南征の隙を突いて攻めてきた呂布を降し、さらにその力を増強した雪蓮たち。 だが、休む間も無く次の戦の足音が歩み寄ってくる。 劉備、動く───。 兼ねてより徐州の下丕城を根拠地とする劉備が、ついに呉の国境線を脅かし始めたのだ。 まだ大きな戦にはなっていないが、国境付近の部隊に幾らかの小競り合いがあった。 劉備は、呉の地を狙っている。 その意図は明らかであり、また、雪蓮たちにとっては北方に進出するために 排除しなければならない障害でもある。 ここに両者の思惑は一致し───新たな戦の火蓋が、切って落とされようとしていた…。 「と、いう訳で。劉備もやる気満々の様だし、あとはちゃっちゃと攻め滅ぼすだけね」 雪蓮が玉座の間で宣言する。 「一応、これ以上挑発するなって使者を送ってみたけど…その返礼があれだもの。 ちゃんと大儀名分も出来たし♪」 雪蓮がニヤリと笑いながら言った。 数日前、雪蓮たちは劉備に対し、使者を出している。 これ以上、我ら呉を挑発するな。大人しく徐州に引っ込んでいろ───。 そうすれば滅ぼさずに置いてやる。 そんな口上を使者に預け、下丕城へと向かわせたのだ。 もちろん、交渉は決裂。 数日後…丸坊主、丸裸にされた使者が建業へと戻ってきた。 雪蓮はこれに激怒してみせ、対外的に劉備の非礼ぶりを厳しく批難。その礼として、 出陣して徐州を平らげると宣言した。 「…些か乱暴な策だったがな。だが、これで堂々と徐州を手に入れる事が出来るだろう」 下丕地方は経済、農業ともに発展している豊かな土地だ。 ここを手に入れれば、天下統一も現実味を帯びてくる。 「あとは……どれだけ時間を掛けずに殲滅出来るか、かな?」 「そうだな。手を拱いていては曹操に付け入る隙を与える事になる」 冥琳の言葉に、穏が困った顔で頷いた。 「北方の曹操さんの動き、最近は活発化してきてますからねぇ」 袁昭の勢力を河北より完全に駆逐した曹操は、その勢力を強めつつある。 先日の呉との戦い、そして袁昭との戦いの傷が癒えれば、必ずまた南征を行うであろう。 曹操が大陸中央に進軍するには、揚州を始めとした呉の勢力を抑えておかないと その後背を突かれる事になるのだから。 「そうだな、よって今回の方針は…こほっ…こほっ…」 と、冥琳が言葉の途中で激しく咳き込みだした。 雪蓮も驚いたように冥琳の顔を覗き込む。 「…冥琳?」 「けほっ…大丈夫だ。…少し風邪を引いたのかもしれん」 「そう…。なら良いけど、ちゃんと養生しなさいよ。もう若くないんだし」 「…私と同い年のあなたに言われたくないわ」 「……」 冥琳はいつもの様に軽く冗談で流す。 だが──雪蓮は不服そうに冥琳から目を離さない。 「…そんなに心配そうな顔をするな。私とて、こんなところで倒れるつもりはない」 冥琳は苦笑しながら笑う。 「なら良いけどね…」 はぁ、と。雪蓮は珍しく溜息をついて、居並ぶ将に命令を下す。 「それじゃ、各自出陣準備をお願いね。明日には出陣するから、そのつもりで」 『御意!』 雪蓮の声に力強く頷いた仲間たちが、三々五々持ち場へ向かっていた。 「一刀、ちょっといいかしら?」 「ほえ?」 軍議が終わり、皆が持ち場へと立ち去った後───雪蓮は傍らに居た一刀を呼び寄せた。 「なぁに母様?」 「ねぇ…冥琳の様子、おかしくなかったかしら?」 「ふえ?そーいえば…」 一刀は冥琳が軍議の途中で咳き込んでいた事を思い出す。 本人はただの風邪だと言っていたが……。 「お風邪引いてるのに…冥琳おねーさま、大変だよね…」 「本当にただの風邪なら…ね」 雪蓮は、珍しく不安そうな顔で天を仰ぐ。 「だから一刀…頼みがあるの?」 「う、うん…」 雪蓮は誰にも聞こえないように、そっと一刀に耳打ちをした。 それから暫く後───。 「……」 冥琳は夕暮れの川辺で一人佇んでいた。 その傍らには先代孫堅の墓がある。 「…文台様。ついに、ここまで来ました…」 ぽつりと呟く冥琳の腕には、薄紅色の花があった。 「ここにくるのも久しぶりになりますね…。雪蓮も蓮華様も…皆、元気でやってますよ?」 微笑みながら、冥琳は慈しむように墓に語りかける。 「私が初めてあなたに会った時───今でも鮮明に思い出せますよ」 ゆっくりと。冥琳は目を閉じる。 三人で共に過ごした日々。 戦場の思い出。 そして───孫堅が死んだ日の事を。 その全てを冥琳は思い出していた。 