。  とりあえず、うちの部隊はしばらく戦線から離脱するわよ」 「はぁい。ご自由にー」 去って行く孫策の背中に、笑顔を絶やさずひらひらと手を振る張勲。 陣幕を出る直前、もう一度孫策が殺気のこもった眼光で睨みつける。 陣幕の外にいた兵すら、よくわからないが寒気を感じる程の殺気だったのに、 張勲はその笑顔を崩すことはなった。 「はぁい。美羽さまー、もう大丈夫ですよー」 「こ、こここここここここ」 「鶏の鳴きまねですかー?」 「こわかったのじゃー。うえーん七乃ぉー」 戦場には不似合いな豪華な椅子から立ち上がり、袁術が張勲に抱きつく。 「怖かったですねー。よしよーし」 「ふえええぇぇぇぇん」 「あらあら、美羽さまってばあんまり怖くておもらししちゃったんですか?」 袁術が先ほどまで座っていた椅子に、確かにまだ新しいものと思われる染みが。 「だってー孫策がー孫策がー」 「もう美羽さまってば……いつまでも子供みたいなんですから……」 「妾はまだ子供なのじゃ。  こんなに可愛い子供相手に孫策はひどい奴なのじゃ」 「そうですねー。ほら、美羽さま。  早くお着替えしましょうねぇ」 「うー」 「はーい、美羽さま。では、お着物の裾を持ち上げてくださーい」 「うー」 うーうー言いながらも両手で着物の裾を持ち上げる袁術。 その様子を目を細めながら眺める張勲は、とても幸せそうでしたとさ。 ちなみに、袁術は自分のことを子供と言いましたが、それは精神年齢の話で 実年齢は十八歳以上です。念のため。 袁術の陣所から少し離れたところで、ずっと沈黙を保っていた甘寧が 孫策に声をかけた。 「雪蓮様。よくぞご辛抱なさいました」 「……こんなところであの二人を叩き斬っても仕方ないし……。  でも、十年分くらいの忍耐力を使い切った気分だわ」 「ご立派でした」 「立派なんかじゃないわよ。  それより、思春。早くご飯にしましょ。もうお腹と背中がくっつきそう」 「はいっ」 その頃、反董卓連合軍の総大将である袁紹の陣では……。 「……全く、美羽さんってば何をしていらっしゃるのかしら!?」 緒戦以来、遅々として進まない水関への攻略に、袁紹は苛立っていた。 「水関って言えば、天下の要害ですからねぇ。  袁術さまのところの軍勢だけでは、攻略は難しいんじゃないですか?」 顔良が彼女らしい正論を言う。 「斗詩さんはわかっていませんわねぇ。  従妹の美羽さんに手柄を立てさせてあげようという私の優しさが……」 「優しさって言うなら、増援を送ってあげる方がよっぽど優しいんじゃないですかー?」 珍しく、文醜もまともなことを言う。 「あら、猪々子さんまでそんなことを仰るなんて、意外ですわね」 「……文ちゃん、ここにいるのが退屈なんで、  前線で暴れたいだけなんでしょ」 「あははっ。さすがあたいの斗詩。バレたか」 「やれやれですわね……。  とはいえ、あまり水関如きに時間をかけるわけにもいきませんし、  私が華麗に助け舟を出してさしあげましょうかしら!」 孫策隊が退いてから十日。 遂に反董卓連合軍による水関への総攻撃が開始された。 城壁に押し寄せる連合軍の兵に対し、岩や大木、矢などを雨のように浴びせ、 頑強に抵抗をした。 水関攻略の功を焦る諸侯も、手痛い損害を被り、次々に安全圏まで後退した。 そして、また始まる睨み合い。 「無能ね」 遊撃隊として、本陣よりやや後方に位置していた曹操は、 戦況を見て、そう言い放った。 「あっはっはっは。全くですね、華琳様!」 得意げに曹操の右隣で腕組みして仁王立ちしているのは、夏候惇。 「姉者、あれでも友軍なのだ。  友軍の苦戦を笑っては失礼だろう」 夏候惇の逆側に立つ夏候淵が、姉である夏候惇をたしなめる。 「秋蘭の言うとおりね。確かにあれでも友軍なのだから、  いくら無様な戦いをしても、笑ってはいけないわ」 「……すみません……」 曹操にまでたしなめられ、しゅんとなる夏候惇。 「ですが、華琳さま。あまり友軍の兵を無駄に失っては、今後の戦にも支障が出ます。  早めに手を打たれた方がよろしいかと」 「そうですね。戦いはまだ始まったばかりですから」 軍師である荀ケの意見に、夏候淵も肯く。 「そうね……ところで、確か敵将はあの張遼だったかしら?」 「はい。董卓の配下で要注意人物に挙げられた一人です。  