一刀たちが魏に滞在してもう二週間がすぎようとしていた。 その間、特に変わったことは無い。 ある程度の監視はついているものの、比較的自由に城内と街を行き来出来たし、さらには 魏軍の訓練などを見学する事も出来た。 全ては華琳のはからいである。 「前ならいざ知らず、現在の同盟国である貴国に対し隠すことは何も無いわ」 とは華琳の言だが、流石は覇王。その度量は並大抵の大きさではないと一刀は思う。 もっとも、軍機に関わる重要な部分は隠蔽されているし、緩くともしっかりと監視はつけられている。 こちらがおかしな真似をしたら即座に始末する───その警告は只の脅しではないことを一刀たちは理解していた。 とはいえ、普通に過ごしていれば特に問題がある訳でもなく。 瞬く間に滞在期間は過ぎて行った。 洛陽の城の庭にを銀閃が舞う。 日の光を反射した、鈍く光る刀身は空気を切り裂く。その鋭い音の後を追うように、一刀は身を滑らせる。 手で振るのではなく、全身をしなやかに使って一つの動作の後の隙を消すように動く。 呼吸を乱せば刃が泳ぎ、足並みを乱せば身体がぶれて動きが止まる。 決して調子を乱さず、一定に。 舞踊を踊るが如く。 そうして一通りの動きを終えて、最後に残心を残して構えを解く。 「───ふう」 乱れそうな呼吸を整え、剣を鞘に収める。 朝の爽やかな空気が、肺を満たしていった。 「まだまだだな。動きにムラがある」 「……少し、剣捌きが甘い」 鍛錬が終わった一刀を待っていたのは、恋と思春による相変わらずの辛口採点だった。 曰く、足運びがまだまだ甘く動きにいちいちタメがあること。 曰く、腕で剣を振らないということを意識しすぎて逆に振りが甘くなっていること。 曰く、後半に体力が落ちてきたのか動きのキレが悪かったこと。 等々の数々の厳しい駄目出しが飛ぶ。 「とにかく───今のお前には身体も経験も鍛錬も速さも何もかもが足りない」 「……その、なんか足りてるものってある?」 「ないな。王としても武人としてもお前はまだ半端ものだ」 ばっさりと思春が斬り捨てた。 こうまで言われると逆に清々しささえ感じる。 ……まあ、そうだよね。 内心で一刀も頷いてしまう。 自分はまだ足りない所だらけなのだ。 何をやるにしても中途半端で───力も心の強さも足りない。 あの夜の威風堂々とした華琳のような強さを自分はまだ持っていない。 それはきっと母のような毅然とした強さに似ていて、一刀が一番手にしたいと思っているものだ。 いつか手に入れたい理想の自分。 強いだけではなく、気高く誇り高い王に。 また、心の中に違う感情も生まれていて、それは一刀にも説明出来ない気持ちで… ……僕ってああいうのに弱いのかな? 憧れと、それとはまた違うものを感じていた自分に気付き、慌てて否定する。 身分が違うとまでは言わないが───そういう感情を持つのは何かいけない気がしたからだ。理想を汚してしまう様で。 ともあれ、目指す所は見えた。 やるべきことも分かっている。 まずは身体を鍛える事。今は強くならなければ話にならない。 そのために出来ることなら何でもするつもりだった。 「んっと…じゃあ、次は?」 「素振り百の後、私たちと組み手だ。許猪と夏候惇に無様に負けた反省点を纏めて洗い出してやる」 「…やっぱり?」 思春が言っているのは先日の模擬戦のことだ。 訓練を見学していた途中に、実力も経験も何もかもが段違いの武将たちと“その場のノリ”で一騎討ちをやらされたのだ。 もちろん勝てるわけも無く、一撃も入れられずに転がされた訳だが───。 「……思春ねーさま、怒ってる?」 「仮にも孫呉の王族がああも無様に負けるとはな…。どうやら旅に出てから鍛え方が少々甘かったらしい」 「いや、あのね?春蘭さんも季衣さんも英雄豪傑って言われる人たちで、僕とかまだ見習いの剣士が敵う訳…」 「問答無用だ。