雪蓮は不機嫌だった。 別に政に追われていた訳ではない。幸い、呉には優秀かつ若く頭の良い人材が多くいる。 乱世も終わった今、平時であれば雪蓮にそれほど仕事は上がってこない。 かといって、その若い人材たちに怒っている訳でもない。大体、昨日まで節句の宴やらなんやらで騒いだばかりなのだ。 彼女たちが仕事をしてるのを眺めていて、感心はすれど怒る理由はない。 では───何故、呉の少覇王は玉座に座り眉を顰め、不機嫌そうな顔をしてるのか。 天下の英雄、孫策を不機嫌にさせているのは王としての理由ではなく。 一人の母親としてであった。 . 呉ちんこさん外伝 親子日和〜あるいは、親の心子知らず?〜 「…と、言う訳でして…その、如何いたしましょう?」 「……」 亞莎が気まずそうに問うてくるのを、雪蓮は無言で返す。 目の前にあるのは肖像画の山……それも、全て美人の絵が書かれている。 形は大小さまざまだが、どれも一級品の額縁に入れられ、絵の具ですら仄かな香を入れた上品なものを使っているらしく、 雪蓮のいる玉座の間にはいつになく甘いにおいが漂っていた。 「……で?これは何?まさか全部一刀に送られてきたんじゃないでしょうね?」 「は、はぁ…。まあ、中には孫策様宛のも幾つかありますが…」 「子供を落とすにはまず親から…って?もしかして私、舐められてる?」 はぁ、と。雪蓮はそこで一つため息をついて、指で額を押さえる。 今、雪蓮たちの目の前にあるのは、様々な地域の有力者から送られてきた肖像画───現代で言うところの、所謂見合い写真である。 近場では建業の豪商などから。果ては洛陽や成都のものまである。 誰に送られてきたかは言うまでもない。 雪蓮の自慢の息子───今や誰もが認める呉の王子である一刀にだ。 「まあ洛陽とか遠方の人間は百万里譲ってまだ仕方ないとして?何故我が都の商人がこんなの送ってくるのかしらね…。 王に対する敬意とかはどこに行ったのかしら?」 「うう、私を責めないで下さいよぉ…」 嘆く亞莎をいじめても雪蓮の気持ちは収まらない。 一刀も今年で十になる。今までこういう話が無かったわけではないが、そのたびに雪蓮は、 「我が子は天の御遣い。その胤はまず孫家に入れる」 と言って断っている。 母であり王である雪蓮の言葉は軽くない。本来ならこういうものを送ってくるだけでも不敬ものだ。 ───もっとも、その理由も一刀を拾った当初ならともかく、今ではもう形だけのものになってはいるが。 とは言え、外向けにはそういうことになっている。 「じゃあ何でこんなのが送られてくるの」 思わず、目の前にある肖像画を蹴飛ばしてしまう。こんなものでも有力者からの貢物だ。少しまずいかとも思ったが、 ……良かった。私の好みじゃないわ。 蹴飛ばした絵に描かれていた女の顔を見て、雪蓮は少しだけ機嫌を直す。あんな辛気臭いのはこちらからお断りだ。 「正室ではなくても側室ならば…という事ではないでしょうか?」 「うちの子を殷の紂王かなんかと間違えてるんじゃないの?側室とか、あの子まだ十歳よ?」 「こういうのは一度見初められたら勝ち、という考え方もありますから。…わ、私が言っている訳ではないですって!」 不謹慎な発言をした亞莎を思わず睨んでしまう。 そんな三文演義も良い所な現実などあってたまるものか。 ともかく、と。雪蓮は頭を切り替える。 「とりあえずこれ処分しておいて。燃やすなり返すなり、どうとでもして良いわ。こんなものを送ってくる輩に遠慮は要らないしね」 「はぁ…。ですが良いんですか?それなりの家からも届いてますが」 「良いの良いの。どうしてもって言うなら、私の名を出しても良いから」 ため息をついて玉座に腰を下ろす。 傍らに置いてある茶を啜る。程よい温かさと香りが頭のイライラを少し解消してくれた。 ……しかし、もうそういう時期なのかしらね? 