「今日から本当の家族よ。改めてよろしくね、一刀」 雪蓮からそう言われたのは、もう五年近く前のことになる。 それから、いろんな事があった。 楽しい事もあった。 辛い事もあった。 大切な人と───悲しい別れをした事もあった。 目の前で人が死んでいくのを幾度も見た。 苦しんでる人を助けたいと思っても、何も出来ない自分に心底腹が立った。 だが、どんなに厳しい鍛錬を積もうと、未だに自分の手はあまりにも小さくて。 今もこうして、月を見上げながら悩む自分が───あまりにもちっぽけに見えた。 「───ふう」 洛陽を囲む城壁の上、一刀は街を見下ろす楼閣の上で息を吐いた。 下の庭から、夜が更けても未だ鳴り止まぬ宴の音が聞こえる。 一刀たちの歓迎にと、曹操が用意してくれた酒宴の場だった。子供とはいえ、一刀も主賓という立場上、 少なからず酒を飲むことになったが─── 「うっぷ…。ちょっと飲みすぎたかも」 こみ上げてくる気分の悪さをなんとか押さえ込む。本当は胃の中身を出してすっきりしたかったが、 残念な事に、孫呉では酒に呑まれて吐くのは恥という重度の酒飲みにしか通用しない理不尽な掟が君主によって 徹底されているので、その息子である一刀が率先してそれを破る訳にはいかなかった。 ……ていうか、おかしいよねそれ? 思わず自分の不幸な家庭環境を呪ってしまうところだった。 というか、本当に理不尽だった。 むしろこれだけ国を離れてもそんな掟に縛られている自分が悲しかった。 「あーあ…やんなっちゃうなぁ、もう」 吐いてすっきり出来ない代わりに、せめてもの代用として、ごろりと楼閣の床に寝転ぶ。 冷たい木の床が背中にあたり心地良い。 季節は既に夏に入りかけているはずだが、城壁の上を吹きぬける華北の夜風は酒精に火照った身体に丁度良かった。 「……ん」 寝転んだ一刀の視界に丸い月が入ってくる。 今宵は満月。 月の光が淡く自分を照らしている。 「綺麗だなぁ。呉で見るのと変わんないや」 どこに居ようと、月はいつもそこにあって世界を照らす。 穏やかに、そして優しく。 一刀は胸元から青い宝石の嵌った首飾りを出す。 月の光を受けてキラキラと輝いている。この世のものではないような───不思議な光。 思い出す。それをくれた女の子のことを。 きっと、あの人は自分に好意を寄せてくれていたのだろう。幾ら一刀が鈍感でも、それぐらいは分かる。 でも───だからこそ、一刀はそれに素直に応えることが出来なかった。 いや、出来なかったのではない。 自分から“応えようとしなかった”のだから。 「……っ」 思わず、そんな臆病な自分を殴ってやりたくなる。 誰かを傷つけるのが嫌で、傷ついてるのを見るのが嫌で、それでまた誰かを傷つけて─── 無限に続く環のようなものだ。 終わりなど、最初からそれには存在しない。 そして結局、それがただの自己満足に過ぎないことは誰よりも一刀が一番良く知っていた。 「ほんっと…このまま世界から消えちゃった方がいいのかもしれないなぁ」 その言葉で、思い出したくもない記憶が一刀の心に蘇る。 呉で経験した様々な出来事。戦と───暗殺。 珍しいことではない。そもそもこの世界で王族をやるということは常に命を狙われることと同義だ。 ましてや、一刀は養子。知らぬところで幾らでも恨みなど買っていることだろう。 それを分かっているのか、雪蓮はいつも一刀の周りに兵を配置したり、常に恋を護衛につけている。 今回の旅がすんなりと出発できたのも、国内のそういった勢力から一旦一刀を逃すという目的もあるのだ。 言い換えれば、雪蓮がそこまで危機感を募らせるほど一刀の命を狙う者は多い。 呉は見かけほど一枚岩ではないのだ。確かに雪蓮を初めとする将たちの絆は固いが、それ以外のものたちにとっては 日々、権謀術策と暗殺の嵐である。 一番堪えたのは、仲の良かった侍女に殺されそうになったことだ。 赤壁で自分の夫を失って、それでものうのうと生きている自分が憎かったらしい。 人間として当たり前の感情が、そこにはあった。 ……完璧に人間不信だよね。 裏切りや陰謀術策など、王城に居れば日常の出来事である。すっかり慣れたつもりだったが、どうやらそうではないらしい。 人を信じることが出来ず。 誰かに好意を向けられても、騙されるのが怖くて応えない。 卑怯で、矮小な自分。 だから一刀は思う。 あの刺客の言うとおり───こんな自分など、いっそ消えてしまった方が良いのではないかと。 違う世界から来て、そのせいで誰かが死んだとするならば、それは自分の責任だ。 自分が居る事で誰かを傷つけるならば───いっそのこと誰の記憶からも、この世界からも消えてしまえばどれほど楽だろう。 月に照らされ、光に融けていくように消えることが出来たならどんなに楽だろうか。 