いきなりで悪いが、俺の目の前に穴がある。  穴、穴だ。どうみても穴だ。それもけっこう深い。成人男性が一入っても首が出ないくらい深い。  おっかしいなぁ、半刻前、ちょっと買い物するために街に出る時にはなかったはずなのになぁ。  まぁしかし、こんなものをわざわざ庭のど真ん中に掘る奴など一人しかいない。というか今さっき、穴の下のほうで猫耳がぴょこんと跳ねた。  気配を消して穴の淵まで近寄ると、猫耳付きのフードを被った小柄な人影が、えっちらおっちらニヤニヤ笑いながら汗だくになって穴を掘っている。  ……本当に、何やってんだろうこの軍師殿は。  ただ穴を掘るだけならいい。きっと華琳にひたすら穴を掘ってからひたすら穴を埋める仕事をを言いつけられたのだろうと勝手に納得する。しかし笑っている。それもニヤニヤ笑っている。……まさか! 「趣味かぁー!!」 「うるさぁーい!!」  穴の底から俺の魂の叫びに対しての反応が帰ってきた。というか軍師殿、数日後には蜀に向かって天下分け目の大遠征なのにこんなことしてていいのか。いいんだろうなぁ、桂花だし。 「何よあんた! いきなり現れて大声あげないでよ妊娠しちゃうじゃない!!」 「いや、まさか桂花に友達いないのは知ってたけどさ、まさかこんなその…… 個性的な趣味に没頭してるとはまさか考えつかなくて」 「何失礼なこと言ってるのよこの変態強姦性欲魔人!! まるで私が穴掘ることしか楽しみが無いかわいそうな人みたいじゃないの!!」 「え!? 違うんだ!!?」 「あー! またアンタ失礼なことを!! そこに直りなさい!! 修正してやるわ!!」  そう言ってさっきまで穴を掘っていたスコップを投げ捨てると、桂花は穴の淵に手を付いて登ってこようとしたのだが。 「ん〜ッ!」  …… 「ん〜〜〜〜ッ! ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」  ………… 「はぁ、はぁ…… ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ! ……へきゅう」  ……あ、諦めて座り込んだ。 「……登れないんだな」  成人男性一人分より掘り進めば、小柄で力も無い桂花では脱出困難になるのは自明の理である。そんな細腕でどうやってこんなに掘り進んだんだとかは聞くな、きっとファンタジーだ。 「そこの変態ち○こ隊長! 手を貸しなさいよ!」 「まさか俺が本当に手を貸すとでも?」  と言いながら俺はしゃがんで手を伸ばす。桂花は立ち上がって尻の汚れを手で払うと、差し出した俺の手を掴む。小さな手だ。我等が曹魏の頭脳であり、俺を含めた兵士たちの生き死にを預かる身分としては、分不相応なほどに。  そこまで思考が進んだ瞬間である。いきなりぐらりと視界が傾いた。  あれ? と思う間もなく、俺の身体は俺の意志を離れ、重力という名の巨大な力にその身を任せた。目眩を意識したのは、桂花を押し倒す形で穴の底に落ちてからである。 「……あれ?」 「『……あれ?』じゃないでしょ!! アンタまで落ちてどうするつもりよ!! それともなに? アンタのその右腕は私一人支えられないほど貧弱だとでも言うつもり!?」 「桂花、夜食に甘いものを摘まむのは少し控えたほうがいい」 「失礼ね! これでも華琳様より軽いわよ!!」 「それはむしろ病的だな」 「あーもう!! ああ言えばこう言う!! とにかく退きなさいよ、重いじゃないの!!」  言われてから、ちょうど桂花の胸に顔を埋めている格好になっていることにようやく気が付いた。 「……すまない、気が付かなくて」 「今アンタ私のことバカにしたでしょ!!」 「謝ってるじゃないか!!」 「時と場合によっては謝ることが失礼になるときもあるのよ!!」 「理不尽だな」 「常識よ!」  言い争いながらも、俺は桂花の上から退こうとして身をよじらせた。途端、右足首から激痛が走った。 「……つッ!」 「ちょっと、アンタどこか怪我でもしたの!?」  桂花の声に少しだけ心配そうな気色が混じっている。俺は痛みを堪えながら桂花の上から退いた。  穴は窮屈ではあるが、人二人が横に慣れるくらいの広さはあった。そのまま桂花の横に寝転がってから言った。 「足を挫いたみたいだ、心配されるほどの怪我じゃないさ」 「そ、そう…… なら別にいいけど……」 「でもしばらく立てそうにないから誰か通りかかるまでこのままだなぁ」 「少しでも心配して損したわこの役立たず! ウドの大木! 