三日ほども降り続いた雨の後に、その日、建業は久々の快晴を迎えていた。 南方特有の眩しい日差しを送ってくる太陽を見上げ、一刀は胸いっぱいに空の空気を吸う。 座った幹の横に茂る緑の葉は、たっぷりと水を吸っているせいもあって、何時もよりもさらに青々として見えた。 枝葉の間から吹き込む爽やかな風に目を細めつつ、一刀は手に持った李を齧る。 「ん…今年も良い出来だ」 甘酸っぱい風味と、爽やかな香りが鼻腔に広がる。 今年の李も、実に良く育っている。 「それじゃ、もう一つ…」 と、一刀が木に生っている李に手を伸ばそうとして─── 「こらっ!サボるな馬鹿息子!」 「うっ…」 下から掛けられた声に、一刀はバツの悪そうな顔をして声のした方を見下ろす。 そこに居たのは長身の女性だった。 髪は薄桃色。腰まで伸ばしたその髪は、まるで絹のように風に流れて輝いている。 「ほらほら、ちゃきちゃき働きなさい。なんてたって孫呉の一大事なんですからね!」 切れ長の目を片方だけ瞑り、笑いながらこちらを見上げてくる。 一刀が誰よりも大好きなその女性。 孫伯符───雪蓮がそこに居た。 三国における最後の激戦───赤壁の戦いより、五年の歳月が流れた。 大陸は曹操、劉備、孫策という三つの大きな勢力によって分割統治される事になり、 人々は平和の中で、驚くほどの速さで荒廃した大陸を立て直していった。 「今までロクに交易も出来ませんでしたからねぇ。大陸全土が平和になれば、 商人の動きも活発になりますし」 とは、呉の筆頭軍師として日夜奮闘する穏の言である。 その言葉を証明するかのように、建業の都も日々市が賑わい、活気の絶えない街となった。 まるで、戦の傷と失った者の哀しみを早く忘れたいというかのように。 人々は、日々未来に向けて進んで行く。 「……あれから五年、か。時間が経つのは早いわねー」 雪蓮が徳利を背中に背負いながらくすりと笑った。 それとは対照的に、横を歩く一刀の表情はむすっといじけた様な顔になっている。 「昔を懐かしむのもいいけどさ。母様、ちょっとはこれも持ってよ…」 一刀が背負ったに籠を指差しながら言った。 そこには山と積まれた李がある。 収穫を手伝ったお礼にと、果物屋のご隠居がくれたものだ。 毎年少しだけと断りを入れているはずなのだが───どうにも年々量が増えて行き、 今年はついに背負えるだけ城に持って帰るという羽目になった。 「一刀ったら、このか弱い母様にそんな重いもの背負わせる気?」 「重いって分かってるなら手伝ってよ。大体、誰がかよわ…いひゃい!いひゃいって!」 「あらあら♪この子ったら口ばっかり達者になっちゃってー♪」 「ひょうはん!ひょうはんひゃっへ!」 一刀がじたばたと雪蓮の攻撃から逃れ、頬をさする。 「うう…。虐待だ。家庭内ぼーりょくだ…」 「失礼ね。愛情表現と言いなさいな♪」 雪蓮は可笑しそうにコロコロと笑い、一刀の頭をポンっと軽く叩いた。 それだけで一刀は何も言えなくなる。 「はぁ…ま、いっか。これも鍛錬だと思えば」 「そうそう。日々鍛錬よ鍛錬♪」 「偉そうに…。どうせまたお仕事抜け出して来たんでしょ?」 ジト目でそう言う一刀に、 「良いのよ別に。私が居なくても、蓮華たちなら十分こなしてくれるわ」 雪蓮は悪びれもなく返す。 ここ最近、雪蓮は王としての政務をほぼ蓮華や小蓮などの重臣たちに任せていた。 世代交代を進めるという名目で、雪蓮は国事の重要な決定のみ下し、主な政治は蓮華たちに 任せてしまっている。 だからこうして昼間に出歩く時間も取れるのだが……。 「蓮華ねーさまが言ってたよ。その肝心な時にもいないって」 「あはは…ま、まあ、大事はないんだし良いでしょ?」 「はぁ…」 一刀はまた溜息を吐く。 我が母らしいと言えばらしいが、大切な自分の姉達に迷惑を掛けるのは息子として 止めて欲しくもあった。 そんなやり取りをしながら、しばらく二人はゆっくりと街を歩く。 近くの広場からしきりに歓声が上がるのが聞こえる。 何でも魏から旅芸人が来ているらしく、城内でも噂になるほどらしい。 ほんの数年前なら、考えられない事だ。 「平和ね…」 雪蓮がぽつりと呟く。 目を細めて、どこか懐かしむように。 「ほんの五年前には、生きるか死ぬかの殺し合いをしていた者同士が───こうして笑い合えるんだもの」 不思議なものよね、と。雪蓮は言った。 「…冥琳おねーさま、見てるかな?」 一刀が空を見上げながら言った。 雪蓮とっては己が半身。 一刀にとっては、もう一人の母親。 そして、病に冒されながらも、その命を最後まで燃やし───平和の礎となって逝った、最愛の人。 一刀は時々思う。 自分たちは、胸を張って冥琳に誇れるのだろうかと。 「大丈夫よ」 そんな一刀の心中を察したのか、雪蓮が一刀の頭を優しく撫でる。 「きっと冥琳は───ちゃんと見守ってくれているわ。もっとも…あの子のことだから、天国で あーでもないこーでもないって口を出したそうに見てるでしょうけどね?」 「……うん。冥琳ねーさまらしいや」 「でしょ?あの子、きっと手も出したくて仕方ないはずよ?こんな風に眉をぎゅーって寄せて」 「ぷっ…そうかも」 二人で笑い合う。 冥琳なら───きっとそうしているだろうと思ったから。 「…ねえ、一刀」 「なに?」 「今度、冥琳のお墓参りに行きましょう。───皆で」 冥琳の墓は、孫堅の墓の横にある。 死後も寂しくないように───。 いつでも逢いに行けるように。 「うん…そうだね」 一刀も静かに頷いた。 皆で、いつか。 胸を張って、自分たちの国を誇れるように。 「───さて。そろそろお城に戻らないと蓮華たちにまた怒られちゃうわ」 「…やっぱり、黙ってお仕事抜け出してきたんだね?」 一刀はジト目で雪蓮を睨む。 言った傍からこの母は……。 「ほらほら、急がないと日が暮れちゃうわよ!」 そう言うと、雪蓮は一刀の手を掴み走り出す。 「って、ちょっと待って!李!李が!」 「あはははは!ちゃんと抱えとかないと、お城に着くころにはべったべたよー?」 「分かってるなら止まってよ!って、ああまたー!?」 二人は慌しく通りを駆け抜けて行く。 蒼い空の下───今日も騒がしい一日が過ぎて行く。 時は流れる。 悲しみも、喜びも───全てを抱えて今日も過ぎ去っていく。 いつか全てが忘れ去られ、風に消える事もあるだろう。 戦乱があった。 英雄達が覇を競い、輝く星の如くその命を燃やした時があった。 時は三国時代───新たな未来に何が待っているのか。 それは、誰にも分からない。