時刻は戌。 宿屋の屋根の上に、一人の女性がたたずんでいた。 手には赤い槍、白い服装で、顔には目元を中心に上半分を覆う仮面を付けている。 もし、成都に住むものが彼女の姿を見れば、驚きの声を上げた事だろう。 人は皆、彼女を正義の使者と呼ぶ。 「ほう…日が落ちたというのに、混乱の都は中々騒がしいじゃないか」 彼女は笑う。 瞳に正義を宿して。 「どうやら、面白い事がありそうな気がするな…。ふふふ、たまにはこうして出歩くのも悪くない」 そう言って、屋根から屋根へと駆けていく。 その姿はまるで花に舞う蝶の如く。 ───成都の夜は、静かに加速していく。 闇から飛び出してきたのは6人───。 全て全身黒い布の服と頭をすっぽりと隠す頭巾、それに…顔全体を覆う白い仮面。 そして手には少し短めの刀を装備している。 「…殺!」 男たちは一言そう叫ぶと、一斉に一刀たちへ飛び掛る。 その動きは速く、鋭い。 ほとんど光のない闇の中だ。その中で何の躊躇もなく動けるという事は、よほどの訓練を受けているということだろう。 男達は一刀たちを半包囲する形で迫ってくる。 それは確実にこちらを殺すための動きだ。 「ちっ…!」 舌打ちしながら、思春も対応して刀を構えた。 広い戦場ならいざ知らず、ここは一本道の通りだ。このような場所で完全に包囲されれば、逃げ場はない。 さらにまずいことに、闇が深い。 思春も近衛を務める将である。闇夜の戦いに備えてそれなりに目は慣らしてあるが、それでも昼間と同じく 相手の動きを見切れるかどうかは至難の技だ。 「恋っ!」 「…わかってる」 思春の呼びかけに、恋が矛を振るいながら応える。 恋は刺客たち4人を相手に互角の戦いをしていた。 流石は一騎当千───と言ったところだが、この状況では些か分が悪い。 「一刀!その子を連れて逃げろ!我々が道を開く!」 刺客の一人を蹴り飛ばしながら、思春が叫ぶ。 少々不利な戦いだが、思春と恋の二人ならどうとでも出来る。伊達にあの戦乱を戦い抜いた訳ではない。 生き残る術は幾らでも心得ていた。 故に思春の決断は早い。 少しは戦えると言っても一刀はまだ半人前だ。 それに、万が一にも死なせる訳には行かない大事な身である。 ───ならば、先に逃がすのが上策。 少なくとも、ここで思春たちが刺客を抑えていれば一刀たちは逃げ切れるだろう。 相手の数が不明だが、今いる場所から城まではそう遠くない。 万が一、刺客の数が増えたとしても、一刀の足なら少女を連れながらでも逃げられる可能性は高い。 「了解!……二人とも、無茶しちゃダメだよ?」 一刀もそれを分かっているのか、相手の包囲が崩れた隙を狙い、璃々の手を引いて駆け出していく。 自然に阿吽の呼吸を合わせる絶妙の頃合である。 「ふえ!?え?な、何ー!?」 ただ一人、璃々だけが状況についていけず一刀に手を引かれて行く。 だが敵も只でそれを見逃すはずもない。璃々の髪を力任せに掴もうとするが、 「…それは、ダメ」 恋がすかさずその刺客の首を撥ね飛ばした。 辺りに真っ赤な鮮血が飛び散り、璃々が喉の奥から「ひっ…!」と小さな悲鳴を上げる。 「止まっちゃダメ!走って!」 一刀は立ち止まりそうになっている璃々の手を引っ張って、闇へと駆ける。 後方では、未だに剣戟の音が聞こえていた。 一刀は暗闇の街中を駆けていた。 成都の町並みは、碁盤の目の様な形をしている。確か穏から聞いた話では、 最近流行りだした街の形らしい。道と筋にそれぞれ名を付け、どこがどの区画であるかを 分かりやすくしているのだという。 (でも、これだけちゃんと作ってるのってすごいかも…) 走りながらぼんやりとそんな事を考える。もっとも、そのお陰で入り組んだ街中を迷路さながらに駆けなければ ならないという欠点はあるが。 「璃々おねーさん、今、どこか分かる?」 「ちょ…ちょっと…待って…!」 璃々が一刀の手を離し、壁に手を付いて行った。 戦場と鍛錬で鍛えた一刀の足と璃々とでは体力の差がある。 自然、こうして小休止を挟むことになった。 「大丈夫?」 「だ、だいじょうぶ…じゃない…かも…」 先ほどから休憩を挟む感覚も狭くなってきている。 璃々の体力はそろそろ限界に近いのだろう、と一刀は思った。 (…しばらく休憩、かな?) 周囲の気配を探ってみる。 特に敵意らしいものは感じない。 思春たちの足止めが成功しているのか───それとも、まだ隠し玉があるのか。 