広大な中華大陸には、大きく分けて三つの国がある。 一つは北部を支配する強国、魏。 南西部を支配する蜀。 そして南東部と長江流域、沿岸部を支配する呉。 数年前まで各国は覇権を争い、血みどろの戦乱を繰り返してきた。 その戦乱は、赤壁の戦い後に各国の君主が和平を結んだ事で一応の終結を見たが、 荒れた大陸の復興は三国にとって命題かつ頭の痛い問題であった。 特に昨今問題になっているのが、異民族の侵入である。 特に北の匈奴、鮮卑。 西の羌、氐、羯などの所謂『五胡』と呼ばれる異民族との戦いは、中原を支配する漢民族全体の 命題とも言える。 現にここ数年、魏呉蜀の三国による討伐軍が何度か組織されていた。 しかしそのたびに一応の勝利は得るものの、相応の損害を与えただけで完全に鎮圧する事が出来ない。 五胡は狡猾且つ残忍。 そして強敵である。 それがここ五年間、異民族との戦争を経験した各国の将の見解である。 大陸の平和は決して恒久のものではなく。 危うい調整の元で成り立っていた。 ぼんやりと、頭上を雲が通り過ぎていく。 呉で見る空も、ここで見る空も変わりは無い。 ただ広く、蒼い天と太陽がそこにあった。 一刀たちが蜀を出て、もう丸一週間が経とうとしている。幾つかの街で休息を取ったが、 そろそろ荊州を抜けて華北地方に入ろうかというところまで来ていた。 最初は異国の地が何かと物珍しかった一刀も、最近では街につくまではこうしてぼんやりとしている事が多くなった。 街がぽつぽつと点在してる以外は、街道と平原と空しかない。 こうした移動時間が一刀にとっては何より退屈だった。 (……こういう時、じどうしゃがあればなぁ) もはやおぼろげになった『元の世界』の乗り物を思い浮かべる。 この世界の常識では考えられない、鉄で出来た乗り物。馬よりも早く、乗り心地も良い。 ───元の世界。 恐らく自分が生まれた、こことは別の世界。 そこには本当の父と母、それに家族や友人がいて、自分は幼稚園か───いや、もう小学校に通っていて、 学校で同級生たちと授業を─── 「……違う」 思わず言葉に出して否定する。 それはただの妄想だ。こうなっていたかもしれない、こうなっていればという───都合の良い妄想。 一刀は傍らに置いた剣を手に取る。元の世界にいれば、きっと手にする事のなかった人を殺すための武器だ。 この世界ではそれを持つのが当たり前。 相手を殺してでも自分の身を守らなければ生きていけない世界。 それが五年間、この世界に来た北郷一刀が身をもって学んだルールだ。 自分が生きていくと決めたこの世界の。 だが、何かが引っかかる。 『そこにいる子どもは…我々この世界に生きる者全ての敵なのですから!』 無顔と名乗った暗殺者の───その言葉が、一刀の心をざわつかせている。 まるで答えが分かっているのに、それを否定したい時のような胸がイラつく感じ。 何でもない、ただの狂った男の戯言だ。ただそれだけであるはず。 すぐに忘れると思っていたのに…何故かそれが一刀の心にささくれを起こすのだ。 ───何か、やな感じだな。 一刀は身を起こして思い切り伸びをした。 こうしてボーっとしているから、余計な事を考えてしまうのだ。こういう時は一人で考えていても 気分が滅入るだけである。 一刀は這って御者台まで行き、手綱を持つ思春と恋の間に座った。 「ん…もふもふ」 恋が間に入ってきた一刀を撫でる。一刀も擽ったそうに恋に身を寄せた。 「にゃふー…」 「何がにゃふーだ。大人しく向こうで寝ていろ」 「だって暇だし。ここならお話出来るじゃん」 「暇なら鍛錬の一つぐらい出来るだろう。腕立て、腹筋、何でも出来るぞ?」 「思春ねーさま、それ朝に散々やったってば…」 ───お陰で肩の怪我で落ちた筋肉は取り戻せたけど。 その甲斐あってか、今では以前よりも剣を振れるようになった。 「……一刀、悩んでる?」 頭を撫でる手を止めて。 恋がじっと一刀の目を覗き込んでくる。 (───やっぱりバレてた、か) 一刀は心の中で溜息をつく。勘の鋭い恋には、隠し事は出来ない。 「……にゃはは、まあ大した事じゃ───」 「お前が何を悩んでるのか、私は知らん」 笑って誤魔化そうとした一刀の言葉を、思春が遮った。 