「なんか、凄い事考えてるな僕…」 普段飲まない酒に酔っているせいかもしれない。 だが、溢れてくる感情は止められなくて、一刀が救いを求めるように月に手を伸ばした時─── 「───あら、先客が居たのね」 稟とした声が、一刀の手を止めた。 「あ、えーっと…」 「こんな時間に楼閣の上に居るなんて…どこかの国の刺客?それとも妖の類かしら?」 不敵な笑みを浮かべ、曹操が上がってくる。 堂々と、そして、大胆に。 「───って、誰かと思えば、呉の王子じゃない。まったく…つまらないわ」 「い、いきなり目の前に着てそれって酷くない!?というか、聞いてきたの曹操さんでしょ!?」 「満足な反応を返して欲しかったら、私にあっと言わせるぐらいの芸を見せなさいな。例えば───そうね、へそで茶を沸かすとか」 「そんなこと出来る人いるの!?」 「あら、うちの春蘭はよく城の庭でやってるわよ?」 「世の中広い!世の中って広いよ母様!」 思わず故郷の母に報告してしまったが、良く考えれば蓮華ねーさまとか出来そう…と思えてしまう自分がいた。 結構失礼だった。 というか、驚きすぎだった。 ちょっと失敗だったかな───と、自分の芸を反省する。 「で。詰まらないあなたはここでどんな詰まらないことをしてたのかしら?」 「何気に酷いよね…もしかして、曹操さん酔ってる?」 「どうかしら?久しぶりに美味しいお酒が飲めたから、今度は月見酒をしようかと思ったのだけど…ああ、それと」 そう言うと、月を背にして優雅に座り、 「私の事は華琳で良いわ」 「ふえ?それって…」 「真名を許してあげる。昔、あなたを殺し損ねたお返しね」 「…嬉しいけど、どう反応すれば良いか分からないんですけど」 「笑えばいいと思うわ」 一刀は完璧に理解した。 ……酔っ払いの絡み酒だこれー!? しかも毒舌な分、雪蓮や祭よりもこちらの方が数段難易度が上らしい。 そして、さらに華琳は言葉を紡ぐ。 「それで…何を悩んでいたの?」 「…!」 その言葉に、一刀の呼吸が止まった。 やはり───魏の覇王は難易度が高い。 華琳は欄干に背を預けながら、相変わらず不敵な笑みをこちらを見ている。 不敵に…こちらの心の中に入ってくる。 「な、何で…」 暫くの沈黙の後。心を見透かされた一刀は、ようやくそれだけ言い返したが、 「言ったでしょう?こんな時間に、こんな場所に来るのは刺客か妖か、文字通り酔狂な覇王か… それとも、半分死人みたいな顔をした、詰まらない事で悩んでいる人間ぐらいしかいないもの」 「それだけ…?」 「それだけよ。他に根拠はないわ」 さて、と。華琳はそこで一拍置いて、 「面白ければ酒の肴にでもしてあげるわ。さあ、ちゃきちゃき吐きなさい」 「んと…そう言われても」 先ほど一刀が悩んでいたことは、誰にも漏らした事の無い秘密である。それこそ、母である雪蓮にも、 一緒に旅をしてきた思春や恋にも言っていない。 まだ一刀は子供だが、これは自分で解決しないといけない問題だとは理解している。 だからこれは一刀の問題。 華琳が頚を突っ込むような話ではないのだ。 故に一刀は話題を逸らそうと何か言い掛けたのだが、 「ちなみに、さっさと吐かないと頚が飛ぶわよ?あとはぐらかそうとしても頚と頚が飛ぶわよ。物理的に」 「問答無用なの!?」 どうやら中途半端な答えは許されないらしい。 「ど、どうしようかな…」 ───確か悩みというものは一人でずっと考えていても解決しないと本で読んだ事がある。 それは絵本の冒険譚の教訓だったが、一刀はすごく感動したものだ。 ……話してみるべきかな? ふと華琳の方に視線を送ってみると、どこから取り出したのか小剣に月光に反射させてうっとりとしている。 どうやら先ほど言った事は嘘ではないようだ。流石は魏の曹操、どうやら有言実行という君主の義務を とことん遂行するつもりらしい。 ……しょうがないか。 何か答えが得られる可能性もある。相手はあの曹操なのだ。もしかしたら…という思いがあった。 「そ、それじゃあ…絶対に笑わないでね?」 「私は真剣に悩む人間を笑うほど悪趣味ではなくてよ?」 そう言うと、華琳は真剣な表情を作った。 どうやら本当に真面目に聞いてくれるようである。 「んと…それじゃあ…」 そして一刀が一通り話終えたとき。 華琳の大爆笑が、夜空に木霊した。 「プッ…あははははははは!か、可愛い…あなた、中々に可愛い悩みをもっているわね!」 「思いっきり笑ってるし!さっきの言葉はなんだったの!?」 突っ込む一刀を無視して華琳は笑い続ける。 どうやら相当にツボに入ったようである。 「くくく…こ、これが男子の思春期に良くある光景…く、黒歴史という奴なのね?」 「違うよ!