三国伝の孫権!!」 「若のことはいうなって言っただろ!!」  と、そんな感じで言い争っていると、だんだんと日が暮れてきた。最近は春も近づき暖かくなってきたとはいえ、日が沈めば寒いことは変わりない。  穴の中は湿っているし、陽の光も届かない。それに加えて日が暮れると空気の熱も奪われていく。耐えられないほどではないが、風邪をひきそうではある。  喋り疲れたのか、桂花は空が赤く染まってきた辺りからずっと黙っている。長ズボンの俺でも寒いと思うのに、ハーフパンツの桂花はどれほどなのか。  と、そんなことを考えていた折に、隣りで人が動く気配がした。周囲は薄暗く、隣りで寝ているはずの桂花の顔もおぼろげだ。  ポスン、と軽い音がした。同時に、俺の胸元に人一人分くらいの重みが加わった。 「どういう風の吹き回しだ?」 「……勘違いするんじゃないわよ。少し、寒いの」  桂花の顔は見えない。脇から手が回される。熱を感じる。生きている熱だ。  回された腕にはすぐに力が込められ、数枚の布地を隔てた距離がさらに縮まる。胸元に感じる柔らかい重みに、布地越しに伝わる熱いくらいの体温に、俺は堪らない愛おしさを覚えた。 「ねぇ」  胸元に、吐息の熱と唇が動く感触。耳朶に届く音に桂花という形が加わる。 「何?」 「何か話してよ」 「……難しい注文だな」 「どうして?」 「こういうときにどんなことを話せばいいのかわからない」  わからないのはそれだけじゃない。俺と桂花の距離も、桂花のこの行動の意味も。  この一年間、腐れ縁と形容するのが一番適当な関係だった。そりゃあ成り行きで男女の営みに及んだこともあったが、俺と桂花の距離はそれでも一定を保っていた。そう思う。  薄闇の中で、俺は桂花との距離を見失っていた。それは桂花も同様のようだった。彼女の心臓の鼓動はいつもより激しい。そのことに、俺は堪らなくなる。  桂花がこんなことをするのも、俺がこんな感情を桂花に抱くのも、きっと全てはこの薄闇のせいなのだ。そうに違いない。  唇が動く。くすりと笑った形。いつもの小馬鹿にしたような笑いではなく、多分、俺が見たこと無いような安らいだ笑顔。 「……こういうときは詩の一つでも吟じるものじゃないの?」 「俺にそんなことができるとでも?」 「……じゃあ天の国の詩でいいわよ。どんなのがあるのよ、聞かせなさい」 「天の国の詩、ねぇ……」  そう言われて俺の脳裏に浮かぶのは、この時代から六百年ほど後に作られることになる一つの長編詩。爺ちゃんが好きで毎日朗読していたから自然と覚えた詩。 「漢皇重色思傾國  御宇多年求不得  楊家有女初長成  養在深閨人未識  天生麗質難自棄  一朝選在君王側  ……」  それは一人の男女の物語。仕事を忘れるほどに妻を愛した男と、その愛を一身に受けた女の物語だ。しかし男の地位はあまりに高すぎて、女の容姿はあまりに美しすぎた。  妻を愛しすぎたが故に起こった反乱。その最中、男は妻を自らの手で永遠に失うこととなる。  反乱が治まり、都に戻る男。しかし愛を注ぐ女がいなくなったが故に鬱々として楽しまない。女を忘れられない男は、道士に頼み女の魂を捜し求める。  男に頼まれた道士は術を使い三千世界を探し回り、ようやく仙界にて女の魂を見つけ出す。  そこで女は道士に、男との思い出の品と共に言伝を頼むのだ。 「……  臨別殷勤重寄詞  詞中有誓兩心知  七月七日長生殿  夜半無人私語時  在天願作比翼鳥  在地願為連理枝  天長地久有時盡  此恨緜緜無絶期」 「天に在りては願わくば比翼の鳥と作り、地に在りては願わくば連理の枝と為らんことを、か。……ねぇ、これ本当に天の国の詩なの?」 「俺にとっては凄く昔の、桂花にとっては凄く未来の詩だよ」 「ふぅん…… アンタの作じゃないんだ?」 「未来の詩人の功績を奪うつもりはないかな」 「もしアンタが作ったんだとしたら、詩才に溢れすぎてて気持ち悪いわ」 「さらっと人の名誉毀損するなよ」  そして、桂花は口を閉ざした。長い沈黙の帳が俺たちの間に落ちた。  三分か、五分か、それくらいの間を開けて、ようやく桂花が口を開いた。 「ねぇ、アンタに一つだけ言っておくことがあるの」 「……何?」 