結局、五胡に襲われた街で助かったのは十数人の女子供だけだった。 たまたま近くの川に遊びに出ていたため、難を逃れる事が出来たらしい。 地獄を見た一刀たちにとっては、救いのある話だった。もっとも、女性とその子供たちの親は全て殺されていたが……。 軍が彼女たちを保護したが、それからどうなるのかは考えたくもない。 この時代、家族を失うという事はそれだけで人生を失うと言って良い。特に弱者には厳しい時代だ。 ───やりきれないな。 一刀の心中にそんな思いが浮かぶがすぐに考えないように思考を止めた。 悪いが彼女たちのような事例は大陸に幾らでも転がっている。何とかしたいと思うし、現に蜀を中心として 戦災難民の救済は始まってはいるが、如何せん数が多すぎるのだ。 可哀想だが───あとは魏軍に任せるしかない。 だが、一刀は思う。 本当にそれで良いのかと。 考えてみても、答えは出てこなかった。 「戦力が足りんのや」 洛陽に向かう馬上で、張遼───霞が言った。 もう華北に入ってから数日が立つ。一刀たちはそろそろ洛陽まですぐ近くといったところまで来ていた。 「あんたらとやりおうた赤壁の後な、戻った華琳様はそら苦労したんやで?」 「自業自得だな。我らとてあそこで勝たなければ後が無かった」 「愚痴や愚痴…聞き流さんかい。そないな事もあって、見かけほど魏の内部は安定してへん」 内乱、飢饉、小競り合い…その他もろもろや、と。 とは言うもの、霞の口調は軽い。 本気で根に持っている感じでは無さそうである。 「それにしても、鈴の甘寧に天下無双、それに天の御遣いくんまでおるとはね……。 なんや、呉はまた戦争でも起こす気かいな?」 そう言うと、霞は苦笑を向けてくる。とはいえ、その目は決してこちらに対し、油断はしていない。 一刀たちをこうして洛陽まで『護衛』しているのは監視の目的もあるのだ。既にこちらの正体は 看破されている。というより、下手に隠すよりも身分を明かした方が良いと思春が判断したからだ。 あの襲撃の後だ。 素性の知れない怪しい者は、思春たちでも即座に切り捨てていただろう。 「まあ何の目的かは深く聞かんし、それは華琳様の前で話して貰うとしてやね───正直、助かったわ」 「ふえ?どして?」 「んー…そやなぁ。かわゆいかわゆい御遣いくんには、こっそり教えてあげよか?」 そう言うと、霞は耳を貸せという風に手招きした。 一刀は馬上から身を乗り出してそれに応える。 「んと、よいしょ…」 「実はやなぁ………」 突然、霞が一刀の耳を舐めた。 「ひゃ、ひゃあ!?」 「んふふふ…この味はきゃわゆい子の味や…。どれ、もう一口」 「って、はなしてー!」 ジタバタと逃げようとするが、霞に頭をがっちりと保持されているため僅かに顔を逸らすしか出来ない。 その間にも霞の舌は一刀の頬を舐めあげて行く。 「ふふっ…あまーい、おいしーい。唇はどんな味なんやろなぁ…」 「ふ、ふぁ…」 「怖がることはないで?これはごっつ気持ちのええことなんやから───」 そのまま霞が抵抗の弱まった一刀の唇を奪おうとして、 「そこまでにしてもらおうか。張遼」 思春が霞の首筋に当てた刃が、それを止めた。 「……ほんの冗談やん?」 「その方は孫呉の王族だ。我らには気安く接してくださるが、貴様にそれを許した覚えはない」 「はっはっはっ!…なぁ、この姉ちゃんいつもこんな感じなん?」 「ま、まあ…」 「あんたも苦労しとるんやねぇ…」 ───今のは霞さんが悪いと思うけど…。 一刀は心の中だけで言って、苦笑する。 「で、それは置いといてやな」 名残惜しそうに一刀から手を話し。 コホンと、咳を一つして霞は続けた。 「言うたように、魏も魏で色々あってな。いろいろとキナ臭いんや、これが」 霞は疲れた様に溜息を吐いた。 「司馬懿、ちゅうのがおってな?」 こいつがまたキレるんや、と。霞は呟いた。 司馬懿───その名は三国志を読んだ者の印象に、必ず名を残す人物だ。 三国乱世の終焉、すなわち普朝を立ち上げたその人であり、物語の終幕を飾る英雄。 あの野心の塊のような曹操をして「この男は遠大な志を抱いている」と言わしめ、警戒させたという人物である。 ただしそれは一刀の住んでいた世界の『歴史』であって、この世界の歴史ではない。 そもそも本来の歴史であれば、今はまだ乱世が続いているはずなのだから。 閑話休題。 ともかく、霞の話に拠れば、その司馬懿を抑えるのに主である曹操自身も苦労しているらしい。 「臣下も抑えられんとはな。曹操は何をしている?」 「はン、切れるもんならいつでも切ってるわい。───それが出来へんぐらい優秀やちゅうこっちゃ」 ───なんせ、五胡の侵入を防げてんのはそいつのお陰なんやしな。 