そして一刀を強引に抱き寄せる。 思春の───甘い香りがした。 「だがこれだけは覚えておけ。私達は、何があろうとお前を守る」 力強く、思春が言う。 「お前が行くというならどこへでも。お前が戦うというのなら誰とでも。お前が死ねと言うのなら─── 私は喜んでこの命を差し出そう」 「思春ねーさま…」 「それが臣であり、お前の姉代わりである私の役目だ」 「……恋も」 恋が身を寄せて、一刀を撫でる。 「恋も、一刀が好き。……だから、元気だす」 「…うん」 ───僕は馬鹿だ。 こんなにも大切に思ってくれてる人たちがいる。 これほど幸せな事はない。 一刀は自分の中のわだかまりが消えていくのを感じた。 どのくらいそれが続いたか。 思春が一刀を離して、手綱を握りなおした。 「───さて、それは良いとしてだ。降りる準備をしておけ」 「ふえ?どして?」 「そろそろ街に着く。今日はそこで宿を取るぞ」 「…おいしい、ごはん」 恋の目の色が変わる。 ここ数日、干し肉などの保存食しか口にしていないのだ。思春と一刀も苦笑しながら頷いた。 恋ほどではないが、二人も暖かい食事というものに飢えていたからだ。 「さて、もうすぐ見えてくるはずだが───」 そう言って、思春が目を凝らした先に───黒煙が上がってた。 しかも一つではない。何本も上がっている。 大規模な…まるで街が燃えているかのような煙だ。 「……ご飯の煙?」 「そんな訳あるか。しかし、あれはまるで───まさか、戦か?」 言って、思春はその考えを否定した。 ここは強国を謳う魏の領土だ。あの曹操の治める地で内乱などありえない。 ならば他国からの侵入という事になるが───呉にしても蜀にしても、華中と荊州を 誰にも気付かれずに魏まで横断するなど不可能だ。 (ならば一体、どこの誰が…?) 消去法で答えを消していき、やがて思春はある可能性に行き着く。 曹操をも手を焼く勢力が、西にいるではないか。 「…急ぐぞ!」 恋も一刀も、黙って頷いた。恐らく、思春と同じ事を予想しているに違いない。 「だが、あの煙の量からすると…」 ───全滅、という事もあるな。 思春は手綱を引き絞る。馬車が速度を上げた。 そこは地獄だった。 燃え盛る家と街、切り裂かれ道端に捨てられている民、無残に五体をバラバラに切断された兵士───。 中には直視に耐えないものもある。 女も子どもも男も。 若者も老人も。 皆、等しく皆殺し。 そう、ここは───もはや人の住む場所ではない。 まさに、地獄という言葉に相応しい場所に変わっていた。 「───ひどい…」 目の前に広がる光景に、一刀はこみ上げてきた吐き気を飲み込んだ。 一刀も幼い頃から様々な戦場を見てきているが、これはあまりにも酷すぎた。 子どもを守ろうと抱えたまま背を割られて絶命している母子。 しかも母親が抱えた子どもの頭まで割っているという念入りさだ。 「……五胡」 恋が珍しく顔を怒りに染めながら呟いた。 ここまで残虐な行為を出来るのは、異民族である五胡しかいない。 「曹操め…蛮族に国境を割られるなど!」 思春が舌打ちをしながら言った。 「万里の長城はどうしたのだ!」 万里の長城は秦の時代より続く漢民族の盾だ。過去の歴史において、何度も蛮族の侵入を拒んできた。 その守りは各国の連合兵で固められているはずだが─── 「…超えてきた?」 「まさか。万を数える各国の精兵が固める城だぞ?そう簡単に超えられるものか」 「じゃあどうして…?」 「分からん。可能性として考えられるのは内通者だが…」 と、そこまで言い掛けた時。 思春の聴覚が、微かな声を捉えた。 ───生きている人間がいる? 耳を澄ませて、声のする方向を探る。 ───見つけた。 少し離れた建物にもたれかかりながら、矢の刺さった兵士が苦しそうに呻き声をあげていた。 傷は深そうだが、まだ息はあるらしい。 「一刀!恋!馬車から水と包帯を持って来てくれ!」 「う、うん!」 「頼む!…おい、大丈夫か!?」 思春は兵士に肩を貸しながら、近くの地面に寝かせた。 兵士は荒い息を吐いて虚ろな目をしている。 矢は深く刺さっており、さらに脇腹が切り裂かれている。 ───これは、助からん。 