第一章 第三話 「ボクたちはもう後に引けないんだから」 張譲に従って、都へと向かう董卓の軍。 その数、実に二十万。 東京ドームを4つも満員に出来る程の人数である。 ……あまりピンと来ないけど、とにかくたくさんだ。 張譲は事が思惑どおりに運び、 こんな大軍を引き連れているものだから、非情に機嫌がいい。 さっきから口から開けば、 「見てなよ。あの下品な肉屋のババァに、  図に乗った報いって奴を思い知らせてやるから。  きっと、痛快だよ」 と不穏な発言を、にっこにこしながら連呼したり、 「まだ洛陽に着かないのか?」 とそわそわしたり、まるで遠足のバスに乗ってる小学生だ。 まあ、年齢的にも小学生だけどな……。 「なぁ、俺まで都に一緒に行っていいのか?  俺って西方に追放されるんじゃなかったっけ?」 「んー?肉屋のババァたちを片付けるまでは、隠れていてもらう必要があるから、  当分は董卓にでも、匿わせておくよ。  あの肉屋姉妹のバカ息子を、玉座から引きずり下ろしたらすぐに  お前に役立ってもらわないといけないからね」 「さっきから気になってたんだけど、肉屋姉妹とかって何?」 あえてババァという方の表現は避けてみた。 「お前、肉屋も知らないのか?」 あ、今ものすごいバカにされた。 今ものすごいバカにされたね! 「いや、屠殺した動物の肉を売ってるとか、その程度はわかってるよ」 「ああ……何進と何太后の二人はね、  もともと町の下賎な肉屋の姉妹だったんだよ。  ボクたちの先代の十常侍に、親が賄賂を随分と積んだらしくてね。  妹を後宮入りさせてもらってからも賄賂を贈り続けたとかでさ。  うまくやったもんで、子供までこさえやがって。  皇帝の子を生んだ后の姉だからって、賄賂と寵愛を受けた妹の力で  姉妹ともども成り上がったってわけさ」 「なるほどね……」 貴族の生まれとかでない市井の娘が、皇后まで上り詰めたものだから、 それが面白くない人たちに、蔑まれた呼び方をされているわけだ。 「奴らもボクたちのやることに口出ししなければ、  そのままの地位で一生を終えられただろうに。  哀れな奴らだよ」 十常侍の張譲が、二十万の大軍を連れ都へと迫る、 という情報をいち早く察知していたのは、曹操たちだった。 「華琳様、大変です!」 夏候惇が斥候からの報告を、主である曹操のところへ伝えようと廊下を走る。 「華琳様!華琳様!」 戸をバタンとがさつに開けた夏候惇の眼に飛び込んできたのは 「あら、春蘭。慌ててどうしたの?」 曹操の足の指と指の間を舌で綺麗にしようとしている荀ケであった。 しかも、荀ケと来たら、ご丁寧に裸で。 夏候惇からは菊の花が丸見えでござる。 「け、桂花!何をしてるんだ貴様!」 夏候惇が血相を変えて、荀ケに詰め寄る。 「っ!」 「二人とも落ち着きなさい」 曹操はあくまで冷静だ。 まるで動じない。 「で、ですが……華琳様ぁ」 急に情けない声を出す夏候惇。 「……私が命令したのよ。  それよりも、火急の報告なのでしょう?」 「は、はいっ。  十常侍の一人が、西涼から二十万の軍勢を引き連れて、都を目指しているそうです!」 「二十万ですって!?」 曹操よりも早く荀ケが、その言葉に反応した。 全裸で。 「……随分な大軍を揃えたものね。  仮に何進が、都の軍を結集させたとしても、せいぜい十万。  戦は数が全てではないけれど、数の差は勝敗を分ける十分な要因たり得るわ。  で、春蘭。その軍を率いているのは誰?」 どうやら、都に迫る脅威に興味津々らしい。 乱世の奸雄の血が騒ぐ、といったところか。 「はぁ、それが董卓とか何とか……」 「あまり聞き覚えのない名ね」 曹操の形の良い眉が歪んだ。 