「あなたが目指した呉の悲願……それが今、現実に見えるところまで来ています」 皆で笑い合い、仲良く暮らせる平和な時代を造る。 孫堅自身、いつも夢物語と笑っていたそれが…今目の前に、手の届くところまで来ている。 「どうか…見守って下さい。あなたの遺した大切なご息女を…その手が掴む未来を、げふっ…!」 冥琳は口を押さえ、蹲る。 咳を抑えたその手には───べっとりと、血が吐いていた。 それを見て、冥琳は苦笑する。 ……どうやら、もう長くはないな。 自分の身体が病に冒されていると知ったのは、もう二月も前の事だ。 医者の診断によれば、病魔の名は労咳───この時代において、それは死の宣告と同じだった。 しかし……だからこそ、冥琳はその命を呉のために尽くす覚悟が出来た。 そのために、自分は居るのだから。 「……私も、もうすぐそちらに行きます。その時は───」 冥琳がそう言い掛けた時、 「冥琳…おねーさま?」 後ろから、小さな影が声を掛けてきた。 「…一刀!?…どうしてここに?」 冥琳は慌てて血に濡れた手をハンカチで拭いて隠す。 これは───絶対に見られてはいけない。 「お城の人に聞いたら、冥琳おねーさまがこっちの方に来てるって…来ちゃダメだった?」 「いや、そうではないが…。一人で来たのか?」 冥琳は窘めるように言った。 幾ら戦況が変わってここも安全になったとはいえ、やはり幼い一刀が一人でこのような場所に来るのは 危険な事には変わりはない。 「あ、それは大丈夫。恋おねーさまに付いてきてもらったんだ」 一刀がそう言うと、恋が遅れてゆっくりと茂みから現れる。 「……」 こくん、と。恋は冥琳に軽く会釈をすると、一刀の後ろに静かに立った。 呉に下った呂布───真名を恋という───は、客将として呉の傘下に迎えられた。 そして、その任務は主に天の御遣いである一刀の護衛である。 これには思春などが猛反発したが、雪蓮の鶴の一声と一刀の『お願い』によって一応の解決を見た。 「……恋、一刀を守るのが…お仕事」 どうやら本人も気に入っているらしく、一刀もそんな恋と仲がいい。 「そうか…。ふふっ、一騎当千と呼ばれるお前が付いているなら安心だろう」 冥琳はおかしそうに笑うと、一刀の頭をくしゃくしゃと撫でた。 「で?お前は何故、私を追ってきたのだ?」 「え、えーっと…あ、あの…きょ、今日は良い天気、だよね!」 「そうだな。もっとも、もう夕暮れだが」 「は、はう!?」 冥琳の冷静な突っ込みに、一刀は露骨に動揺する。 「じゃ、じゃあ…きょ、今日も綺麗だよね!」 「……はぁ。大方、雪蓮あたりに様子を見て来いと言われたんだろう?」 「ぎくっ!」 「図星、か。まったく…子どもをダシにするとは、何をやっているのか」 そう言って、冥琳は呆れた様に溜息を吐いた。 「ごめんなさい…」 「お前が謝る事はない。それに…二人とも心配して来てくれたんだろう?」 「…うん。冥琳おねーさま、お風邪をい引いてるって言ってたから…僕、心配で…」 一刀がじっと冥琳の瞳を見つめてくる。 その真っ直ぐな目を見て、冥琳は優しく笑いながら一刀を抱きしめた。 安心させるように、背中をぽんぽんと叩く。 「…大丈夫。本当にただの風邪よ」 「ほんと?」 「ああ。私がお前に嘘を付いたことがあったか?」 「…ううん。ない」 「だろう?…私を信じてくれるか?」 「うん…」 一刀はゆっくりと冥琳から離れ、小指を突き出す。 「これは…?」 「約束。このせんそうが終わったら、ちゃんとお風邪を治すって」 冥琳がちゃんと風邪を治してくれるように───。 それは一刀の願いを込めた、小さな約束。 「…ああ。約束しよう」 そう言って冥琳は一刀の小さな手に小指を絡ませた。 指きり。 それは契約と約束の、儀式。 ───しかし、それは守られる事のない、悲しい約束。 だが冥琳は何も言わず、優しく笑っていた。 「疲れて寝てしまったか…。すまんな、抱かせてしまって」 孫堅の墓参りからの帰り道。 冥琳と、一刀を背負った恋が並んで歩く。 日はもうすでに落ち、城の前まで来た時にはすでに夜になっていた。 「…大丈夫。一刀、軽い」 「そうか。流石は天下の呂布と言ったところだな」 「……」 こくんと頷いて、恋は一刀に顔を近づける。 「…良い子」 そう言って、恋は一刀の髪を優しく撫でた。 「ああ。良く出来た子だよ。本当に……出来すぎているぐらいに」 「……」 冥琳はそう言うと俯いて。 「きっと私がただの風邪などではないと分かっているのだろうな…」 一刀は───聡い。 