「アンタはね、ずうずうしいし、節操無しだし、汗臭いし、馬鹿だし、常識知らずだし、おまけに女と見れば誰彼構わず手を出すし、そのくせ腹立つくらい人気あるし、普段は馬鹿で役立たずのくせに肝心なときはしっかり仕事するし……」  一旦、桂花はそこで言葉を切った。 「でもね、そんな馬鹿でアホでマヌケでオタンコナスで、そのくせ変にカンと人身掌握術だけはやたらと発達したアンタがいたから、華琳様の魏はここまで来れたの。勿論、アンタだけじゃない。春蘭、秋蘭、季衣、流琉、凪、沙和、真桜、風に稟、天和に地和に人和、それに私や、数多くの兵士たちが華琳様の下で一つに結束したから生まれた結果よ。誰が一人欠けていても、この結果にはたどり着かなかったわ」  桂花は、らしくないことを言っている。普段は間違ってもこんなことを言うタイプの人間ではない。彼女も距離感を見失っているのか。その原因は、きっとこの薄闇だけではない。 「だから、だから……」 「桂花」  俺は桂花の頭がある場所に右手を置いた。ふわりとした桂花の髪をゆっくりと撫でる。絹糸のように繊細な髪が、俺の手の下で柔らかに流れる。 「俺は―――」 「約束しなさい」  俺の言葉を強引に断ち切り、桂花は言った。声は分かるか分からないか程度に、かすかに震えていた。 「この遠征が終わったら、今度こそアンタに赤っ恥かかせてやるんだから…… だから、約束しなさい。絶対に私たちと許都に帰るって」 「……ああ、そうだな」  俺は桂花を撫でていた右手を、そのままズボンの右ポケットに突っ込んだ。取り出したのは、昼に街で買ってきたもの。 「桂花、ちょっと左手貸して」  桂花は突然の俺の言葉に、戸惑いながらも左手を差し出した。俺は慎重にその指を確認する。薬指を見つけ出した俺は、そこに用意していたものをするりと通した。一つの赤い珊瑚から削りだした一対の指輪。俺の給料約三か月分の結晶である。 「……何、これ?」 「月下老人の話、知ってるか?」 「あったりまえじゃない。現世の人々の婚姻を司ってる神様でしょ? 冥界で婚姻が決まると赤い縄の入った袋を持って現世にやってきて、その男女の足首に決して切れない縄を結ぶって。そんなの季衣でも知っているわよ」  俺は一つ頷いてから答えた。 「天の国じゃちょっとだけ話が違ってね。月下老人は決して切れない赤い糸で、結ばれる運命の男女の小指同士を結ぶんだ」  桂花の薬指には、赤い珊瑚の指輪が光っている。俺はそこに込められた別の意図を隠すために、わざと冗談めかして言った。 「そうなると俺と桂花じゃ恋人なんてガラじゃないし、小指じゃなくて薬指がせいぜいだろ?」  俺は対になったもう片方の指輪を自分の左手の薬指に通した。桂花はマジマジと薬指の赤い輝きを見つめて、言った。 「……バッカじゃないのアンタ」 「酷いな、これでも俺と桂花の関係に相応しい贈り物、精一杯考えたんだぞ。……この指輪に誓う、俺はどこにも行きはしないよ」  桂花は大きく溜息をつくと、呆れかえったような表情で微笑んだ。 「本当に…… バカ」  そう呟いた桂花の声が消えるか消えないかの内に、遠くから俺たちを呼ぶ季衣の声が聞こえてきた。 「兄ちゃーん! 桂花ぁー! いるなら返事してー!!」 「おー、季衣ー! ここだここー!!」  俺が返事を返した時には、桂花はもう俺の上から降りていた。さっきまでは紅に染まっていた空は、気が付けばもうコバルト一色に染め直されていた。  「約束、したから」  ギリギリ耳に届くくらいの声で、桂花が独り言のように呟いた。 「破ったら、承知しないんだからね」  ……気が付いたら寝てしまっていたらしい。  私は突っ伏した机から暗い窓の外を眺めて時間を類推した。鳥が鳴くにはまだ早い時間だ。それにしても、まだアイツがいなくなってから二月もたっていないはずなのに、随分と以前の出来事のように思い出すものだ。  結局、アイツは許都に戻らなかった。あの全てが終わった日、華琳様からアイツがいなくなったと聞いたときは呆然としたけれど、私たちはいつまでもそうしているわけにはいかなかった。  許都に戻ってすぐ華琳様が私たち文官に銘じたのは、人材の発掘だった。 「唯才是挙」  性別、人格、学問の如何に関わらず、才ある者なら登用する。この言葉を魏の全土に発令した後、許都の門を叩く者は後を絶たなくなった。帰ってきてから毎日、日が昇って沈むまでの間、私たちは砂粒から金を見つけ出す作業を繰り返している。  だが才ある者など、一日に一人見つかればいいほうだ。