「確か、黄巾の乱の後、急速に勢力を伸ばした  西涼の刺史の名が董卓だったかと。  十常侍に誼を通じて、出世したなどという噂がありましたが、  まさか二十万もの軍を動員できる程とは思いませんでした」 「……そう」 荀ケの情報に曹操は不満げな様子。 「二十万もの軍を動員できるとは思わないって言っても、  実際に物見の兵は、二十万近い兵を率いているって言っていたんだ。  無理矢理にでもかき集めて、二十万揃えたんだろ?」 「それが出来るとは思えないって話をしてるんでしょ?  この脳筋女!」 「何をぅ!?」 睨み合う荀ケと夏候惇。 「そうね。春蘭の言は案外、真実に近いかも知れないわ。  とは言っても、相手の力量は未だ未知数だし、  何進の指揮では勝てる戦も勝てないわ。  保険が必要かしらね」 そう二人に告げて、曹操は東の空を見上げた。 曹操たちに遅れること数日。 都中を、張譲が大軍を連れて都へ迫るという報が駆け巡った。 「董卓?聞き覚えのない名前ね」 董卓の名を聞いた袁紹は、奇しくも曹操と同じリアクションをした。 「麗羽様がご存知ないんですから、きっとどこかの馬の骨に違いないですよー」 「そうですわね。  どうせ、どこかの下賎の土豪が賄賂でも積んで、  にわかに成り上がったのでしょう。  卑しいですわね。オーホッホッホッホ」 文醜の言葉に同意して、小馬鹿にした感じで袁紹が高笑い。 「そうですねー、わっはっはー」 一緒になって、大笑いする文醜。 「でも、麗羽様。二十万っていうと、都の軍を総動員しても、  その半分くらいしかいないんですよ?  都で反乱でも起こされちゃったりしたら、どうするんですか?」 二人と異なり、心配そうな顔良。 この子ったら心配性なんだから! 「斗詩さん。  あなたは、名門袁家の武将として大切なことがわかっていませんわね。  たとえ二十万だろうが百万だろうが、成り上がり者の軍勢如き、  名族の精鋭の前には敵ではありませんわ!  かかっていらっしゃい、董卓さん!」 「よっ!さすが麗羽様!」 「はぁ、そういうものですか……」 「そういうものよ。  そんなこともわからないなんて。  ……斗詩さん。  貴女には、名族の将たるにふさわしくなっていただくための  ……教育が必要かも知れませんわね」 そう言って顔良の頬をそっと手で撫で、そのまま指先でくいっと 顎を持ち上げる袁紹。 「麗羽……様……」 何進にとって、 董卓たちの目的は不明ではあるものの、二十万という兵力は脅威だった。 「二十……万……」 大将軍などと呼ばれている何進だが、 彼女が直接動かせるのは都にいる兵力のみで、 十万ほどに過ぎない。 地方の領主に協力を仰いで兵をかき集めれば、 百万以上の兵を集めることも可能ではある。 が、黄巾の乱以来、地方の治安も悪化しており、 とてもではないが、そんな兵力を集めることは出来ないだろう。 何より、何進にそこまでの人望がない。 暴を以って暴に易う、とは言ったもので政敵である十常侍を 武力で屈服させた何進は今、董卓という未知の勢力に怯えていた。 「どうすれば……一体どうすれば……」 だが、何進は董卓たちの接近を知るのがあまりに遅すぎた。 遅すぎたのだ。 董卓の軍は、洛陽の西方に陣を構えて、進軍を停止した。 「さて、皇弟殿下には事が済むまで、こちらに董卓たちと一緒にいてもらうとして……  董卓、ボクの護衛に将一人と兵を三万ほど貸してもらおうか」 「兵三万はよろしいのですが……その……」 歯切れの悪い董卓を睨む張譲。 「何か問題でもあるのかい?」 「えっと、その……霞ちゃん、お願いできる?」 「ぇーーーーーーー」 露骨に嫌そうな張遼。 「それはボクも一緒だよ。こいつが護衛だなんて御免だね。  