落ち着いたところで、思考してみる。考えるのは無論一刀の事だ。 側室や後宮などは問題外だが、年齢的には好きな女の一人も居ておかしくない。 世の中、十を越えれば許婚をつけたり、婚約者を宛がうことも珍しくはないのだ。 そういうことは親である自分がしてやらねばいけないのかも知れないが───雪蓮もまだ独り身な上に、 余り強制する様な事はしたくない。身内贔屓を引いても顔も性格も悪くない。 時期が来れば自然と見つけてくるだろう程度にしか思っていなかったが…。 「…それじゃあダメなのかしら?あの子ってそういうのは鈍いし」 「んっしょ…。へ?何か仰いましたか?」 「ねえ亞莎、一刀って恋人とか彼女とかいるの?あの子、私にはそういう話したがらないのよ」 「うえっ!?あ、あの…その!た、多分…いらっしゃらないかと思うのですが…?」 「そう。いないのね…」 息子の恋愛事情をもう少し把握しておくべきかも知れない。王としても母としても。 真っ赤になってぶつぶつ言ってる亞莎はまあ放っておくとして、一度きっちり話し合うのもいいかもしれない。 いろいろと。将来のためにも。 「確かあの子、今日は街に出てたわね…。よしっ」 雪蓮は玉座から立ち上がり、早足に歩き出す。善は急げだ、どうせ市場の辺りをブラついてるだろうし、 捕まえてお茶でもしながら聞き出せばいい。 後ろで亞莎が「ちょ、ちょっと孫策様!?今日はこのあと書類の決裁がー!」とか言ってるが気にしない。 息子を思う母の気持ちが雪蓮を歩ませるのであって、決して仕事をサボるという訳ではないのだから。 昼下がり。そろそろ太陽が午後に向かってその身を動かそうとしている空の下。 一人の少年と女が飯屋の二階でくつろいでいる。 白い上着と同色の胡服を着た少年の傍らに、薄桃色の襦袢を付けた女が居た。 女の長い艶やかな黒髪が陽光を反射し、整った顔と褐色の艶めいた肌がまた美しさと妖艶さで女を輝かせている。 しかし、街を歩けば道行く男の目を釘付けにするであろうその美貌が浮かべる笑みは、今一人の少年だけに向けられていた。 名を国夫人、真名を涼香という。 遊女という下賎の身でありながら、その美貌故に呉だけではなく他国の有力者だけではなくかの漢王朝の皇帝までも 魅了したと噂されるほどの人物である。 そのような事情であるから、自然、居を構えている呉の上層部とも触れ合う事も多く、 「一刀様、お暑くはないですか?」 こうして少年の真名を呼ぶことも許されていた。 「…だいじょうぶー…」 「すっかりくつろいでしまわれて。街の警備はいいのですか?」 「うー…もうちょっとだけ。あと五分ー」 そう言って一刀はまるで猫のように丸くなる。 窓から入ってくる日差しを少しだけ眩しそうに受け、また寝息を立て始めた。 ……まるで本当に猫のよう。 ならば撫でるのが道理だろうか。猫だし。 涼香はそろそろと起こさないように静かに頭を撫でる。柔らかい髪質が実に指に良く馴染んだ。 「…色町の遊女の前で無防備に寝なさると危険ですよー?」 ……もっとも、身体を許すのはもう少し先でしょうが。 今はあどけない少年を愛でることで満足しよう。 これはこれで別種の楽しみである。 決して幼くもたくましい未来を予感させる竿を愛でたいとは思っていない。いないと思う。たぶん。 というか頼んでくれたら膝枕ぐらいするというのに。 「身持ちが硬いところはお母様に似たのでしょうか…」 そういえばと。涼香はふと考える。 ……そろそろ一刀様も頃合の歳ですね。 十を越えればそういう話も出てくるだろう。王である孫策は断っているらしいが、そういつまでも相手を決めない訳にはいくまい。 強引に見合いでもさせて許嫁でもつけるか。 それとも本人の自由恋愛に任せるのか。 …どちらにしろ、遊女の身で心配してもせんのないことですが…。 そうは思っていても何故か気になってしまう。 