霞はお手上げという感じで肩をすくめた。 「華琳様もそう易々と辞めさせられへん。あのお人の悪い癖やな、そういう人材ほど手元に置きたがる」 「……危険?」 「その通りや。…きっと今頃、御前会議でやりおうてるんちゃうか?」 一刀たち一行が洛陽に向けて歩みを進めている頃。 魏の玉座で行われている御前会議は、俄かに熱を帯びていた。 「故に!この時機に蜀を攻め、漢中と荊州を確実に魏のものとすべきなのです!」 曹操の座る玉座の前、一人の女性が熱弁を震っている。 腕を振り上げ、時に降ろし。 玉座に座る曹操────華琳に向けて、自説を語っていた。 彼女の名は司馬懿。 近年、魏の軍師として登用され、その政治的手腕で一気に頭角を現してきている人物である。 「良いですか?五胡に対する対応の遅れは、大陸が分割統治されているという現状にあります! 寄せ集めの連合軍では、あの強大な蛮族を抑えることは出来ません。故に天下の統一が必要なのです!」 「………」 司馬懿の熱弁に、玉座に座る華琳は沈黙で応える。 それを肯定の意ととったのか、司馬懿の熱弁はさらに続く。 「呉は磐石な強国です。土地のせいもあって攻めにくい…。しかし蜀は違います!漢中をこの手にすれば、奴らなど 恐れるに足りず!」 「……なるほど。それで?」 「私に2万の兵をお与え下さい!見事、荊州を平らげて見せましょう!」 司馬懿は自分の弁に酔っているのか、熱く潤んだ目で華琳を見た。 だが───それを見返す華琳の目は、反対に酷く冷めている。 「───我、和を得て蜀を望まず」 「は?」 「聞こえなかったかしら?私は蜀を望まないと言ったのよ」 「なっ…!何故です!?あなたの覇業とはその程度のものなのですか!」 その言葉に、周囲の将の顔色が変わる。しかし、司馬懿はそれを睨み返す。 仮にも自分の主を罵ったのだ。 その場で斬り殺されても文句は言えない。 だが華琳はそれを目で制し、玉座から立ち上がって司馬懿と相対した。 「覇業とは、覇を持って事を成す───」 「ならばっ!」 「しかし、それは無用の戦乱を起こす事ではないわ。覇道とは王道───そこから外れたものに天下は来ない」 「っ!そのような…下らない理屈!」 「理屈ではない。これは王としての器の問題よ」 あなたにはそれが分からない様ね、と。華琳は司馬懿に背を向けた。 「下がりなさい。王者の心が分からぬ者と、これ以上語っても無駄だわ」 「……後悔、なされますよ?」 「面白い。この曹孟徳に後悔などと言う感情を抱かせてくれる者なら、こちらから会って見たいわね」 「───っ!失礼、いたします!」 司馬懿は踵を返し、玉座の間を出て行く。 それを止める者はいない。誰もが司馬懿の熱弁に呆れていたからだ。 バタンと、扉が音を立てて閉まる。 「───お疲れ様でした。華琳様」 「あの子は私に仕えるのが五年ほど遅かった様ね。戦時なら存分に使ってあげたのに」 と、夏候淵───秋蘭の労いの言葉に、華琳は苦笑しながら応えた。 玉座に座りなおし、優雅に足を組む。 「やはり五胡の侵攻を抑えている功績があるとはいえ、あのような者を臣下に加えるなどと…!」 「構わないわ。今の私たちに選り好みしてる余裕はないもの、あのような者でも使わなければね」 憤る夏候惇───春蘭をなだめつつ、苦笑する。 もっとも、と。華琳はそこで一拍置いて、 「頚に縄はつけておく必要はありそうね。───風?」 華琳は傍らに控えている程c───風に視線を送る。 それに気がつくと、風は静かに一度だけ頷いた。華琳の意を理解したという合図だ。 「よろしい。それでは次の───」 と、華琳がそこまで言った時、玉座の間に伝令の兵が入ってきた。 「報告!張遼様の部隊、ご帰還に御座います!」 「霞が?ずいぶんと早いわね…」 「はっ…そのことで早急に華琳様にご報告をしたいとのこと。それと───」 「それと?」 「こちらも詳細はお聞かせして頂けなかったのですが…客人を連れてくるとの事で、ぜひ華琳様にお目通りさせたいと」 「私に客…?」 はてな、と華琳は頚を捻る。 自慢する訳ではないが、華琳もそれなりに忙しい。魏という大国の王である事は、 他者の追従を許さないほど優秀な華琳でも、私事を殺されるに等しいほどの激務である。 ───そういえば、最近はお茶会もロクにしてなかったわね。 そんなことがふと頭を過り、心の中で静かに溜息を吐く。 それ故に臣下の報告ならともかく、客としてきた者に合う事は滅多にない。 ───それは霞も分かっているはずだけど…? ならばそれを理解したうえで、それでも会わせたい人物ということなのだろうか。 