他にはいないのか?」 「あの……殿下の護衛をされている呂布さんでは……いけないのですか?」 「呂布は殿下の護衛だから、ここに残して行く。  それに、お前たちの兵を率いるのだから、お前たちの将の方がいいだろう?」 困った様子の董卓と賈駆。 ……そんなに人材いないのか。 例えば、李確とか郭とか色々いたよな、三国志で。 あと、あれだ。董卓のところと言えば、有名な猛将がいたよな。 「華雄とかいないの?」 思わず聞いてみる。 華雄ならかなり強いはずだし、問題ないのではなかろうか。 「華……雄……?」 あれ? きょとんとしている。 もしかして、華雄さんいない? 「詠ちゃん。聞き覚えある?」 「んー……」 「霞ちゃんは?」 「あー……この前から従軍してる騎兵の隊長にそんなんがおったよーな気ぃが……。  せやけど、殿下。どないしたん?急に」 どうも張遼の部下にいるかも知れないらしい。 ということは、まだ無名なのか。 「な、何が?」 「ウチらでさえ、あんまりおぼえてない兵の名前をようご存知やなぁって」 「偶然だよ。  なかなか勇猛な人だって、ちょっと小耳に挟んだことがあってね。  もちろん、張遼ほどじゃないけど」 「左様でっかー」 まるで納得していない様子の張遼。 無理もないか。 皇帝の弟なんて立場の人間が、地方の軍の一部隊長の名前を知ってるなんて、 どう考えても不自然だもんなー。 「……」 張譲も物言いたげな目でこっち睨んでる。 失言でした! ウム! 少しして、張遼が一人の女の人を連れて来た。 銀髪の長身の女性で、均整の取れた体つきから漂う風格。 もしかして、あれか。 華雄さんも女の人なのか。 「華雄でございます」 そう名乗って、華雄は拝跪した。 やっぱりだ。 そうかー。みんな有名人は(十常侍以外)女の子なんだなぁ……。 華雄に関しては、女の子って年じゃないかも知れないけど。 「ふん。呂布ほどじゃないだろうけど、そこそこ腕は立ちそうだな。  よし、お前をこの張譲の護衛役に任命する。  ありがたく思え!」 「ははっ」 「ボクの護衛役を務めるからには、それなりの地位がないと格好がつかないからな。  都尉に任命してやるよ。  どうだ?嬉しいか!」 「み、身に余る光栄でございます!  しかし、功なくして出世をしたとあらば、周りの者に示しがつきません。  どうか、都尉の件は私に功あって後、賜りますよう」 おお、なかなか立派な人だ。 「ふーん。まあ、いいや。  とりあえず、お前にはボクの護衛として、三万の兵を連れて都に一緒に  ついて来てもらうよ。いいな?」 「はっ」 「華雄さん、頑張ってね」 推薦した手前、応援くらいしても問題ないだろう。 張譲も華雄のこと、気に入ってくれたみたいだし。 「ははっ。我が命に代えましても、必ずや任を全うしてみせます」 「その心意気は立派だと思うけど、命は大事にしないとダメだよ」 「ありがたき……お言葉……」 「それでは、殿下、張譲様。失礼致します」 そして、華雄を連れて、董卓たちも退室した。 「華雄さん、良かったね。  張譲さん、華雄さんのこと、気に入ってくれたみたいだよ」 「まー、あの坊っちゃんのご機嫌をよろしく取っていれば、あんたはこれから  出世街道まっしぐら間違いなしよ。おめでと」 董卓は心から嬉しそうに、賈駆は少し皮肉を含んだ表情で華雄を祝福した。 「ありがとうございます、董卓様。賈駆殿。  ですが、私のような一騎兵隊長をどうして十常侍の方が……」 「それがね、不思議なことに皇弟殿下が、華雄さんのことを推挙してくれたの」 「皇弟殿下が?」 当然だが、華雄にとっては、まるで心当たりのないことなので 狐につままれたような表情である。 「ふーん。