時は恒久に続く。 外史もまた同様に。 故にその未来は無限大。 さあ、再び閉じられた外史の先を除いてみましょう───。 連なって荒野を進む馬車の荷台から、黒髪の少年はのんびりと果てなき蒼天を見上げていた。 少し大きめの目、少年らしくラフに短く伸ばしたどこか人懐っこいその顔立ちは、 まだ子どものそれである。 だが、その脇には金塗りの鞘に収まった業物らしそうな剣を携えており、この隊商に 雇われた証の腕章もつけている。 つまり、少年は旅人であると同時に、隊商の護衛も兼ねていた。 旅の剣士は国を移動する際、よくこのような副業につく。 報酬こそ殆ど出ないが、旅の間の食事には事欠かないし、足も確保出来る。 そして何より、気楽で良い。 もっとも、護衛の仕事として山賊などに襲われた時は正規に雇われた護衛達と共に 隊商を守らなければならないが───今のこのご時勢、魏、呉、蜀の三国に守られた 正規の交易路を進む隊商に手を出してくる賊などそうそう居ない。 今、荷台の上から空を眺めている少年が護衛に雇われているというのが良い証拠だ。 大の男ならまだしも、こんな少年を護衛に雇うなど、本来ならありえない。 つまり、彼がこの隊商に同行を許されたのは、純粋に商人達の厚意故だった。 寝台に寝そべる少年自身も、そのことは理解している。 本来なら報酬を貰うどころか、旅費を払う立場なのだが、生憎懐具合が寂しく、その余裕もない。 この隊商においてもらえたのは運がよかった。 馬車はもうじき、蜀の首都、成都に到着する。 一応、少年の旅の第一の目的地もそこである。 ただ、あくまで当面の目的地であって、故国である呉を離れて諸国を回ることが旅の目的であり そこから先は余り考えてもいなかった。 だから、蜀に入ったことにも余り深い感慨はない。単に美味い飯があればいいなぁという程度だ。 先に北の魏に行っても良かったが、いろいろと複雑な事情で戦が終わった今でも自分が行くのは中々難しい。 南は大した国もないし、平原は国境線のために賑わってはいるがその分治安も悪い。 だから彼は、西───この蜀の大地にひとまずやってきた。 ここから西涼というところまで行ってもよし、北に行って魏に入るのも……まあ悪くはない。 「でもまあ…当面の目的は蜀の見物かなぁ」 そんな事を漠然と考えながら、少年は欠伸をした。 「孫郷様。お疲れなのですか?」 近くで控えている褐色肌の女性がいつもと同じ冷静な声と顔で声を掛けてくる。 ぼうっと青空を眺めていた少年は、一瞬の間を置いてから、それが自分の名だと思い出す。 呉を離れてから、ずいぶんとその名で呼ばれていたが───未だにその名に慣れる事はなかった。 「うん。昨日は荷物の番をしてたから…それより、二人の時はその名前…」 「止めてくれ、と言うのでしょう?しかしけじめというものがありますから」 「むー…」 憮然とした顔をしながら、少年は顔を上げた。 「折角、孫策様から貰ったお名前です。……それほど毛嫌いするものであるまい?」 「そりゃ、他の人が居るならいいけど…。でもでも、二人の時は一刀って呼んでよ」 「だから、お前はもう少しけじめというものをだな…。いや、言うだけ無駄だな…」 思春は諦めた様に苦笑する。 今、馬車には一刀と思春しかいない。 荷台に腰を下ろした女性は思春という名で、黒曜石のような黒髪と引き締まった肢体、 涼やかに整った顔立ちの美しい美女だ。 一刀の連れという事で、この旅に同行している。 一刀にとっては姉と言って良い存在であり、武術の師の一人でもあった。 今はにこやかに一刀を見ているが、その眼光は鋭く、腰に刷いた刀は戦場で使い込まれた証として、 鈍くその光を反射している。 呉に甘寧ありという言葉に偽りは無く。 見るものが見れば、獰猛な虎もかくやという牙が見えるだろう。 「しかし…呉を発ってもう一月か。まったく、孫策様も無茶をさせる」 「思春ねーさまったら、まだ言ってるの?」 「当たり前だ。仮にもお前は孫呉の王族───それが、正式な護衛もつけず諸国に旅に出すなど…」 「んもう…別に僕は気にしてないんだけど」 「お前が気にしなくても私や蓮華様やその他もろもろの人間が気にするのだ」 思春はそう言うとまた溜息を吐く。 一刀が建業を発ったのは、もう一月も前になる。 「そろそろ世の中を見てきてもいい歳でしょう。じゃ、そういうことで♪」 いつもは過保護な割りにずいぶんと軽いノリで一刀を送り出したのは、母親であり、 呉の小覇王こと孫策───雪蓮である。 「まあ可愛い子には旅をさせろっていうし。将来、孫呉を率いる身として大陸を見てくるのは 悪い事じゃないわ」 とは雪蓮の言であるが、これを突然言い出すところが雪蓮の雪蓮たる所以であると一刀は思う。 