これからいつも以上に鍛えてやるから、覚悟しておけ」 「……あう」 思わず視線で恋に助けを求める。だが、恋は悲しい顔して、 「……」 首をふるふると横に振った。 そして親指をぐっとこちらに上げる。 「……がんばって」 どうやら応援はしてくれいるようである。出来れば止めて欲しいところだっのだが。 「どうした?強くなるためには何でもするのではなかったのか?」 「うう…分かってるけど、決意鈍りそうだなぁ」 「分かっているなら早く始めんか。時間は有限だ、無駄に使っている暇はないと思え!」 こういう時の思春はいつもと違い厳しい。 それはもう、鬼神の如く。 痛くないと覚えないとは祭以下一刀の教育鍛錬に携わったすべての人物に共通する信念、 というか恐らく孫呉の教育方針だが、一刀としてはもう少しゆとりというものが欲しかった。 ……みんな甘い甘いっていうけど、どこが? 隣の芝生は何とやらなのだろうか。 外見と中身の違いは結構な差があると一刀は常々思う。 「……愚痴ってても仕方ないか」 誰にも聞こえないように一人で呟き、素振りに没頭する。 今はこの積み重ねが強さに繋がると信じて、一心不乱に一刀は剣を振っていた。 「……よくやるわね、あの子」 城の望楼の上、華琳は城の庭を見ながら呆れたように呟いた。 一口お茶を啜る。独特の香りが広がり、身体に熱いものが広がっていく。 傍にいる秋蘭と春蘭もそれを眺めていた。茶会の肴には丁度良い余興だ。 再び庭に視線を落とす。小さい影───おそらく孫呉から来た王子だろう───が、対峙している相手に果敢に攻めていた。 相手は恐らく甘寧、勇猛でその名を響かせる天下の英傑である。 もちろんそんな英雄に子供が敵う訳がない。一本も入れられず、何度も転がされてはまた立ち向かっていく。 叱咤と刃引きの剣をその身に受けながら、小さな影はそれでも諦めない。 ……あの孫策の息子、か…。 華琳は心の中で頷いた。 決して諦めないという不屈の心…血は繋がっていないと聞くがそれだけはしっかりと受け継いでいると見える。 珍しく、自分の顔に笑みが広がるのを感じた。 「ずいぶんとご機嫌ですな。何か良いことでも?」 正面で新たな茶を注いでいる秋蘭が問うてくる。 「ええ。何といっても、良い見世物があるのだから…茶も進もうというものね」 「あれ、ですか。なるほど…中々見ものですな」 そう言って秋蘭も庭に目を向ける。 相変わらず、小さな影は立ち上がるのを止めない。 「ばかっ!もう少し考えて動け!それでは相手に読まれるばかりではないか!ああっ!言わぬことではない!」 「姉者、ここからでは幾ら大声でも聞こえないぞ」 しばらく静かに眺めていた春蘭だが、どうやらつい口を出したくなったらしい。 お茶などそっちのけで小さな影を応援している。 「しかしだな秋蘭!あ奴の戦い方を見れば口も出したくなるというものだ!」 「まあ痛めつけられるのも修行の内さ。あれぐらいの歳の男子なら、少々厳しいぐらいが丁度良い」 「むう…そういうものか?あっ!また!こらっ!それでは…」 春蘭は今にも飛び降りそうなぐらいの勢いで声を張り上げる。 そんな春蘭の様子を見て、華琳は少しだけ苦笑する。少し煩いと嗜めようと思ったが、それも無粋な気がして止めておいた。 どうやら魏の女将軍はよほど呉の王子を気に入ったらしい。 「人を引き付ける才…か。ふふっ、うちの春蘭を篭絡するとは中々やるわねあの子」 「御意。しかし、華琳様がそこまで評価なさるとは…あの子供、それだけの器ですか?」 「どうかしら?才能というものは伸ばさなければ意味はないわ」 才能というものを植物に例えるなら、それは芽の成長が少し早いか遅いかだけの話だ。根本的な違いはない。 水を遣らなければ枯れてしまうし、土が悪ければそれまでだ。 ましてや自分で伸びる気のない種は肥やしにもならない。それはどんな才を持っていても変わらない事実。 