あんたも心あたりがないのね。  あの皇弟殿下は一時期失踪していたなんて噂もあったから、てっきり知り合いか  何かかとも思ったんだけど、違ったか」 「はぁ……」 「まあ、えーやーん。華雄っちも栄達の道が開けて、  ウチもあのいけすかん豎子のお守りをせんで済んで。  めでたしめでたしや」 腑に落ちない様子の三人をよそに、張遼は上機嫌だった。 「皇弟殿下が……私を……」 どうして私のような人間を、殿下がご存知だったのだろうという疑問もあったが、 (華雄さん、頑張ってね) そう笑顔で自分に告げた殿下。 その殿下の顔が、脳裡に蘇る。 (命は大事にしないとダメだよ) 私の命を気遣ってくれた殿下。 とても優しい声だった……。 今まで、私は任務のために命を賭けよと言われ続けてきた。 もちろん、武人たる者、任務のためならば命をも捨てる覚悟が必要だ。 それは理解している。 だが、皇帝の弟という雲の上のような存在である殿下が、 自分の命を大事にしろ……そう言った。 こんな言葉をかけられたのは、生まれて初めてかも知れない。 「……殿……下……」 何だ? この胸がきゅっとなる感覚は。 それに私は何を今、呟いたのだ? 「どないしたんや?華雄」 張遼将軍が私の顔をじろじろと見る。 「べ、別に何でもありませぬ!」 「ほんまか?何や顔が赤いで?  熱でもあるんちゃうか?」 「華雄、本当に大丈夫?  今更、病気だから他の人を護衛の指揮官にして欲しい、なんて言われても困るわよ?」 「だ、大丈夫です!問題ありませぬ!」 「本当に具合が悪いようだったら言ってね?」 董卓様にまで気を遣われてしまった。 「では、私は支度がありますので、これで失礼致します」 「おーう、頑張りぃやー」 「しっかり頼むわよ!」 「無理はしないでね……気をつけてね」 三人と別れ、私は足早に自室に戻った。 どうして私はこんなにもドキドキしているのだ? 大任を目の前にした高揚感か? それとも…… いや、バカな。 そんなことがあるはずがない。 だいたい、身分違いも甚だしいではないか! だが、今の皇帝の母はかつて、洛陽の町の肉屋の娘であったと言う。 ならば、私とて武功を挙げ、出世をすれば…… 何を考えているのだ、私は。 出世をすれば何だと言うのだ? バカなことを! (命は大事にしないとダメだよ) ……。 殿下は私に命を大切にせよと言われた。 だが、私は武人だ。 命よりも大事なもののためならば、 例えこの命散ることとなろうとも、悔いはない! (華雄さん、頑張ってね) そう。 そして、我ながらどうかしていると思うが、 私にとって、命より大事なものは武人の誇りと…… どうやら、貴方様らしい……。 一部隊長に過ぎなかった私を抜擢してくださった殿下。 どうして私を選ばれたのかは私にはわからない。 しかし、私はあなたのために、 この命を賭け、お役に立ってみせましょう。 殿下…… 私は…… あなたのそばにいてもいいのでしょうか? 「……かゆーっていう人が……来た……」 翌朝、恋に連れられて、華雄が張譲を迎えに来た。 「お迎えご苦労。よろしく頼むぞ」 「ははっ」 ……ん?何か華雄がこっちを見てもじもじしてる。 「あ、あのっ……殿下っ」 「ん?」 「い、いってまいります!」 ……あれ? こんな人だったっけ? 昨日会った時と随分イメージが違うなぁ。 緊張していたりするのかな? 国の重要人物の護衛だもんな。無理もないか。 「気をつけてね。武運を祈っているよ」 「あ、ありがたきお言葉!  この華雄、必ずや殿下のご期待に応えてみせます!」 張譲は、華雄率いる三万の兵と共に洛陽へ向かった。 彼がいない間は、一切面会禁止ということで、 どーんと恋が、俺の部屋の戸を通せんぼしている。 