もちろん、妹の蓮華や小蓮を初め、今同行している思春や亞莎といった呉の名将たちから 猛反対を受けたものの、他国の情勢を知っておくのは将来のためという雪蓮の熱心な説得や こちらはノリだけで賛成派に回った祭の豪快な『説得』であっと言う間に決まってしまった。 一刀としては他国の情勢には興味をそそられるし、何より自分の力を試したいという気持ちもあって 正直言うと雪蓮の申し出はありがたかったのだが─── 「結局、恋ねーさまたちまで着いてきちゃったし…」 一刀は頭を掻きながら苦笑する。 蓮華を旗手にした反対派の譲歩案として、一騎当千と言われる恋をつける事でこの旅を 納得させたという経緯がある。 もっとも、恋は先に馬で先行し、成都で合流するという手筈であるので ここには居ないが。 「それよりさ。聞いた?成都で武術大会があるらしいよ」 「……武術大会?」 思春が思わず問い返す。 入国したばかりなので、そうした催事のことには疎い。 僕もさっき聞いたんだけどね、と。前置きをして一刀は続ける。 「街の催しだからそんなに規模は大きくないみたいだけど…。賞金も出るし、将の人たちも出るみたいだよ?」 「ほう…街の大会風情に将が出てくるのか」 思春はそこに反応した。 今回の旅には他国の情勢を探る目的も含まれている。だからこそ、冷静に分析を行える思春が同行しているのだ。 街の大会とはいえ、他国の将の実力を見ておくのも悪くは無い。 「えへへ…それでね、思春ねーさま。その大会、僕も…」 「ダメだ。怪我でもされたら困る」 「はう…やっぱり?」 思春にピシャリと先手を打たれ、一刀は見るからに残念そうに肩を落とした。 一刀も幼いながら武を嗜む者だ。 最近は思春や明命、祭や恋という武人たちが丁寧に育てたその才は、多少の相手になら 負ける事はないだろうと思春は踏んでいる。 そして、その鍛錬の成果がどれほどのものなのか純粋に試してみたい気持ちも良く分かる。 だが───今の一刀は王族たる身だ。 万が一にも怪我をして、その後に響いては呉の国の将来に関わる。 「それに万が一他国者が勝ってみろ。街の余興とはいえ、悪戯に刺激する事になる」 「考えすぎだよー。商人の人たちも腕試しをしたい、目立ちたい人たちが殆どだって言ってたよ?」 「だからこそ、だ」 「でもぉ…」 素直な一刀には珍しく、中々諦めようとはしない。 思春はそれを見て、少し考える。 ───この様子では、止めても絶対に出るな…。 これでも一刀を育ててきた者の一人だ。素直な割に、一度決めると頑として動かない頑固さも良く知っている。 ───無理に止めて、目の届かないところに行かれるよりマシか…。 自分でも甘いなとは思う。だが─── 「お願い!ちょっとだけだから!」 こちらに必死でお願いしてくる一刀を見ると、どうしても嫌とは言えなくなる。 しばらく考えた後、思春は「はぁ…」と溜息を吐いた。 「…少しだけだ。危険だと私が判断したら試合に乱入しても止めるぞ」 「じゃ、じゃあ!?」 「好きにしろ…。ただし!今回だけだからな!」 「やったー!思春ねーさま、大好きー!」 そう言うと、一刀は思春に抱きつく。 思春はそれを受け止めながら… 「はぁ…私も甘くなったものだ…」 苦笑しながら、それでも優しく笑っていた。 二人を乗せた馬車はもうじき、成都に入る。 街の騒がしい喧騒が、馬車の中にも響いてきた。 その日、蜀の都成都は、どこもかしこも祭りの熱気に包まれていた。 毎年、この時期に開かれる豊作を祝う祭。 収穫という忙しい時期を終えた後に開かれるこの祭りは、他国からも見物客が来るほどの盛況さを 誇っていた。 戦乱が続いていた数年前までは小規模のものだったが、ここ数年、治安が急激に安定したこともあり 今では諸国にまで名を響かせるまでになっている。 「はぁ…はぁ…!」 そんな祭りに沸く大通りを、一人の少女が懸命に駆けている。 少女の視線の先にはチンピラ風の男が二人。 その手には可愛い巾着が握られていた。 「璃々のお財布───返してー!」 璃々、と名乗った少女は大声を出しながら懸命に走る。 だが少女の足では大の男の速度には追いつけないらしく、人ごみを駆け抜けながら ということもあってか、徐々にその差は広がっていく。 「へっ!ガキの足で俺達に追いつけるか!」 チンピラの一人が璃々を振り返りながら嘲笑う様に言った。 完全に璃々を舐めているのか、手に持った巾着をお手玉しながらこちらを振り返ってくる。 璃々はそれを見て、悔しそうに唇を噛んだ。 「〜〜〜〜っ!それ、璃々のだよ!早く返してー!」 「掏られる方が悪いんだよ!諦めるんだなぁ!」 「おっ!こいつ…ガキのくせに結構持ってんじゃないか!」 「う〜〜〜〜…!待てー!」 