普段、仕事で付き合う有象無象の男どもならこうは思うまい。 「ほんと、不思議なお子様ですこと…」 その名の通り鈴の様にころころと笑いながら優しく髪を梳く。 きっとこの子には女人を惹きつける何かがあるのだろう。もっとも、女人だけではないのかも知れないが。 街に居れば様々な噂を聞くことが出来る。 それを聞けばどれだけ一刀が慕われているか分かるだろう。それはきっと、幼いながらも日々王子としての責務も果たしている者に対する 正当な評価だ。 暗殺されかけた事も一度や二度ではないと聞く。 まだあどけない少年の身でありながら、なんと重いものをその肩に背負っているのか。 それは涼香にも想像出来ない。 「んぅ…」 「あらあら…ふふっ、でももう少しこのままで居て下さいまし…」 涼香はそんな一刀に惚れ込んだ一人だ。親子ほど歳の離れている子供に惚れるも何もあったものではないが、それでも 好きになってしまったものはしょうがない。女とは、そういうものだ。 そして自分は一度惚れたら深い───。 「ねぇ……一刀様?」 そっと。起こさぬように静かに唇を近づけてみる。合口はしない。それは自分の身では叶わぬ願いだ。 そのまま寝顔を真正面から見ながら、少しだけ寂しそうに涼香は呟いた。 「遊女の恋は…叶わぬものですか?」 「───忘れたわね。私とした事が」 城から街に出た雪蓮は人でごった返す雑踏を見ながら呟いた。 今日は節句の祭りの最終日。市場は土産を買う他国の観光客や、酒を飲んで騒いでいる南国特有の 浅黒い肌をむき出しにした地元の若者などで埋め尽くされている。 …そういえば、そのために一刀を街に行かせたんだっけ。 一刀を街に出した理由を思い出す。警備の手が足りてないのだ。今日は明命も思春も町の警備に出ているはずである。 戦乱が収まった分、南港貿易の拠点として建業はかなりの速度で発展を遂げている。それに比例して街の治安を維持することも 中々に難しくなっているのだ。 都市の発展と治安の悪さは比例する。それを不満の出ない形で抑えるのも為政者の仕事だった。 「…ま、中にはこういう輩もいるけど」 雪蓮は後ろから自分の尻を触ってきた手を無造作に捻り上げる。後ろで野太い男の悲鳴が聞こえるが、気にせずそのまま投げ飛ばした。 「ぎゃあああ!!お、俺の腕がぁぁ!!」 「あら、ごめんなさい」 振り返るとそこには地面でもがいているひげ面の男とその取り巻きらしき数人の男たちが居た。 ひげ面の男の腕がおかしな方向に曲がっている。雪蓮としてはそんなに強く投げ飛ばしたつもりはないのだが、それでも地面にたたきつけられた衝撃はかなりのものだったらしい。 「て、てめえぇぇ!!何しやがる!!」 「それはこっちの台詞よ。あんたに触られてやるほど私のお尻は安くないの、それぐらいで済んでむしろ感謝してほしいぐらいだわ」 そもそも貴人に無礼を働いた輩は問答無用で切り捨てても良い。 ましてやこの地を治める呉の王だ。むしろ無礼討ちにしない分寛大と言って欲しかった。 だが、ひげ面の男たちにはそんな常識は通用しないらしく、 「このアマ…マワすぞおらぁぁぁぁ!!!」 「…品のないクズどもね。よそ者かしら?」 こんな下衆どもが城下にいるなど考えたくなかった。ならば即刻ご退場願うべきだろう。故に雪蓮は躊躇なく、 「あっそ。出来るもんならやってみなさいな」 後ろから隙を狙っていた男の股間を蹴り上げた。 「…がっ…ふっ!?」 内臓器官が潰れるような生々しい音と、何かを潰した感触を雪蓮の脚に残し、股間を蹴られた男は悶絶して倒れふした。 それを確認しながら雪蓮は改めて周囲を見る。こちらに敵意を向けている連中は合わせて6、7人と言った所か。 …丁度良い八つ当たり相手ね。 朝からつまらないものを見せられ、息子を探して人ごみを歩いたせいか些か機嫌が悪い。 ───雪蓮の顔に、獰猛な笑みが浮かぶ。 