ちなみに、この前のキス以来、どことなく恋がよそよそしい。 ので、俺が何度か戸の向こうの恋に呼びかけたが、 「へーか……あうの……だめ……」 と切なそうな声で返事されるだけなので、とりあえずおとなしくすることにした。 これが乙女心は複雑ってやつか。 恋との……生まれて初めての……キス……。 思い出すだけで、身体が熱くなるのを感じる。 あの時、セキトが起きて来なかったら……どうなっていたんだろう……。 あのとき、セキトがおきてこなかったら、恋とへーかは……。 おもいだすだけで、どきどきする……。 どきどきして、頭がぼうってなって……からだがあつくなって…… へんなかんじ……。 恋が恋じゃなくなりそうで……こわい……。 だから、いまは、へーかとあっちゃ……だめ……。 「きゅーん」 セキト……。 「セキトもへーかにあいたい?」 「わんっ」 「恋も……あいたい……けど、あっちゃだめ……。  へーかがまたおこられる……」 「きゅーん」 「セキト、がまん。恋もがまん……する……」 そこへ、大きなセントバーナードっぽい犬にまたがった陳宮が現れた。 「呂布殿ーっ。いかがお過ごしですかな?」 「おっきな……犬……」 「ははは。これは、ねねの友達で張々と申します。  張々、呂布殿にご挨拶を」 「わふっ」 「張々……いいこいいこ」 張々をなでなでする恋。 一方、セキトは突然現れた大きい犬に驚いたのか、 恋の後ろに隠れてしまっている。 「おや、セキト殿をびっくりさせてしまったみたいですな。  これは失敬失敬」 「セキト、張々はやさしい。こわくない」 おそるおそる恋の後ろから姿を見せるセキト。 そんなセキトのほっぺを張々がべろんと舐める。 「よろしければ、呂布殿。一緒に中庭を散歩でもいかがですかな?」 「……だめ……」 「ぬぬ?どうしてなのです?」 「恋、へーかを守る……だから……だめ……」 「へーか?」 「へーか」 「もしや、皇弟殿下のことですかな?」 「恋のへーかは、へーかだけ。だから、へーかはへーか」 「ふむー。  それはそれとしまして、呂布殿。ここは、董卓様の陣営の中、  殿下に危害を加えるものはおりませんぞ!」 「……でも、へーかの部屋にだれも通しちゃだめっていわれてる……」 「大丈夫です!張譲殿の命令に背いて、殿下に会おうという者などおりませんぞ!  それに呂布殿。すっかりセキト殿と張々は仲良しみたいなのです!」 さっきまでの怯えっぷりはどこへやら。 すっかり、張々に甘えているセキト。 やがて、まだまだ子犬で元気のいいセキトが中庭へと駆け出す。 「あ……」 「追いかけましょう、呂布殿!」 「セキト……」 セキトを追いかけて、二人と張々が外へ駆け出したのを見計らって、 一刀の部屋の前に立った三人。 「ほな、ウチが見張っとくさかい」 董卓と賈駆と張遼のうち、董卓と賈駆が部屋へ入った。 「殿下、失礼します……」 そう言って、誰も通さないはずの戸から入ってきたのは、董卓と賈駆だった。 「どうやって入ったの?」 「ちょっとした策よ。  殿下の護衛は、腕は立つみたいだけど、知恵は今イチみたいね」 その賈駆の意地悪な言い方に、俺はちょっとムッとした。 「……俺、張譲から何も喋るなって言われてるから。  君たちと話すことは何もないよ」 「へぅ……」 「月、早速めげないの!  別に殿下が話すことがなくても、ボクたちにはあるんだよね」 「き、聞いていただけますか……?」 今にも泣き出しそうな顔の董卓。 「……聞くだけだよ?」 「あ、ありがとうございます。  殿下……私たちが殿下を、十常侍からお救い致します……」 「……?」 救う? 賈駆が言葉を続ける。 