大水計───古来より使われる最も単純かつ最も効果的な計略である。 河を堰き止め、敵が渡河するのを見計らい堰を切り濁流を流す───。 使用できる地形も状況も限られるが、上手く嵌れば最小の労力で敵に大損害を 与える事が出来る。 陳腐な策と言えばそれまでだ。 だが、陳腐と呼ばれるのはそれだけ効果的であり、良く使われるという事である。 現に───水計を受けた呉軍は大きな被害を受けていた。 川上から流れてきた濁流が渡河の途中だった兵士たちを次々と飲み込んで行き、 「た、助けてくれぇぇぇーー!」 「うわぁぁぁぁぁぁ!!」 あちこちから聞こえてくる悲鳴も、やがて濁流の中に飲み込まれていった。 「くっ…してやられた」 冥琳が悔しそうに唇を噛む。 (前方の蜀軍の動きに吊られて、行動を急ぎすぎたか…!) 思い返してみれば、蜀の部隊の動きが遅すぎることに疑問を持つべきだった。 敵軍を目の前にして、突然の陣換え。 渡河中なのに攻撃を仕掛けてこない訳。 こちらが油断して攻め急ぐための餌をたらし───雪蓮や冥琳を含む呉の将全てを 騙してのけたのだ。 「まさか、味方の全軍を餌にしてくるとはね…」 雪蓮が苦々しそうに言った。 劉備軍はこちらに上流にいる部隊を悟らせないため、全軍を使って囮を演じていた。 怒涛の勢いで迫り来る呉の軍勢を前にしてである。 むしろ驚嘆すべきはそれを考案した者と、それを可能にした将兵の錬度の高さだろう。 ───策士、諸葛亮孔明。 恐るべきはその知略である。 「損害はっ!?」 「孫策様が全軍の渡河と退避を急がせてくれた事もあり、主力部隊の損害は少なくて済みました。 しかし…渡河中だった輜重隊と予備兵たちが…」 「……そうか」 明命の報告に、蓮華が顔をしかめた。 主力部隊に損害が少なかった事は幸いだが、後曲の部隊が全滅したというのはかなりの痛手だ。 兵たちの動揺も大きい。今、攻められれば厳しい戦いとなるだろう。 「くっ…!やってくれる!」 「落ち着きなさい。主力部隊が無事ならどうとでもなるわ」 そう言うと、雪蓮は剣を抜いて号令を下す。 まずは部隊を立て直さなければならない。 「全軍の把握を急げ!その後、当初の予定通り方形陣を形成!」 『応!』 呉の兵がそれに答え、速やかに陣形を構築して行く。 その動きだけでも錬度の高さが伺える。 ───呉の精兵は、まだ戦える。 「さて、次はどんな手で来るのかしら?」 雪蓮は前方の劉備軍を睨む。 数の上では依然こちらが上だ。故に後一策か二策はあるだろう。 ───面白い。 雪蓮の顔には自然と笑みが浮かんでいた。 これこそ…自分の望んだ英雄同士の戦いだ。 雪蓮は密かに高揚しながら、戦いの始まりを待っていた。 同じ頃。 劉備軍では水計の策を終えた関羽が陣に戻ってきていた。 「お帰り愛紗ちゃん。ご苦労様でした」 「はっ。ただ…残念ながらあまり効果は上がらなかったようです……」 笑顔で労った劉備に、無念そうな顔で関羽が応える。 「それでも敵の輜重隊と予備隊を殲滅出来たのだ。あとは眼前にいる部隊を潰せば我らの勝ちさ」 趙雲がさらりと軽い調子で言った。 「簡単に言ってくれるがな…。数は依然、奴らの方が我らより多い」 後曲の予備隊を失ってもなお、敵の主力部隊はこちらより数が多いのだ。 相手の動揺があるとはいえ数の上での劣勢は挽回し難い。 「なら鈴々たちが頑張ればいいのだ!」 「そういうこった。じゃあ一人三千が目標な!そうすりゃ楽勝だって!」 「やれやれ…当家の猛将たちは、揃いも揃って計算が苦手と見える」 張り切る馬超と張飛の言葉に、趙雲が呆れたように言った。 だが、その顔には笑みが浮かんでいる。 「しかし悪くないな。……その計算に、私も乗るとしようか」 「バカがまた一人、なのだ〜♪でも、こういうノリが鈴々は大好きなのだ」 「あはは。それでこそ劉備軍だね♪」 劉備のその一言と共に、周りの皆の顔にも笑顔が浮かぶ。 ───この笑顔を守るために。 劉備たちは、そのために戦っている。 故に、ここで負ける訳にはいかなかった。 「じゃあ皆、一人三千ずつ倒しちゃって、孫策さんを追い払っちゃおう!」 『応!』 