一刀は闇夜に浮かぶ城を見た。 闇のせいで距離感は掴めないが、城の篝火らしきものが近づいてきている。 とにかく、あそこまで行って援軍をつれてくれば一刀たちの勝ちだ。 一刀はそう判断すると、改めて周囲を見渡し───ふと目をとめた。 前方の暗闇の中に、例の刺客がいた。 数は一人。手には先ほどの連中と同じいでたちで、少し短めの剣を抜き身に構えている。 「…やっぱり、そう甘くないよね。世の中って…」 溜息を吐きながら嘆くと、一刀は璃々を自分の背に庇うようにして立ちながら、左手で腰の剣に手を当て、 右腕を垂らし、相手を誘うように構える。 誘いに乗ってかかってくれば、そのまま抜き打ちで頚なり腕なりを斬り捨てるつもりだった。 「ねえお兄さん…なのかな?ここでやり合うのって、お互いあんまり良く…」 「……殺!」 この瞬間、刺客の剣が閃いた。 跳躍しながらの頭上への斬撃が一刀の頭上に殺到していた。 剣を抜く間もない。 一刀は小さな身体をさらに丸めて、後方へと飛び下がった。 しかし、刺客の攻撃は止まらず、一刀に剣を抜く間を与えない。 刺客の放った何撃目かの切っ先が一刀の服の肩口を掠った時、 (まずい、かも…!) 一刀は防ぐのを諦めた。諦めるとふいに身体が軽くなった。 大振り気味に振られた相手の斬撃を交わし、自ら懐に飛び込む。そして、相手の影が動いた瞬間を狙い、 「はぁぁぁぁぁ!!」 裂迫の気合と共に、一刀の刀が鞘を走り、風を切って跳ね上げた。 一刀の手に重い手ごたえが伝わる。刺客の刀が、鍔元から折れて天を飛んでいた。 「……!」 刺客はすぐに懐から新たな武器を抜いた。今度は刀子である。 極々護身用の武器として一般的なものではあるが、それでも殺傷能力は高い。 一刀はそれを見ると即座に間合いを外した。一刀が持っているのはあくまでも普通の剣である。 至近距離では、十分な威力を持って振るえない。 両者は少しの間を空け、再び対峙する。 「…殺!」 「…それしか言えないの?」 言葉では相手を挑発しながら、一刀は内心、必死に焦りを隠していた。 相手の武器を折れたのは───ただの偶然だ。しかも悪い方の。 本来なら、相手の手か胴、理想ならば頚を撥ね飛ばすつもりだった。 それが出来なかったのは一刀自身が踏み込みを躊躇した事。幾ら戦場で血は見慣れてるとはいえ、 正面きった殺し合いというものの経験は少ない。 その僅かな恐怖心が、一刀の踏み込みを惑わせた。 ちらり、と後ろにいる璃々を見る。 間近で剣の打ち合いがあったからなのだろう。慣れて居ないのか、こちらを見て腰を抜かしていた。 無理もない。慣れている一刀でさえ怖いのだから。 「やっぱ、負けちゃう訳には行かないよね…」 一つだけ深呼吸をして、決意を固める。 人を殺すための覚悟など、したくはないが───自分も後ろにいる璃々も殺させてやるつもりはない。 幸い相手の武器は先ほどまでの刀ではなく刀子だ。間合いはこちらの方が広い。 ───次は、斬る。 一刀がそう決意して剣を正眼に構えた時、 「ほう。良い太刀筋じゃないか少年」 空から、澄んだ女性の声が聞こえてきた。 一刀は驚いた様に声のした方を見上げる。 いつのまに近づいていたのか────まるで気配を感じなかったからだ。 「…!」 刺客も驚いたのか、慌ててそちらに目線を送る。 白い服に、華美な仮面。手には少し変わった形の矛を持って、顔に微笑を浮かべながら こちらを見下ろしていた。 「その顔…まあ、仮面に隠れて分からぬが───何者だ!?という表情だな」 自信満々にこちらを見下ろす姿はまるで───闇夜に咲いた一匹の蝶。 「華を舞い、華に咲き、華を彩る可憐なもの…人それを蝶と呼ぶ」 「…!?」 「貴様らに名乗る名はない!───とうっ!」 そういって、謎の女性は一刀たちの前に着地する。 その動きに隙はなく、それだけで鍛え上げられた武人ということが見て取れた。 「可憐な花に誘われて、美々しき蝶が舞い降りる! 我が名は華蝶仮面!混乱の都に美と愛をもたらす…正義の化身なり!」 ばばんっ!という勢いで独特の構えを決める華蝶仮面。 一刀はしばらく呆然としていたが、 「いや、おねーさん思いっきり名乗ってるし…」 後ろからすかさず冷静なツッコミを入れた。 だが、それにも動じず、華蝶仮面は矛を刺客に突きつける。 「幼子を狙う悪しき者よ!正義の光が貴様らの闇を晴らしてくれよう!」 