「漢帝国は今や、荒廃の一途を辿っているわ。  黄巾の乱しかり、十常侍の専横しかり、霊帝の跡目争いしかり。  官は私腹を肥やすことに執着する者ばかり。  民は重税に苦しみ、飢え、嘆きの声は天下を蓋っているわ。  ボクたちは、そんな世の中を変えてみせる。  そのためには、まず十常侍を討つ必要があるのよ」 恥ずかしながら、賈駆の話す内容は、俺にはピンと来ない話だったのだ。 ほとんど宮廷の部屋に閉じ込められ、 人と自由に話すことも許されない日々を送っていたので 昔読んだ三国志で、十常侍が悪い奴だとか、 多くの人々は貧困に喘いでいたとか、そういうのは知識として知ってはいたが、 少なくとも、この時の俺には、 俺の生きる現実としての実感は、まるでなかったんだ。 自由はないが、衣食住に困ることはない日々が俺にはあったから。 だから、この時、俺の口からはこんな間抜けな言葉が出た。 「十常侍を討つって……殺すってことか?」 「……そうです」 董卓の声は静かだったが、強い意志と決意が感じられた。 「ま、待てよ。  十常侍が悪いこととかしてるかも知れないけどさ、あいつらまだ子供じゃないか。  何も殺さなくても……」 「アンタ、何もわかってないわね」 賈駆の声には若干、怒気が孕まれていた。 「へぅ……詠ちゃん。殿下に向かって失礼だよぉ……」 「いいから、月は黙ってて。  ボクたちには、あんまり時間がないんだから。  これだけは言っておくわ。  十常侍がいくらガキだからってね、甘く見ているとアンタだって殺されるわよ。  悪戯する子供と同じ程度とか考えてるんじゃないでしょうね?  あいつらは人の命なんて何とも思ってないし、  自分たちの我がままのためなら、この国なんてどうなってもいい  なんて思ってる連中よ?  アンタが知らないところで、どれだけの罪の無い人が殺されているか  それをアンタはわかっているの!?  子供だって罪を犯せば、裁かれるのは当然でしょう?」 「……」 俺は賈駆に何も言い返せなかった。 そうだ。ここは、俺がかつていた世界じゃないんだ。 そして、俺はこの世界のことをあまりにも知らない。 「もういいわ。  ボクたちが言ったことは忘れて」 「え、詠ちゃん待って……で、殿下……失礼します……」 部屋をどすどす出て行った賈駆の後を、董卓も慌てて追いかけて出て行った。 「何や、えらい剣幕やなぁ」 部屋の外で待っていた張遼。 「宮廷の奥で甘やかされて育ったんだろうから、仕方ないのかも知れないけどさ!  世間知らずで甘っちょろいにも程があるわ!」 「殿下はきっと優しすぎるんだよ」 「まぁ、しゃあないわなぁ。  世間を見てへんと、詠にやんややんや言われたかて、ピンと来ぇへんやろ」 「……霞、ボクが間違ってるって言いたいの?」 「べーつにー」 「いざとなったら、あの殿下は幽閉して飼い殺しにしておけばいいわ。  ボクたちはもう後に引けないんだから」 「そう……だね」 「せやな」 三人の決心は固い。 中庭どころか、気が付けば陣の外まで 散歩に出かけてしまっていた恋と陳宮たち。 「……!  もうかえらないと……」 「ぬぬぬ!思えばこんな遠くまで!  呂布殿、失礼してしまったのです」 「ちんきゅは悪くない……」 「わんっ」 恋の方を振り返って嬉しそうに鳴くセキト。 「はは。セキト殿も嬉しそうですな。  しかし、呂布殿。  ご一緒していて、何度か浮かぬ表情をされていましたが、  何か悩みでもおありですかな?」 「……」 「呂布殿、解決のお手伝いが出来るかどうかはわかりませぬが、  この陳宮、いつでも呂布殿の相談でしたらお聞きしますぞ!」 にこにこしながら、恋を見上げる陳宮。 「……ぅぅ」 何か言いかけた恋が真っ赤になって俯く。 