だが璃々がどんなに悔しがっても、チンピラたちとの差は縮まない。 ───誰か! 璃々は思わず心の中で叫ぶ。 ───誰か、あいつらを捕まえて…! お金はどうでもいいが、あの巾着だけは絶対に取り返したい。 璃々にとって、あれは大好きな母から貰ったとてもとても大切なものなのだ。 だから───絶対に取り戻したい。 諦めそうになる心を懸命に奮い立たせながら、でも体力が限界を迎えて、その足を止めようとした時、 「……ふえ?何かあったの?」 前方から聞こえてきたとぼけた声に、璃々は立ち止まり顔を上げる。 前を走るチンピラたちの前に、一人の少年が立ちはだかっていた。 背格好は───自分より少し背が高いぐらいだろうか。黒い肌着と 白いズボン。それに腰に金色の鞘をした剣を佩いていた。 「どけぇチビ!邪魔だぁ!」 チンピラの一人が少年の肩に手を掛け、突き飛ばそうとする。 大人と子どもだ。力にも体格にも差がありすぎる。さらに走ってきた勢いも付いている。 このままでは───大怪我をしかねない。 「に、逃げて!」 璃々は思わず叫んだ。 だが、少年は何を考えているのかその場から動かない。 そして───直後に起こる光景に、璃々が目を覆おうとした時、 「……危ないよ、お兄さんたち?」 少年の身体がゆっくりと動いて─── そして…璃々が気がついた時には、チンピラの一人が地面に転がっていた。 「げはっ…!?」 投げられたチンピラは硬い地面に叩きつけられたらしく、悶絶しながら 呻いている。 周囲の人々も、何が起こったのかよく理解していないのか、皆きょとんとしている。 「て、てめえ!よくもっ!」 しばらくして、相棒がやられたことに漸く気がついたのか、もう一人のチンピラが少年に殴りかかる。 だが、少年は冷静にそれを避けると、 「…せいっ!」 同時に短い息吹と共に大きく脚を踏み込み、チンピラの鳩尾に掌底を叩き込む。 「ぐほっ…!」 打たれたチンピラの顔が青ざめ、身体が折れる。 それだけ少年の打撃が重かったという証明だった。 そして、少年はそのまま流れるように身体をくの字に折った相手の顔を目掛け、 「ねねねーさま直伝…」 今度は璃々にもはっきりと見えた。 少年の振り上げた脚が、そのまま腹を打たれて悶絶しているチンピラの顎に吸い込まれていく。 「ちんきゅー…きーーーーーっく!」 顎を見事に蹴り上げられたチンピラは、そのまま糸の切れた人形のように地面に倒れこむ。 気絶したのだろう。その口からは泡を吹いていた。 時間して三瞬程度。 そのわずかな時間で、少年は大の男二人を伸してしまったのだ。 「…っと。えと、これ…君の?」 少年は軽く服に着いた砂を払うと、チンピラが持っていた巾着を持って璃々の前に来た。 「だめだよー?こういう人ごみって、ちゃんと気をつけておかないとスリとかひったくりとか 一杯いるんだから」 少年は璃々に巾着を返し、にこりと笑う。 璃々はその笑顔に少し赤くなってしまう。 (───ちょ、ちょっとドキッってしちゃった…) 見れば中々にカッコイイ顔立ちをしている。 有体に言えば───璃々の好みだ。 内心の動揺をなんとか抑えながら、璃々は巾着を受け取ってペコリと頭を下げる。 「あ、ありがとう…。」 「それじゃ、僕はこれで…」 そう言って少年が背を向けた時───盛大に腹の鳴る音がした。 「へ…?」 璃々は思わず周囲を見渡す。 まさか自分かと思ったが、どうやら違うらしい。 と、目の前にいる少年の顔が見る見る赤くなっていく。 「あの…おなか、減ってるの?」 「ふえ!?あ、あはは…その…うん」 少年は恥ずかしそうに俯く。 どうやら音の主は目の前にいる少年らしい。 璃々は財布の中身を思い浮かべる。 今日はお祭りだ。お小遣いも少し多めに貰っている。 「あ、あのね…おなか空いてるんだったら、璃々がごちそうしてあげる」 どうせ目の前の少年が居なければ無くなっていたお金だ。 それに璃々は母からいつも「何かをしてもらったらちゃんとお礼をしなさい」と教えられている。 ならば、今がそのお礼をする時だろう。 「ふえ?で、でも…そんなの悪いよ」 「璃々が良いって言ってるんだから、遠慮しちゃダメ!ほら、行くよ!」 璃々は少年の手を強引に掴んで歩き出す。 少し大胆すぎる気がしたが───こうでもしないと、きっとこの少年は着いてきてくれないだろう。 それでは璃々の気がすまない。 「えと…あの、その…」 「璃々だよ!」 「ふえ?」 「私の名前!璃々っていうの。あなたは?」 問われた少年は少し考えた後───こう名乗った。 「一刀───僕は一刀って言うんだ。よろしくね、璃々おねーちゃん!」 新たな出会いが、新たな時代の風を生んで行く。 再び時を刻み始めた外史の先に何が待つのか───それは誰にも分からない。