個人の武勇もさることながら、騎兵の指揮を得意とし、  戦場にあっては、神出鬼没。寡兵で大軍を破ることも数度と聞きます」 曹操の言葉に、荀ケが答える。 「そう……」 曹操の表情を見て、夏候惇と夏候淵が顔を見合わせて、ため息をつく。 「やれやれ」 「またですか……」 「さすがよくわかっているじゃない。春蘭、秋蘭。  その張遼……是非我が部下に欲しいわ」 優秀な人材(で、なおかつ容姿が整っていることが条件である)を見ると、 部下にしたがるというのが、曹操の癖の一つだ。 「そうですね……幸い、籠城戦では張遼得意の騎兵の威力は封じられますから、  水関の内側に突入できれば、後は姉者が何とかしてくれるでしょう」 夏候淵はそう言って、夏候惇の方を見て微笑む。 「わ、私が!?」 いきなり名指しされて、慌てる夏候惇。 そんな夏候惇を見て、意地悪そうな声で曹操が言う。 「あら、春蘭には荷が重いのかしら?  なら、季衣や流流にお願いするけど」 「な、何を仰いますか!  張遼ごとき、ものの数ではありません!必ずや我が刀の錆びに……」 「殺してどうすんのよ。バッカじゃないの」 「何をぅ!」 舞い上がる夏候惇に冷たい荀ケのツッコミが突き刺さる。 「生け捕りだ、姉者」 「わかっている秋蘭!必ずや張遼を華琳さまの御前に連れて参ります!」 「楽しみにしているわ、春蘭」 「ははっ!」 曹操の部隊が前面に出ることで、水関への攻撃は一気に苛烈さが増した。 他の太守の部隊などと連携し、昼夜を問わずに攻撃を繰り返すようになったのだ。 攻め手は数が多いので、交代で後方に下がり休憩することも出来たが、 守る側は、如何に地の利があるとはいえ、ただでさえ数で劣るため、 身体的疲労は急速に募っていった。 「……殿……遼殿……」 「……寝てへんよ!  って、なんや。華雄っちかいな」 華雄に声をかけられて我に返った霞。 「……張遼将軍もだいぶお疲れのご様子で……」 絶えず防戦にあたる味方を督戦していた霞。 その表情に疲労の色は濃く、ついに今、意識がわずかな時間だが飛んでいた。 「まあ、さすがにこれは応えるわなぁ」 「少し、お休みになられてはいかがです?」 「せやなぁ……けど、それより何とか善後策を考えなあかんやろ。  このままではジリ貧や。あと何日もつかわからへんで」 「……いっそ、打って出ますか?」 「アホかい。寝てへんのに寝ぼけたこと言うてる場合やないで」 「す、すみませぬ……」 華雄は、大真面目で言ったつもりだったが、霞にボケとしてあしらわれた。 「……虎牢関まで退くか」 「し、水関を手放すのですか?」 「ウチらの最終目的は?」 「……?」 「洛陽を守ることや。  そろそろ都から恋の増援が、虎牢関あたりまで来てるはずやし、  ここで無理する必要はない」 だが、この張遼の決断は少し遅かった。 「せーのっ……うりゃーっ!」 掛け声と共に轟音が響き、水関の門扉に大穴が開く。 「ようし、よくやったぞ!季衣」 慌てて、周囲の兵が駆け寄る。 門扉が破られたとなれば、この場が水関防衛の生命線となるからだ。 「どんなもんだいっ!」 無邪気な声と共に、門の外から破壊者が現れた。 自分の背の半分はあろうかという鉄球を軽々と振り回す少女。 曹操の護衛を務め、その怪力は曹操軍随一とも言われる許緒である。 遠目で……いや、近くで見てもそうなのだが、まだ十代前半にしか見えない容姿と 手にした巨大鉄球のギャップは、悪い冗談にしか見えない。 が、これが現実だ。 「……ば、化け物め……」 許緒の姿を見て、思わず武器を構えたまま後ずさる守備隊。 「ひっどーい!こんな可愛い女の子つかまえて、化け物だなんて……  手加減してあげようと思ってたけど、やーめたーっ」 許緒から放たれた鉄球が、兵士を数人吹き飛ばしながら、壁に激突した。 「あっという間にみんな倒して、華琳さまにほめてもらうんだっ」 そして、許緒の後ろから大剣を担いだ夏候惇も現れる。 「そうだな、季衣。  殺ってしまおう。我らの力を思い知らせてやらないとな」 「はいっ!」 「あかん!虎牢関まで後退や!呂布隊と合流するで!」 霞や華雄も懸命に防戦に努めたが、兵も将も連日の戦闘で疲れきっており、 門扉を破られてから間もなく、水関は連合軍の手に落ちた。 残存部隊をどうにかまとめた霞たちは、恋たちの待つ虎牢関を目指す。 しかし、その後ろには連合軍の追撃隊が迫っていた。