人を育てるのは土という環境と水という補助、そして何より大切なのは本人の努力と覚悟だ。それを持ってして 初めて才覚というものが花開く。 「凡人も環境と己の努力によって天才をも凌ぐ英雄となれる。我々人の上に立つものはその様な存在を認め、 伸ばし、使いこなす───それが王と呼ばれる者の仕事よ」 「ならば華琳様から見てあの子供はどう思われますか?」 「そうね。資質も悪くないし、頭の回転も思ったよりは早い。まあ、悪くはないわ」 なにより、と。華琳は続ける。 「知識に対する貪欲さ、そしてそれを盗んで身に付けてやろうという野心…この曹操の懐でそんなことを堂々と 出来る人間なんて、そうは居ないもの」 華琳は知っている。 あの小さな影が毎日書庫で勉強している事を。魏の騎馬隊の訓練に混じり、その動きを身体で学ぼうとしている事を。 あの子供は乾いた土の様なものだ。 与えれば与えるだけ吸収していく。若さや本人の持って生まれた素質などもあるだろうが、芽を育てるということにおいて 一番大事なモノ───上に伸びる強い意志を持っている。 だから華琳は王としてそれを伸ばすための土と水与えてやった。別に何か企んでいるという訳ではない。 あの夜に今にも泣き出しそうな顔で消えてもいいと言った少年が、逃げずにどれだけのことを成せるのか。 ただそれを見てみたかった。 自分の悪い癖だと華琳は心の中で苦笑する。 気に入った人物が居れば手に入れたいし、自分の元で育ててみたい───そして、敵として対峙してみたい。 「あの子供、一刀とか言ったわね…果たして小覇王の後継となりえるか、それとも───」 只の凡人になるか。 あるいは───それ以上の者に成り得るのか。 「……良いわ。今は我が懐でその芽を存分に育てなさい」 その後に敵として立ちふさがるならそれでもいい。むしろ望むところだ。 もう一度、庭に目をやるとまた転がされては立ち上がる少年の姿が見える。 将来───あの者は覇王の敵となりうるか? 華琳は値踏みするが如くその目を細めて少年の姿を見つめていた。 ───本を読むのは嫌いじゃない。 呉に居る時はもとより、旅の途中でも機会があれば本屋を覗き書を手に取った。 「頭を良くしたければ本を読め。少なくとも字を読みその意味を理解する訓練にはなる」 そう自分に教えたのは誰だったか。たぶん、冥琳辺りだろう。 まあ本の虫である亞莎や本に“欲情”してしまう穏に教えを受けているのだから、その影響を受けるのは当たり前だが。 故に一刀にとって読書とはもはや生活の一部となっていた。 「……」 揺らめく蝋燭の灯りを頼りに、無言で文章を読み進める。 今読んでいるのは孟子…正確にはその写本だ。 世が乱れる戦国の時代───その時代に善による統治、すなわち仁・義・礼・智を持って国を良く治めよと主張した儒教の大家である。 孟子曰く、人は徳に服従するもので武力による統一は大罪でありいつか天命を受けた徳の高い王に討ち滅ぼされるであろうという。 一刀は考えてみる。徳の高い王とは───劉備だろうか。 なるほど、大徳と称されるそれは確かに孟子の言う王者に相応しい。現に劉備の元には関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超の 五虎将軍を始め、優秀な人材が豊富に揃っている。 ではその対極である覇王には誰が相応しいか。 考えるまでもない。この大陸において覇王を自称し、またそれを他者に認めさせているのは華琳しか居ない。 孟子においては覇者を自称するものは大罪人である。当然、華琳は徳の高い人物によって討ち倒されなければならない。 しかし、華琳は生きているし魏も残っている。 それどころか、赤壁以降に多少その勢いは衰えたものの未だ魏は大陸一の強国である。 ……矛盾してるよね、これ。 確かに唱えている言葉は理想的だ。誰だって武を持って支配する王より徳の高い王を受け入れるだろう。 