「呂布殿……?」 「あの……えっと……  へーかと、この前……口と口でちゅって」 「なななななななななな、何ですとーっ!」 陳宮の突然の大声にびくっとする恋。 「ごめん。なんでもない……」 「あ、あああ……つ、続けてくだされ、呂布殿!」 「……」 「突然、大きな声を出して申し訳なかったのです。  もう大丈夫なのです!ささ、続きを!」 と平静を取り繕いながらも、陳宮の短い腹の奥底には (あの……ちんこ殿下め……よくも呂布殿の唇を……) と真っ黒い憎悪の念が渦巻いていたわけだが、それはさておき。 「えっと……へーかとちゅってしたとき、あたまがぽうってなって……」 「ポゥッ?」 「……えっと……」 表現しようとしたが、恋の語彙では、とてもそれを陳宮に伝えられそうになかった。 「こんなかんじ……」 というわけで、実践してみた。 「んんんんーーーっ!!!!????」 陳宮の小さくて愛らしい唇に、そっと唇を重ねる恋。 びっくりした陳宮の上唇と下唇の隙間に恋は舌を差し入れ、 陳宮の舌に絡みつかせる。 「んーっんーっんーっ!」 恋は懸命に一刀とキスした時のことを思い出して、 必死に舌の動きなどを再現しようと試みたが、 あの時と違って、頭が真っ白になって意識がとろけそうなあの感覚が どうしても蘇ってこない。 「……?」 「ぷぁっ」 とりあえず、唇を離してみる。 恋の舌先と陳宮の舌先を繋ぐ細い糸が一筋。 それはもはや、どちらの唾液かわからない。 「……ちんきゅ、ごめん。うまく伝えられない……」 刹那、くてっと地面にへたり込む陳宮。 どうも腰が抜けてしまったようです。 「……ちんきゅ?」 「りょ、呂布殿……い、いきなり何をするのですか……」 陳宮の顔は真っ赤で、とろんとした目をしている。 「うまく言葉にできないから……こんな感じって伝えようとしたけど……  だめだった……ごめん……」 「い、いや、呂布殿……な、何となく……わかりましたぞ……」 必死に息を整えながら話す陳宮。 「ちんきゅ……やさしい……」 「で、呂布殿は何が伝えたかったのですかな?」 「んと……恋……病気なのかもとおもったけど……へーきみたい」 「そ、そうなのです?」 「うん……」 あのどきどきは、かずとと恋だけの とくべつなどきどきなんだ……。 「ちんきゅ、かえろ」 「ま、待ってくだされ、呂布殿ー!」 結局、腰が抜けてしまった陳宮は張々に運んでもらうことになりましたとさ。 董卓たちが帰ってしばらくして、そーっと戸が開いた。 戸からおそるおそる顔を、半分だけ覗かせている恋がそこにはいた。 「よっ」 出来るだけ、自然に挨拶してみたつもりだが、 かえって不自然だったかも知れない……。 「……よかった……」 昔ならわからなかったかも知れないけど、今ならわかる。 今、ほっとした表情をしたね、恋。 「おかえり、恋。  セキトの散歩だったのかな?  随分と遠出したみたいだね」 「ご、ごめんなさい……」 「謝らなくていいってば。  それより、楽しかった?」 「……うん……」 「よかったね、恋。  今度は俺も一緒していいかな?」 「うん」 「わんっ」 恋の腕をすり抜けたのか、セキトが俺に向かって一直線に走ってきた。 短い足を一生懸命ちょこちょこ動かしながら。 俺は、駆け寄ってきたセキトを抱き上げる。 「おー。セキトもおかえりー。  あ、こら。あんよ拭いてないじゃないか。  仕方ないな、もー。俺が拭いてやるよー」 「わんっ」 そんな俺とセキトを戸の向こうからじっと見ている恋。 「ははは。恋もこっちおいでー」 「……でも……」 「おいで、恋」 「……うん♪」 俺たちがこんなに平和を満喫していた頃、 洛陽では血の雨が降っていた。