剣は抜かない。折角の祭りだ、血で染めては興ざめである。 あくまでも喧嘩だ。もっとも、その結果相手が野たれ死のうが雪蓮にとっては何も問題ない。むしろゴミ掃除が出来るというものだ。 ───ゴキッと拳を鳴らす。 いつの間にか周囲に輪が出来ている。舞台も整った。 喧嘩は祭りの華という。 ならば大輪を咲かせてみせよう。 甘い花の香りがした。 桃の匂いと梅の匂い。それがとても心地よく鼻腔をくすぐる。 ……ん、いつもの夢だ。 慣れた匂いに、一刀はこれが夢だと自覚する。ゆっくりと目を開いてあたりを見回せば、後ろに大きな桃の木が立っていた。 「んー…」 あたりに音はない。只心地よい風が頬を撫でていく。 肺いっぱいに空気を吸い込むと、それだけで心が満たされていくような安息を感じた。 そこで、初めて気づく。 ───桃の木の傍らに女がいた。 静かに、そして優しくこちらに微笑んでいる。 「…ちゃんと元気にやってるよ?僕も母様も」 一刀は女から少しだけ目を逸らしまるで独り言でも言うかのように呟いた。 「皆も元気。知ってる?祭ねーさまなんてこの前…」 日々の他愛のない出来事。一刀にとっては当たり前の日常───そんなことを滔々と話す。 まるで報告でもするかのように。 自分たちは元気だ、大丈夫だと、伝えるかのように。 「…でも、やっぱり少しだけ寂しいよ」 一通り語り終えた後、一刀はぽつりと呟く。 「楽しいのに、嬉しいのに…やっぱり皆が揃わないと…寂しんだよ?」 話してるうちに、いつの間にか泣きそうになってる自分が居る。 もうここでは泣くまいと誓ったはずなのに。 大好きなあの人の前で涙を見せたくないのに。 それでも───何度泣いても、胸を押しつぶしそうな悲しみは消え去る事はない。 女は一刀の前に立ち、頭を撫でる。 母が泣く子をあやすように。優しく、そして慰めるように。 ───しっかりしろ。お前は私たちの息子だろう? その手からそんな意志が伝わってくる。優しと…そして少しだけ寂しそうな、そんな気持ちが。 ざぁっと桃の花びらが舞う。 一刀は知っている。それがこのささやかな逢いの瀬の終わりだという事を。 だからそこで初めて女の顔を見る。 綺麗な黒髪をした───大好きな人を忘れないために。 「…かずと、起きて」 ─────そこで一刀は目を覚ました。 「……起きた?」 目を開けると、そこには肉まんを咥えながらこちらを心配そうに見ている顔があった。 湯気が顔に当たって少々うっとおしい。どうやら出来立てを食べているようだ。 「…恋ねーさま、おはよー」 「…おはよー」 ふっ、と身体に気を入れて上体を起こすと同時に、恋に見つからない様に涙を拭う。 要らぬ心配は掛けたくないし、自分の弱さを晒すようで一刀にとってはあまりよろしくないのだ。 ふと外を見てみると窓から差し込む日の光が弱い。時刻は昼を過ぎたころだろうか。 ……本格的に寝ちゃったなぁ。 昼を食べて少し休憩するつもりが、ついウトウトとしてしまった。お陰で身体は軽いが、 「あとで怒られるよね…絶対」 今からでも思春の怒る顔が目に浮かぶ。雪蓮や蓮華から一刀を鍛えろと命令されているらしく、最近は結構容赦が無いのだ。 とはいえ警備の仕事を半分すっぽかしたようなものだ。まあ怒られるのも当然と言えば当然である。 「……かずとかずと」 「んー…っん?どうしたの恋ねーさま?お腹すいた?」 「…いまはだいじょうぶ。涼香に肉まん貰ったから」 「ああ、そうなんだ。そういえばその涼香ねーさまは?」 「……おしごと」 恋が少し言いにくそうにしているのを見て、一刀は悟る。 遊女という身分である涼香が『仕事に出る』ということはそういうことだ。 無論、一刀とてそのあたりは心得ている。それで涼香を嫌いになるということもないし、むしろ堂々と自分を偽らない涼香に 尊敬すら感じていた。 