「まあ、たまには良いかしらね…」 先ほど疲れる相手に疲れる話を延々と聞かされたのだ。 それぐらいの気晴らしをしても良い。霞が直々につれてくるというのであれば、それほど酷い 客でも無いだろう。 「分かったわ。霞には許可すると伝えなさい」 「御意!」 さて、と。華琳はまだ見ぬ客人とやらに思いを馳せる。 この曹孟徳と会ってみたいというのはどういう人物なのだろうか? ───広いなぁ。 一刀は玉座の間を見渡しながら心の中で感嘆の声をあげた。 呉のそれも相当広いが、この部屋はそれ以上の広さと高さを誇っている。 しかもただ広いだけではない。 その広さを無駄と捕らえさせない、華やかだが鼻につかない程度の装飾。 そこがまた一刀は気に入った。この場を整えた人物は、相当に美意識の高い人物だろう。 そして───恐らくはそれをやった人物が、目の前に座っていた。 「まずは魏王として礼を言わせて貰うわ。……我が国の民のために手を差し伸べてくれた事、感謝する」 「当然の事をしたまでだ。礼を言われるほどの事ではない」 「ふふっ…魏では呉の甘寧は鈴の暗殺者として有名だけれど…なるほど、義にも篤いという訳ね」 「……」 華琳の嫌味とも挑発とも取れる発言に、思春は目を閉じて沈黙する事で答えた。 交渉───とまでは行かないものの、このような場において感情を表に出す事は極力避けるべきであり その事を思春は良く理解している。 ───すごいなぁ…やっぱり。 一刀も王族としてそういう訓練を受けてはいるが、どうにも感情を消すという行為は苦手だった。 「さて、それでは聞かせて貰えるかしら?…何故、呉の将であるあなたと呂布───それに、呉の王子が 魏に居るのかしら?」 来たな───と、一刀は思った。 恐らくこれが自分達をここに呼び出した本題。 まあ当然であるとは思う。他国の将が国境を越えて来たのだ。普通、何かあると考える。 そして、普通は何かがないと国境を超えてまで他国に来たりしない───はずなのだが。 「えーっと…観光かな?」 「……食べ歩き」 「…真面目に答えなさい」 うーむと、恋と一刀は頚を捻る。 嘘でもなく、本気で真面目に答えているのだが。 「ほら、早く答えないと春蘭がなでなでするわよ?」 「か、華琳様!?」 「春蘭のなでなではすごいわよ?そりゃもう、厨房では最強だもの」 「あー僕的には沈黙の軍船の方が好きかも?」 「あら、鉱山で千人無双するのも私は好きよ?」 やっぱりあの連載は初期までよねぇ…と、華琳と一刀が頷きあう。 「何の話をしている…」 「知らない?今、三国の書店で大人気の活劇絵巻だよ」 「……恋、署名本持ってる」 「っ!…呂布!それを私に献上しなさい!もしくは交換でも良いわ!」 「ええい!止めんか!」 思春が足をドン!と踏み降ろす。一瞬、場が静まりかえり─── 「し、失礼した…」 一つ咳払いをして、思春は一刀の後ろに下がる。 一転して、場に忍び笑いが満ちた。 「ふう…私としたことが、思わず取り乱してしまったわ。でもまあ───本当のところはどうなのかしら?」 華琳が笑いを堪えながら再度問う。 「えーっと、かn」 「漢王朝の復興ですって?穏やかじゃないわね…」 「…っ!?」 ───やられた! 一刀は内心で戦慄する。こちらの二重ボケを殺し、さらにボケ倒すなど、 並の腕で出来ることではない。 恐るべきは曹操。その頭の回転の速さは英雄の名に恥じないものがある。 「甘いわね。二重ボケの基本は忘れた頃にやるよ」 「うぐっ…!曹操さん、恐るべし!」 「ふふっ…精進しなさい。まあ、良いわ」 そう言うと、華琳は玉座から立ち上がり、腕を組んで一刀たちを見下ろした。 その姿はまさに王たるものに相応しい、堂々としたものである。 「甘寧、呂布───それに、呉の王子よ。曹孟徳の名において、あなた達を歓迎しましょう。 我が国を見たいのであれば、存分に見れば良い」 但し、と。華琳はそこで一つ置いて、 「一つはこの城に滞在すること。もう一つは、私が魏に仇成す者と見た場合…即座に斬り捨てる。良いわね?」 それはいつでも見張っているぞという意思表示だ。 迂闊な動きを見せれば、言葉通りすぐさま頚を討つつもりだろう。 「…良いだろう」 そして、思春はそれに肯定の意を示した。 どうせどこに居ようと監視の目があるのだ。それならば、いっそ懐に居た方が安全で良い。 蜀での一件もある。宿をどうしようかと考えていた一刀たちにとって、悪い話ではない。 「よろしい…。それでは───改めて歓迎するわ。ようこそ、この覇王の治める国へ!」 こうして───無事に一刀たちは、洛陽へと迎えられたのであった。