真面目に話た僕が馬鹿みたいじゃないかー!うわー!僕、今かなり恥ずかしい!?ていうか、何で酔っ払いに そんな大事な悩みを話しちゃったの!?」 全て自分の自業自得なところが、さらに一刀を凹ませた。 華琳は一頻り笑い終わると、 「ねえ、そこの黒歴史少年」 「変な名前付けるの止めてよ!僕の名前は孫郷!真名は一刀!」 「じゃあ一刀、黒歴史少年ぽく「静まれ!僕の右手…!」ってやってくれない?」 「やらないよ!そんな幻想少年小説に出てくる主人公みたいなこと!」 魏の覇王は舌戦の切れ味も鋭かった。 一刀の心の弱い部分を的確狙ってくるのだから。 「まあ、そんな思春期の痛い問いに悩む少年の悩みに応えてあげるのも覇王としての義務かしらね」 「おねーさん、僕のこと嫌いでしょ…」 「あら、私はあなたのこと、結構好きよ?」 「ほんとに!?」 「嘘よ」 「……」 ひくついている一刀の表情を見て、にんまりと良い笑顔を浮かべる華琳。 ……本気で腹が立つなぁ!もう! 一刀は心の中で地団駄を踏んだ。 からかわれているのが分かる分、余計に腹が立つのだ。 「で、黒歴史少年」 「まだ引っ張るんだ…それ」 「あなたの悩みに答えるのはとても簡単なことよ。───逃げるな、この一言で済むわ」 「っ───!」 「己の弱さから逃げ、殻に引きこもって答えの出ない問いに頭を使う───時間と体力の無駄ね。 無駄な浪費もいいところだわ」 やはり───華琳の言葉は鋭い。 一刀が目を逸らしていた事を、的確に指摘してくる。 「誰かが傷つくのが嫌?違う世界から自分が来たから誰かが死んだ?ふんっ…思い上がりにも程が有るわ」 「……」 「王の義務は、常に前を向いて臣下を導いていく事。それがこんな弱気な王族のために死んだなどと…あなたのために 死んでいった者達は、まさに犬死ね」 「……っ!」 華琳は立ち上がって歩きだす。 そして、一刀の目の前に───満月を背負い、ついにその正面に立った。 「一刀、あなたが孫の字を───我が好手敵たる孫策の後継を名乗るのならば。王族としての、義務から逃げよう などとは思うな」 そんな者に王たる資格はない、と。 華琳は断言した。 「……でも、僕は」 ───そんなに強く無い。 自分がどれほど弱い人間かは一番良く理解しているから。 結局は守られることしか出来ない自分が、一番弱いと分かっているから。 卑怯な言い訳だと思う。 だが、それは事実だ。 「強い弱いなんて関係ないわ。そんな曖昧な基準なんて、必要ないもの」 そして、覇王と呼ばれた少女は、さらに言葉を紡ぐ。 「強かろうが弱かろうが、人は与えられた環境で生きて行くしかない。ならば───」 「虚勢でもいい。せめて精一杯胸を張って前を見据えなさい。不安ならば、それを跳ね返すほどの野望を持ちなさい。 この世界が嫌いなら、それを変えて見せなさい。自分の手で世界を創れないものに、生きている資格などないわ」 堂々と。 そして優雅に。まるで当たり前のことを言うかのような自然さで。 華琳はあっさりと一刀の悩みを斬り捨てた。 「……ははっ」 勝てないな、と。一刀は素直にそう思った。 自分が求めて止まなかった強さと気高さ───その理想像がそこにはあるのだから。 これが覇王。 これが曹操。 大陸でもっとも強大な国の主は、気高く強く……そして美しかった。 「さて、つまらない話はこれで終わりにしましょう」 そう言うと、華琳はまたしてもどこからか徳利と杯を取り出した。 「肴が足りないわ。何か余興をしなさい」 「いきなり!?」 「ちなみに、面白くなかったら頚が飛ぶから」 「難易度高っ!?」 「早くしなさい。私は愚図は嫌いよ」 「そ、そんなこと言っても…」 一刀は暫く考え、 ……あー、あれがあったな。 自分の後ろにある『それ』を取り出す。気晴らしにとわざわざ城の楽隊から借りてきたのだ。 「それは…竹琴?あなた、弾けるの?」 「うん。そんなに上手くないんだけどね」 ちなみに、一刀に竹琴を教えたのは意外にも祭だったりする。 ガサツそうに見えて、こういう女性らしい事をさせれば呉では右に出るものはいないのだ。 問題は普段からそういう事を面倒くさがる性格だが…まあ一刀的にはその方が祭ねーさまらしいやと思っているので、 別に何の問題もなかった。 「それじゃ、少しだけ…」 一刀の指が、弦を弾く。 呉に古くから伝わる詠───大切な人との思い出を詠った一刀のお気に入りの曲である。 「ふふっ…上手いじゃない。そうね、この音なら───」 華琳が音楽の調子に合わせて即興で謳いだす。 歌詞の意味は、遠く離れた恋人を想う乙女の心を謳っていた。 洛陽の楼閣の上で、月夜に詠が響く。 誰にも邪魔されない。二人だけの宴。 静かに、そして穏やかに闇夜を照らす月だけが、それを見守っていた。