その劉備の号令と共に、劉備軍の前曲部隊が突撃を開始する。 目指すは未だ混乱の抜け切っていない孫策軍の横腹である。 「敵軍、突撃開始!兵が駆け下りてきます!」 「くっ…!部隊の掌握はどうなっている!」 「兵の動揺が思ったよりも激しく…態勢を整えるのにはまだ時間が掛かりそうです!」 「…ちっ!」 明命と思春の報告に、雪蓮は思わず苛立った様に舌打ちをした。 水計は何もその場の効果だけではない。このような地形を利用した大規模な策は 兵たちも動揺し易く、味方の死をまざまざと見せ付けられるだけあって、その立ち直りも遅い。 ───ここまで見事に策に嵌るとはね。 劉備軍…中々どうして、かなりの強敵である。 「敵軍の先鋒は?」 「旗は…関に張!」 「関羽に張飛…相手も本気ね!」 劉備軍の双璧自ら、こちらを叩き潰す気なのだ。 ならば───こちらもそれに相応しい歓迎をしなければならない。 「蓮華!ここはあなたに任せる!私と祭で関羽たちを止めるわ!」 「ね、姉様!?しかし…今、姉様がここを離れれば…!」 「それでもやるしかないわ。今、ここで総崩れになる訳にはいかないもの」 ましてや、相手は関羽に張飛だ。 思春や明命では些か荷が勝ちすぎる相手である。 故に─── 「良い?冥琳と協力してなるべく早く───」 そう言って、雪蓮が前線に行こうとした時、 「そ、孫策様!」 亞莎が慌ててこちらに駆け込んで来た。 「どうした!何かあったのか?」 怪訝な顔をして問う冥琳に、亞莎は必死に息を整えながら大声で言った。 「か、一刀様が!一刀様が恋さんと一緒に関羽の部隊の迎撃に!」 「なっ…!?」 その場に居た全員の顔色が変わる。 幾ら恋が一緒だとは言え、混乱している戦場に飛び出していくのは かなり危険だ。 「それを見た祭様も再編の終わった部隊を率いて…と、とにかく何とかしないと!」 「雪蓮!」 冥琳の言葉に、雪蓮は大きく頷く。 「全軍に告げる!我らが希望が時間を稼いでくれている!すぐに態勢を整え、我らも続けぇ!」 『応!!』 「無事で居てね、一刀……」 雪蓮は祈るように呟いた。 一刀の目の前で恋が槍を振るう。 その一振りごとに、敵兵の頚が飛び、胴が分かれ、腕が吹き飛ばされて行く。 ───天下無双。一騎当千。 母たちが恋の事を常々そう呼んでいたが、一刀は初めてその訳を知った。 「……怖くない?」 恋が槍を構えながら、いつもの調子で聞いて来る。 「ちょ、ちょっと怖いけど…でも、恋おねーさまが居てくれるから大丈夫!」 「そう…」 恋は強がって見せる一刀に笑みを返しながら、なおもその槍を振るう。 また敵の集団が吹き飛ばされ、血飛沫を上げた。 「恋が守る…一刀は、大事…」 恋が槍を構えなおし、敵の部隊に突撃して行く。 さしも劉備軍も恋とまともに当たろうとするのは分が悪いと見たのか、突出してきた恋を 囲い込み、包囲しようと動き出す。 「恋おねーさま!」 「大丈夫…」 その言葉通り、恋は包囲しようとする相手の囲みを、時に強引に、時に巧にかわしながら その代償としておびただしい犠牲を敵に払わせていた。 「す、すごい…」 一刀が思わずぽつりと呟いた。 まさに、一騎当千。 これこそ、天下に名高い飛将軍呂布の戦いだった。 「くそっ!化け物かこいつは!?」 「退けっ!これ以上は被害が増えるだけだ!」 その戦いぶりに恐れをなしたのか、劉備軍の兵たちが次々に後退して行く。 「今です!全軍、突撃ー!」 それを好機と見たのか、ねねが逆襲の号令を下した。 呉の兵たちは雄叫びを上げ、劉備軍の後背を追撃していった。 ───これで、一先ずは安心かな? 一刀が内心で胸を撫で下ろしたその時、 「呂布!覚悟!!」 退いた筈の敵軍から突出して来た一人の武将が居た。 「っ…!?」 恋の横あいから放たれたその一撃は、驚くべき事に受けた槍ごと恋の身体を数歩分後退させた。 速度が乗っていたせいもあるだろうが───それでもすさまじい膂力である。 「はああああああああ!!」 そして、すかさず連撃を打ち込む。 その速度も速く、恋は防戦一方になっていた。 「あ、あの人…、確か関羽さん…?」 そこで一刀が恋の相手の正体に気付く。 