だが現実は必ずしもそうではない。様々な人の思惑が入れ混ざって国の行く末が決まっていくのが普通だし 仁義を尽くし、礼を重んじ智を駆使してもどうにもならない現実が立ちふさがる時が必ず訪れる。 要するに、この思想には現実味がないのだ。 一刀は自分の中でそう解釈した。これは理想論なのだ、と。 一刀の故郷───呉は自分の国を治めるために徳も使い武も使う。それはどこの国でも当たり前のことだ。 必要とあらば他領の侵略もするし、攻められれば全軍を挙げて迎え撃ち、そして二度とそんなことをさせないように徹底的に叩く。 それがこの大陸の流儀だ。力を見せなければ誰も付いてこないのだから。 ならば孟子の思想は完全に間違っているのか───というと、それも違うとも考える。 人々が平和に暮らせる世の中を作る───前の戦争における三国の目的はその方法さえ違うが一致していた。 そして力だけで治められるほどこの大陸の民は弱くない。どんな大きな国を力で支配しようとしたところで漢王朝のように いつか内部から腐って死に至る。 理想や理念というものがあってこそ国や人が動くのだ。一面では、孟子の論は真実を射抜いていると言えるだろう。 「必要なのは…偏り過ぎないってことなのかな?」 思わず口に出して考えをまとめてみる。 つまり本当に必要なのはその中間。徳を持ち合わせ、同時に非情な覇王としても振舞える王。 そういう意味では、身内贔屓という訳ではないが一刀の母───雪蓮は上手くやっていると思う。 柔と剛、覇と徳を上手く使い分けている。王としての才能が雪蓮にはあるのだろう。 ……僕は、どうかな。 昨夜は華琳に逃げるなと叱咤され、今朝は思春に中途半端と評された自分はその才覚の万分の一でも受け継いでいるのだろうか。 「うーん…頭痛くなってきた」 そう言って、どこまでも落ち込みそうになる思考を無理やり切り替える。 今の自分は無知で非力なのだ。馬鹿の考え休むに似たりと言うが、答えの出ない問題をいつまでも考えているのは時間の無駄だ。 一つ大欠伸をして、一刀は本を書棚に戻した。 かなり深い時間だ。そろそろ寝なければ明日に差し支える。 蝋燭の火を吹き消して外に出る。幸い月がかなり明るいので、部屋に戻るぐらいなら支障はない。 書庫の施錠を確認し、外の見張り番にそれを預け、与えられた部屋へと一刀は歩く。 そして城の中へ入り、廊下を曲がったその時─── 「───そうね。もう時間がないわ…正史では孫策はとうに死に、蜀は滅びかかっているはずだもの」 そんな物騒な言葉が聞こえてきた。 「───へ?」 思わず声を上げてしまってから後悔する。 孫策、という単語に反応してしまったのだ。 「っ!そこにいるのは誰か!?」 「まずっ…!」 とっさに廊下の角に身を隠す。月明かりに気をつけながら影を溶け込ませ、そっと顔を出して様子を確認してみる。 影に身を潜めている一刀とは違い、その人物は月の下にその姿を晒している。 女だった。体格は少し小柄な部類に入るだろう。短めの黒髪と、気の強そうな瞳───そして黒縁の眼鏡。 美人の部類に入るだろう。だが、何よりその鋭い眼光が見るものに強烈な印象を残す。 ……誰だろ?少なくとも普通の人じゃなさそうだけど…。 一刀は記憶を探るが、その人物の顔が出てこない。 女はしばらく一刀の居る方を睨んでいたが───気のせいとでも思ったのか、また話を始める。 「とにかく、こちらも準備を急ぐ。あなたもカオナシどもをいつでも動かせる様にしておきなさい。……この前のような 無様な失敗は許さないわ」 女は一人喋り続ける。 不思議なことに周囲に人影がない。女はただ闇に向かって言葉を放っていた。 「全ては正しき歴史と世界の解放のために。この司馬懿に失敗は許されないわ」 司馬懿と名乗った女は、冷たく、ただどこまでも冷えた口調で、一刀たちを襲った暗殺者と同じ言葉を吐いた。