傷が深すぎる。これでは応急処置をしても半日と持たないだろう。 「…ご、五胡…五胡が突然…抵抗した者は、皆…」 「もう喋るな。安心しろ、私は味方だ」 「た、頼む…!この、ことを…そ、曹操様へ…みなの、か…ゴフッ!」 「おい!しっかりしろ!」 思春が必死に呼びかけるが、兵士の身体から力が抜けていく。 やがて───絶命した。 「くそっ…!」 思わず近くの家の壁に拳を叩きつける。 助けられなかったばかりか、情報すらロクに聞くことも出来なかった。 「思春ねーさま…その人…」 いつの間にか、一刀と恋が包帯と水を持って傍らに立っている。 その表情は暗い。 思春は黙って兵士の目を閉じてやり、立ち上がって一刀の頭を撫でた。 「大丈夫だ。それより、生き残った者を探そう───もっとも、この有様では」 絶望的だがな、と。思春は言った。 だが諦めるのは早い。どこかに避難した人々もいるかもしれないのだから。 ただの通りすがりの身ではあるが、この惨状を目にしてしまっては見てみぬフリは出来ない。 それは一刀も恋も同じのようだった。 「……どうする?」 「そうだな。まずは手訳して───」 そう言って、思春は歩き出そうとしたが、 近づいてくる来る馬蹄の音が、その足を止めた。 「……」 恋が無言で一刀を護るように前に出る。 救援に駆けつけた魏の部隊か、それとも五胡か───どちらにしろ、警戒すべき相手である。 思春も刀を構え、前方を見据えている。 街の外から駆けて来た馬は、思春たちを見つけると、目の前で馬を止めた。 一刀は馬上の主を見上げる。胸のふくらみから、女性だということが分かる。 太陽が逆行になって顔は良く見えないが───どうやら青龍刀を携えているらしい。 晒しを巻いた胸を大胆に晒し、こちらを見下ろしている。 「うちは魏の将、張遼!……問う。敵か?それとも味方か?」 「敵ではない。ただの通りすがりの旅人だ」 「ほっほー。ほな、味方でもないっちゅうこっちゃな?」 張遼は思春の前まで来て、その頚に青龍刀を突きつける。 思春は動かない。 「ならさらに問うで。この惨状───下手人はあんたらか?」 無表情に、思春に問う。その顔には明確な殺気が篭っている。 一刀の前にいる恋の身体が、僅かに緊張を帯びる。 相手が思春を斬ろうとすれば、すぐにでも飛びかかれるようにだ。 だが思春は目線で恋を制し、言った。 「違う。……我々が来た時にはもうここは地獄だった」 「ほんまか?その証拠は?」 「ないな。だが、仮にそうだったとして───のこのこ包帯と水を抱えてうろついてると思うか?」 思春は顎で一刀を差す。 張遼は一刀の姿をまじまじと見詰め、しばらくして大きく溜息を吐いた。 「ま、そりゃそうやね…。理屈は通っとるし、信じたるわ」 それにしてもと、女は周囲を見回し、 「くそが…!五胡の連中が国境を突破したちゅう情報がもうちょっと早く回ってくれば… こないなことになれへんかったのに!」 張遼は拳を血が滲むほどに握り締めていた。 瞳に怒りを溜めギリギリと歯を食いしばっている。 「……このツケ、いつか払わせたる!」 張遼はそう言って、パンッ!と自分の頬を叩く。 気持ちの切り替えなのだろう。その顔からは、険が抜けていた。 「とりあえず、兵の連中に生き残りの捜索と救助にあたらせて…。あ!あんたら、ちょっとええか?」 「ふえ?」 「暇やったら手伝ってくれへんか?正直、連れて来てる部隊やと手が足りんのや」 「…我々を信用するのか?」 「別に信用はしてへんよ?ただ、このままここを見捨てて行くような薄情もんでもなさそうやなと思ってな」 上手いなと、一刀は心の中で感心した。 ここで断れば敵として斬り捨ててしまえば良いし、了承したとして近くに置けば監視もしやすい。 どう答えても張遼の損にはならないのだ。 思春もそれを分かっているのか、苦笑しながら頷いた。 「もとよりそのつもりだ。このまま立ち去るほど義に疎い訳ではない」 「よっしゃ!ほなまずは…」 張遼の指示の元、兵達がテキパキと動いていく。 一刀たちもそれに混じり、負傷者や瓦礫の撤去作業などに従事していた。 そして三日後───張遼たちが引き上げると共に、一刀たちも洛陽に向かう事になった。