きっと本能的に冥琳が嘘を付いていると分かっている。 だからこそ、ただの風邪だと言っているのに指きりなどしたのだろう。 冥琳は雪蓮と同じく一刀の母親代わりをしてきたと自負している。 故に……一刀の考えている事も良く分かっているつもりだ。 「恋…このことは誰にも言わないでくれ」 「……」 冥琳の言葉に、恋はコクリと頷いて答える。 「でも……約束は破っちゃダメ。…一刀が、悲しむから…」 「そうだな…」 冥琳は、天を見上げる。 そこには、一面に広がる銀河があった。 翌日───呉軍は徐州へと出陣する。 孫策と劉備……二人の英傑の衝突に、誰もが激戦を予想せずにはいられなかった。 「関羽、張飛、超雲…その他もろもろ。よくもまあここまで揃えたものね」 雪蓮は劉備軍の武将を指を折って数えて行く。 今は徐州へと進軍する道中───もう少しで、河に差し掛かろうとしているところである。 「兵は少ないが将は豊富…か。果たしてそれが数の不利を覆せるほどの要員になるかだな」 「問題ないない♪私たちにも人材は豊富に居るもの。どの子も負けてなんかいないわ」 「ふっ…そうだな」 冥琳が苦笑しながらも同意する。 確かに、人材の豊富さで言えば今の呉軍とて負けてはいない。 雪蓮を初め、祭や冥琳、それに蓮華に思春や明命が居る。 穏や亞莎と言った後継も十分に育ってきている。 そして───新しく呉の将となった呂布。 これだけ揃えれば、この大陸にいるどの勢力とでも十分に戦えるであろう。 「さて…あとは劉備がどう動くかだけど…」 雪蓮が前方を睨みながら目を細めて思案していると、 「斥候より報告です!劉旗を掲げた軍団が、川向こうに集結しているようです!」 前曲の指揮をしていた明命が報告して来た。 どうやら劉備軍は河を挟んでこちらを迎え撃つらしい。 「来たか…。各部隊、臨戦態勢を執れ!このまま前進して渡河し、劉備を一気に踏み潰すぞ!」 冥琳の号令以下、兵たちが動き出す。 「相手の動きは?」 「各部隊を動かし、陣形を整えてるようです!」 「好機ね。全軍!渡河開始!」 「「「応っ!!」」」 雪蓮の号令の下、兵士達が次々と渡河を開始する。 水深は腰より少し下程度。 流れは速い。 「渡河の速度を落とさないで下さい!渡りきったあとは方形陣を組みます!」 「騎馬隊!川上を進んで川下の兵の動きを助けてやれぃ!」 亞莎と祭の命令が飛び、順調に渡河は進んで行く。 そう───順調すぎるほどに。 「……変ね」 雪蓮が怪訝な顔をしながら言った。 「ふえ?どうしたの?」 「ねえ一刀…あなたが劉備なら、私たちは今どう映る?」 「へ?えーっと…」 突然の問いに一刀は考え込む。 自分達は今、渡河に精一杯だ。当然である。水深も浅いとは言えず、流れも速い河を渡るのだ。 それ以外に注力する余裕はない。 「…あ」 そこまで考えて、一刀はある事に気付く。 「な、何で劉備さんたち…攻撃してこないの?」 そう。呉の部隊は今、完全に無防備と言ってよい状態なのだ。 ただでさえ兵力差のある劉備たちがこの好機を逃す手は無い。 本来なら矢を射掛け、こちらを潰すべきなのだ。 「冥琳!相手の動きは?」 「以前、陣変えをしてるな…。待て、この状況で陣変えだと!?」 冥琳も同じ結論に到ったのか、その顔色を変えた。 「興覇!劉備の軍勢に上がっている旗を確認しろ!」 「旗…ですか?少々お待ちを」 思春は目を細めて劉備の軍がいる小高い丘を注視する。 「劉旗の他には…張、馬、趙…それに諸葛と鳳です」 「関羽の旗はっ!?」 「有りません。……無い、だと!?」 そこで初めて思春も気付く。 自分達が策に嵌められつつある事に。 「全軍駆け足!向こう岸まで駆け抜けろ!時間の掛かりそうなものはこちらに戻れ!」 雪蓮の号令に、兵たちが戸惑いながらも従って行く。 「やられたっ…!大水計か!」 冥琳が指示を飛ばしながら悔しそうに唇を噛む。 ───油断していた。相手が寡兵である場合、奇策を警戒するのが最も重要だというのに! 「……くる」 一刀の横に居る恋が、川上を見て言った。 「全軍退避!」 雪蓮の号令が濁流の音にかき消され、大地を震わせる。 大水計───後世において、諸葛亮孔明の最も得意とした策に 呉軍は今陥っていた。 時は三国時代───英雄同士のぶつかり合いは苛烈を極めて行く。 その先に立つ勝者はどちらか……それは終わってみなければ分からなかった。