「そっか。じゃあ僕もそろそろ戻らないとなー」 このままサボってもいいが、その場合蓮華からもお小言を貰いそうで、一刀としてはそれは避けたいのだ。 「……かずとかずと」 「ふえ?まだ何かあるの?」 「……」 恋が無言で窓の外を指す。 そういえば先ほどから外の喧騒が大きくなっている。大方、大道芸人が出し物でも始めたのだろう。 「見に行きたいの?それじゃあ…」 「…違う。あそこ」 改めて恋の指差した方向を見る。街の広場に人が輪を作り、その中心で誰かが大立ち回りをしていた。 ……演劇、かな?それにしては随分と派手だけど。 しばらくじっと見続けてみる。そして中心にいるらしき人物の顔に目を止め、 一刀は、そっと窓を閉めた。 「さーて!じゃあ行こうか恋ねーさま!」 「……」 恋は「逃げちゃダメだ」とばかりに首を振る。 無理やり気分を盛り上げようとして頑張ってみたが、どうやら不発だったらしい。 「……あれ、とめないとダメ」 恋の指さした方向───そこで起こっていたのは暴風の如き一方的な暴力の嵐。 飛びかかってきた男たちが宙を舞い、地面に叩きつけられては呻いている。 ああ、見よその勇姿。 輪の中心で高笑いを上げている人物を。 その人こそ、一刀の母であり孫呉の小覇王───雪蓮だった。 「───いつつ…」 「あによー。そんなに強く蹴ってないでしょ?」 しばらく後、一刀は雪蓮と馴染みの茶店の長椅子に座っていた。 雪蓮の手にはいつの間にか老酒の壺が握られている。昨日の宴会で散々飲んだはずだが、雪蓮はまだ呑み足りないらしい。 一方、一刀の手には茶店の老婆から借りた布が握られていた。 見れば布を当てている腕が真っ赤に腫れている。 「息子に本気の回し蹴りを食らわすって、どういう母親だよ…もう」 「むー…悪かったと思ってるわよ?でも、こう…つい興奮しちゃってっていうのがあるじゃない?」 「それは母様だけ。反省して下さい」 「しゅん…息子が冷たいわぁ…。これが反抗期なのね…」 くすんくすんと泣き真似をしながらしっかり団子は食べるらしい。その手にはもはや半分になった団子の串が握られていた。 一刀はそれを見ながら「はぁ…」と深い溜息をついた。 先程まで雪蓮を止めるのに必死だったのだ。腕が腫れているのも、ノリで襲いかかって来た雪蓮の蹴りを正面から受け止めたためである。 「…折れてないよね、腕」 ぷらぷらと振ってみる。多少の痛みはあるものの、動かすのにはさほど支障はない。 それなりに手加減はしてくれていたらしかった。 「で、母様は何であんなところにいたの。今日はお城でゆっくりしてるんじゃなかったの?」 一刀の記憶では、朝から二日酔いで幽霊みたいな顔をしていたはずである。 それが街に降りてくるということはそれなりに用事があるはずだ。 「そうそう!そういえば私、あんたを探してたのよ!」 「それなら思春ねーさま辺りを捕まえて聞けばいいのに。…何で喧嘩なんてしてたのさ」 「ふふふ…馬鹿ね、孫呉の都の正義と愛を守るために母様は奮闘してたのよ?」 「どうせお尻触られたーとか、そんな理由で喧嘩ふっかけてそのまま止まらなくなっちゃってたんでしょ」 「…み、見てきたように言うわねあんた…」 「母様のやることなんて大抵分かるよ。何年親子やってるのさ」 とは言ってもまだ十年も経っていないが。 まあ物心ついた時から一緒にいればそれなりに気心も知れるというものだ。 「コホン…ま、それはそれとして」 雪蓮はそう言うと急に神妙な顔になり、 「あんた…もう誰かとヤった?」 ぐっと親指を人差し指と中指の間に入れながらとんでもないことを聞いてきた。 しかしそこは一刀も乱世を生き抜いた一人。そのような事では慌てない騒がない。生き死にの最前線に居たのだ。 これぐらいでうろたえてどうする。 一刀はゆっくりと深呼吸し、落ち着き、動じず、 「アホかーーーーー!」 