「…殺!」 言葉と同時に刺客は手にした刀子を手に、華蝶仮面に突撃する。 その速度は、得物が軽くなった分、先ほどより早い。 「ふっ…愚かな。悪が正義に敵うと思っているのか?」 だがそれでも華蝶仮面は余裕の笑みを崩さない。 矛を構え、突進してきた刺客が間合いに入ると同時に、 「───成敗!」 放たれた一撃は、一刀の目には一瞬矛の切っ先がぶれた程度にしか見えなかった。 昼間でもその軌道を追えたかどうか分からない───それほどまでに早く、鋭い一撃。 もちろん、そんなものを受けた刺客はたまったものではない。 くの字に折れて吹っ飛ばされ───驚くべきことに、一刀たちのいる場所より後ろに落下していた。 まさに鎧袖一触。すさまじいまでの一撃である。 「ふっ…正義は勝つ!」 「うん、何ていうか、正義ってすごいや…あはは…」 苦笑しながら、一刀は剣をしまった。 これだけ長時間大立ち回りしておきながら追撃もない。敵の追っ手は無い、と見て良いだろう。 「ふぁ…良かったぁ…」 璃々も息を吐いて胸を撫で下ろしている。 一刀はそれを確認して、 「で。おねーさん、だぁれ?」 「ん?誰だ誰だと問われたら───可憐な花に誘われて!」 「いや、それはもういいんだけど…」 「ふむ…どちらかと言えば、それを聞きたいのはこちらの方なのだがな。…孫呉の王子殿がこんなところで何をしている?」 「……っ!!」 その言葉に、一刀の身体が固まった。 今回の旅はあくまでお忍びという事が前提である。 それが───目の前のこの人物にこうも易々と看破されているのだ。 当惑するのも当然だろう。 何故、知られたのか? そもそもこの女性の正体は何者なのか? なんとか言い含めるか?いや、でも…。 困惑するその様子を見て、華蝶仮面は微笑しながら一刀の頭を撫でた。 「ふふっ…どうやら中身もそれほど変わってはいないらしい。案ずるな、誰にも言いふらしたりはせんよ」 「な、何のことかにゃー…?」 「惚けるのならそれでいいさ。まあ…あちらの美少女にはバレないようにな」 璃々が先ほどから、こちらを見て疑問の表情を浮かべていた。 どうやらこちらが何を話しているかまでは聞き取れていないようである。 一刀はそれを見て、そっと胸を撫で下ろす。 ───ここでバレて、璃々との関係を崩したくない。 それが一刀の本音だった。 「さて…そろそろ城の方も勘付いた頃だ。私はこれで失礼するか」 「あ…あの、どうもありがとうございました」 ペコリと頭を下げる一刀に、華蝶仮面は苦笑し、 「そうそう、ついでに言えばお主の連れも無事だぞ」 少し手こずっていたから加勢してやった、と。事も無げに華蝶仮面は言った。 「大方、あの城に知らせたのもそれだろうな。───それでは、な!」 今度こそ、華蝶仮面は屋根の上に身を翻し、闇夜に消えていく。 一刀は苦笑しつつそれを見送る。 人が近づいてくる音が近い。どうやら華蝶仮面言っていた通り、思春たちが城に知らせてくれたのだろう。 「はぁ…疲れた」 流石に緊張が解けて、地面に座り込む。 いつのまにか雲が晴れて星空が浮かんでいた。 こうして───成都の長い一日目が幕を閉じたのである。 その後、合流した一刀たちが開放されたのは明け方近くになってからの事だった。 蜀の首都、成都で暗殺者の襲撃にあったのだ。これは只事ではない。 と言っても、余所者である一刀たちにそれほど詳しく話せるはずもない。せいぜいがどこでどういう風に どんな者達に襲われたかを話すだけだ。 後の事は街の警備隊の仕事である。 「ふぁぁぁぁぁ〜〜〜…」 城門から出た一刀は、大きな欠伸を漏らした。 璃々を助けた恩人でもあるという事で、少しはマシな寝台で仮眠をさせてもらったものの、 まだ少し疲れは残っていた。 「それにしても…璃々おねーさんって、偉い人だったんだねぇ・・・」 「そういう訳でもあるまい。偉いのは親の方だ」 ふと漏らした一刀の言葉に、横に並んで歩いている思春が答える。 「黄忠と言えば、蜀の五虎将の一角だからな」 「ふーん…良くわかんないや」 そう言って、一刀はまた欠伸を一つ。 「一刀は…それで良いと思う」 恋がポンっと一刀の頭に手を置く。 「そんな一刀が…きっとみんな好き…」 「えへへ…恋ねーさまがそう言うんなら、それでいいや」 一刀は空を見上げる。 天は蒼天。抜けるような青空が一面に広がっている。 今日は祭りの本番。絶好の日和であった。