正直、激務に見合うほどの成果が出ているとは言いがたい。  この三日は不振が続いている。三日前、最後に見つけたのは、確か司馬懿という名の男だった。  名門司馬家の次男という触れ込みだったが、背が低く、常にやたらと派手な鎧を着込んでいる奇妙な人物だった。あと声が渋い。他の国なら、いくら優秀でもあんな奇態な人物を登用すまい。 「はぁ……」  知らずに溜息が漏れた。こんなに忙しいのも全部アイツのせいだと思うと、否応無しに自覚してしまう疲れが倍になって感じる。たった一人がいなくなった穴を埋めるために、誰もが忙しそうに動いている。  風と稟と私はもとより、北郷隊の三人は、以前にもまして警備と新兵の教育に熱心になった。  春蘭の口数は以前より少なくなったし、秋蘭は自分の仕事に加えて私たちの仕事まで手伝っている。そして、二人とも一人でいることが多くなった。  季衣と流琉は驚いたことに勉強を始めた。時々秋蘭や稟や風を先生にして戦国策や孫子を読み込んでいる光景に出くわす。  霞は酒を飲むことも無く、北郷隊の三人に混じって兵の訓練を手伝っている。時々、高台に登り西の方向をなんともいえない表情で眺めていることがある。  元黄巾党の三人は、念願だったはずの全国公演に旅立った。旅立つときの三人の表情はどこか精彩を欠いていたけれど。  そして華琳様は、仕事をこなしていた。いつもと同じように、いつも以上の量を、毎日。  みな二月前と同じようで、みな確実に二月前とは違っていた。たった一人がいなくなっただけで。  頭の中に蘇る言葉がある。あの時、最後の遠征に赴く前にアイツから聞いた天の国の詩。 「天に在りては願わくば比翼の鳥と作り、地に在りては願わくば連理の枝と為らんことを、か。あの時も思ったけど、クッサい台詞よねぇ……」  そう、私たちの魏を鳥に例えるなら、アイツは片翼の風切羽だったのだ。外見上は以前と変化が無いように見えても、失った影響は確実に現れている。  でも、私たちはこのまま飛んでいかなくてはいけないのだ。たとえ片方の翼を失ったとしても。片方の枝を失ったとしても。  窓の外を眺める。空は黒から深藍、そして次第に茜色へ。暁から東雲に変わっていく空。私の左手の薬指に、空と同じ輝き。  左手の薬指に指輪をはめることに、アイツが実際に話した以上の意味があるのは気付いていた。でも、聞かないでおいてやった。聞いたらきっと、アイツが私にとって特別になってしまう。そんな気がしたから。  私は左手を窓の外に突き出すように伸ばして、手を開く。指輪は変わらずそこに輝いている。日が昇る。東向きに作られた窓から光が差し込む。空も、雲も、私自身も茜色に染まっていく。  遠くから雁の音色が聞こえてきた。餌を探しに飛んでゆくのだろう。その声が、どこか私を励ましているように聞こえた。  アイツがいなくなったと聞いたときから、私には三つの核心があった。なんの根拠もないのに、私はこの三つだけは何故か信じていた。  まず、アイツはもうこの世界のどこにもいないということ。いくらアイツがバカでアホでどうしようもない種馬野郎だったとしても、私たちに何も告げずに去っていくほど命知らずな奴ではないだろうから。  それともう一つは、アイツが生きているということ。それがここではないどこか――― たとえば、天であったとしても。  そして最後に、アイツはいつかこの国に帰ってくるだろうということ。どんな形であっても、アイツは必ずもう一度、この大地を踏むだろう。それがいつになるかまでは分からない。その時まで、私たちが生きているかも分からない。もしかしたら、この国も存在しなくなるほど先の話かもしれない。  だから、アイツに胸を張って見せ付けられる国を作らなくてはいけないのだ。去っていったことを後悔するような素晴らしい国を。華琳様と、私たちの国を。  私たちが死んで、国が滅び去り、城も崩れ去ったとしても、歴史は残る。私たちの国がどれほど素晴らしかったか。そこで私たちがどう生き、どう戦い、どう死んでいったか。  それを見たアイツは、精々悔しがるといいのだ。こんなに素晴らしい国に住めなかったことを。こんなに素晴らしい国に背を向けて去っていったことを。  指輪の珊瑚が輝いた。だから、今だけは。この夜と朝との境界の時間だけは。少しの間だけ、翼を失った痛みを堪えるのを止めさせてほしい。  視界が、少しだけ滲んだ。 「……何が『どこにも行きはしないよ』よ、嘘つき」 了