思いっきり突っ込んだ。というか、慌てた。質問が予想外過ぎのだ。 「な、何よー!別におかしな質問じゃないでしょ?涼香とは仲いいし、他の子ともいい感じだし…そうそう、穏とかは?」 「僕まだ十だよ!?あったらおかしいでしょ!?」 「甘いわね!童貞は拗らすと死ぬわよ!」 「死なないよ!というか天下の往来で恥ずかしいこと叫ぶなー!」 「なっ…!恥ずかしいとは何よー!大事なことよこれは!」 「だったらなおさらそんなこと話すなーーー!」 一通りの応酬の後、二人してぜぇぜぇと荒い息を付く。 茶店の老婆が頃合いを見計らったかのようにお茶を持ってきてくれた。馴染みなだけあって、こうした光景も日常茶飯事らしい。 とりあえず椅子に腰を降ろし、一刀はまた溜息を付いた。 「はぁ…っんとにもう、何で突然そういう話が出てくるのさ?」 「お城にあんた宛の肖像画が山ほど届いてるのよ。ほら、いつものやつが」 「ん?…あぁ、あれ、ね…」 一刀は困ったように頭を掻いた。 本人にはまったくその気はないのだが、たびたびそういうものが贈られてきているのは知っていた。 最初の頃はそれでも返礼の手紙ぐらいは付けていたものだが、最近では見てすらいない。 うんざりするぐらいの量が毎回贈られてくるのを見ると、世の中には物好きかつ変人が多いんだなとつくづく思ったものだ。 「という訳で。あんたもそろそろそういう事を考える歳になってきたってこと。で、どうするの?」 「どうするのって…相手もいないのにそんなこと分かるわけないでしょ」 「あーもう!はっきりしなさい!ヤる気があるのかないのかの話よ!」 「お願いだからそこからはなれてよぉ…」 いい加減にこの酔っぱらいをどうにかしてくれないだろうか。 一刀的にはもういっぱいいっぱいである。 「んー…今はちょっと無理かな…?」 しばらく考えた後、一刀はそう答えた。 まだまだやりたいこともある。剣の修行もしたいし、もっと世界を知って学ぶべきことは山ほどあった。 色恋沙汰に興味がない訳ではないが、それにさほど積極的になる気は今のところはない。 「つまんないわねぇ…。なんかもうちょっと情熱的になりなさいよ」 「自分の息子に何をさせたいのさ…」 「そんなんじゃ行き遅れちゃうわよー?独身貴族なんて当節は流行らないんだからね」 ぽんぽんと雪蓮は一刀の頭を叩き、 「ちゃんと女の子の一人ぐらい見つけてしっかり幸せになりなさい。私たちの自慢の息子なんだから、それぐらい簡単に出来るわよ」 「……」 ───しっかりしろ。お前は私たちの息子だろう? それは大切な誰かに言われた言葉。 ……なんだかなぁ。 一刀としては苦笑するしかない。 断金の仲とは良く言ったものだ。どうやら自分の母親たちは揃って子煩悩らしい。 「まあ、どうしても見つからないっていうんなら…」 「言うんなら?」 「私が相手してあげるわよん♪」 「ぶっ…!」 今度こそ、茶を吹き出した。 最後の最後でとんでもない事を言ってくれる。 …勝てないなぁ。ほんとに。 一刀は心底そう思う。母は偉大だった。いろいろな意味で。 「あはははは!冗談よ冗談!」 「もう…最後の最後で茶化すんだから」 「ま、それぐらいでいいのよ。…さて、と。ん〜〜〜…そろそろ戻らないとまた蓮華に怒られちゃうわ」 雪蓮は立ち上がると大きく伸びをした。 太陽はいつの間にか傾き、夕暮れ時が近くなっている。 黄金色の陽光に雪蓮の美しい髪が反射し、仄かに甘い香が漂ってきた。 ───それはまるで天女のようで。 「ん?どうしたの?」 微笑む母の姿に見惚れていた自分に気づき、一刀は恥ずかしくて思わず目を逸らす。 一刀は思う。 もし、万が一、ほんの少しだけ雪蓮が最後に言ったような未来があるとすれば。 自分は必ず雪蓮に惚れてしまうだろうと。 建業の日が暮れていく。 風が少し火照った頬に気持ちよかった。 (了)