以前、剣を抜いた雪蓮に一歩も退けを取らなかった黒髪の女性───確か、関羽という名だった。 関羽と言えば、恋と並んで天下の勇将と謳われる武人だ。 ならば、あの戦いぶりも当然というものだ。 「……そ、そんなことより!恋おねーさまが!」 「……っ!」 「どうした!天下無双もその程度か!?」 じりじりと恋の受けに余裕がなくなってきているのが一刀にも分かる。 恋の事だから、負けはしないだろうが…このままではまずい。 だから、一刀は動く。 恋を助けるにはどうすればいいか。それを考えた上で最善を尽くすために。 「あ、あのぉ…!」 戦っている二人の間に割り込むことなど出来ない。 矢を射掛けてもきっと届かないし、届いたとしても当たるかどうか分からない。 故に─── 「く、黒髪のおねーさん!ぱんつズレてますよー!」 一刀は『声』を武器にした。 「……な、なっ!?」 一刀の声に気を取られた関羽が、顔を赤らめながら思わず自分の足元を見る。 それは、恋にとって十分な隙だ。 「……」 「し、しまった!?」 恋が神速の突きを撃ち込む。 関羽はそれを何とか受けたものの、態勢を崩しながら大きく間合いを開けた。 「くっ…!そそそそ、そこの子ども!ひ、卑怯だぞ!」 関羽が真っ赤になりながら一刀を指差して言った。 「え、えと…ごめんなさい」 「あ、いや…そ、その、強く言いすぎた。許せ…」 と、そこまで言って関羽ははっとして、 「わ、私は敵の子どもに何を言ってるんだ!ええい!落ち着け関雲長!」 ぶるぶると首を振った。 その様子を見て恋が不思議そうに首を傾げている。 「……変な人?」 「し、しつれいだよ恋おねーちゃん…」 「なっ!誰が変人だ!」 あまりと言えばあまりの変人呼ばわりに、関羽が抗議の声を上げた。 「はぁ…はぁ…お、落ち着け私!これは挑発だ!易々と乗るんじゃない!」 「あ、あの…大丈夫、ですか?」 「う、うるさい!敵に心配されるほど落ちぶれてはいない! 「はうっ…ご、ごめんなさい…」 「あ、いやそうではなくて!くっ…!きょ、趣がそれた!次に合った時はかならず決着をつけるからな!」 「……ばいばい」 相変わらず真っ赤な顔をして関羽が立ち去って行く。 「な、何か面白い人だね…」 「……うん」 撤退して行く関羽を見送りながら、恋と一刀はぽつりと感想を漏らした。 「何を戦の陣中で妙な納得しておるんじゃ。この阿呆どもめ」 恋と一刀が頷きあっていたところに、うしろからコツンと頭を叩かれる。 一刀が慌てて振り返ると、そこには祭が呆れ顔で腰に手を当てて立っていた。 どうやら恋が関羽とやりあってるのを見て、援護に駆けつけてくれたらしい。 「まったく…坊も恋も無茶しよってからに。帰ったら策殿と公謹にたっぷりと絞られるんじゃな」 「ふえ…さ、祭おねーさまぁ…」 「かかか、儂に助けを求めても無駄じゃぞ。…まあ、酒の一つも抱えてくれば聞いてやらんではないがの」 「きゅう…」 「大丈夫……恋も一緒」 落ち込む一刀の頭を恋が撫でる。 その時本隊の方向から雄叫びが響いて来た。 「ふむ…どうやら策殿の方も決着がついたようだな」 祭が前線を眺めながら言った。 見れば雪蓮率いる呉の軍勢が、劉備軍の前曲を食い破りその腸を食いちぎろうとしている。 あれならば遠からず決着が付くだろう。 「さて…お前らは後方で少し休んでおれ。儂はちょいと先鋒で暴れてくる♪」 と、祭が意気揚々と自分の部隊を反転させようと指示を出した時、 「も、申し上げます!」 息をきらせながら、伝令が駆け込んで来た。 その慌てようは尋常ではない。 「なんじゃ騒々しい。まさか曹操が攻めてきた!とでも言うのではあるまいな?」 祭が冗談めかしたように言うが、その言葉を聞いて伝令はゆっくりと頷いた。 「え…?」 「……まさか、本当か?」 「はい!ほ、北方より曹操軍が大挙して国境より侵入!ここより五十里の場所まで来ております!」 ───覇王、動く。 その報は歴史を動かす大河となり……新たな激動への始まりでもあった。 時は三国時代───ここに三国の英雄が一同に集う。 果たしてそれが何を意味するのか……それは誰にも分からない。