一刀が、血を流している───。 肩に深く刺さった矢は、幼い一刀の肩を貫き横たわる大地を鮮血に染めていた。 「……」 一刀は何も言わない。 矢で射抜かれたのだ。普通であれば、大の男でものたうち回り悲鳴を上げる激痛のはず。 だが、一刀はうめき声すらあげない。 それはつまり─── 「……う、そ…よね?」 雪蓮の中で最悪の結果が思考を過ったその時。 ───頭の中で、何かが弾けた。 「貴様らあああああああああ!!」 雪蓮は腰の剣を抜き放ち、矢が飛んできた方向へと駆ける。 「ひ、ひっ…!」 矢を構えた数人の兵が茂みから姿を現し、脱兎の如く逃げ出す。 だが───それは自殺行為に他ならなかった。 「あああああああああ!!」 雪蓮は一足飛びで一番近くに居た兵に飛び掛り、その無防備な背中に剣を振り下ろす。 見事に背中を真っ二つに割られたその兵は、断末魔の悲鳴を上げながら崩れ落ちた。 ───次っ! 雪蓮は血走った目で次の獲物を探す。 次に哀れな犠牲者となったのは、果敢にもこちらに矢を放ってきた二人の兵士だ。 雪蓮はそれを剣で叩き落し、一気に間合い詰める。 「……死ね」 その一言と共に、雪蓮から放たれた剣の一閃が矢を番えた男達の首を跳ね飛ばした。 噴出した鮮血が雪蓮の身体を染める。 ───次は!? 視界の先に馬にのって逃げて行く兵が見えた。 かなりの間合いが開いてしまっている。剣では追いつかない距離だ。 刹那にその判断を下すと、雪蓮は先ほど屠った兵の弓を拾い上げ、矢を番える。 「……死ね!」 狙いをつけるのも一瞬。放つのも一瞬。 矢は正確に飛翔し──馬上に居た兵の首を跳ね飛ばす。 ───次は!次はどいつ!?一刀を傷つけた奴らはどこにいる!? 辺りを注意深く探すが、何の気配を感じない。 どうやら先ほど殺した兵が最後の一人であったらしい。 「……一刀!」 警戒を解いた雪蓮は一刀に駆け寄り、抱き起こす。 「一刀…一刀ぉ!返事をして!ねえ…お願いだから!」 矢は未だ肩に深く刺さっており、そこからは赤い血が流れ出している。 ───これは、まずい。 雪蓮の中の冷静な部分が警告を鳴らす。 急所は外れているが、出血が多い。このままでは───遠からず幼い命は消えてしまうだろう。 「待ってて…!今止血するから!」 雪蓮は自分の衣を破いて、包帯の様に一刀の腕に巻きつける。 矢は抜ず、その上から布を巻きつける。戦場で覚えた応急処置の方法だが、 「血が…血が止まらない…!」 恐らく血の流れる場所を傷つけてしまっているのだ。 外から縛ったぐらいでは、押さえきれない。 このままでは……助からない。 「雪蓮!緊急事態だ!魏の軍勢が…!?」 そこに冥琳が城から駆けつけて来た。余程急いで来たのだろう。 前髪が汗で額に貼り付いていた。 「冥琳!一刀が…一刀が…!」 「落ち着け!…何があったのだ?」 雪蓮は冥琳に状況を説明した。 刺客に襲われた事、そして一刀が矢で撃たれた事───。 「…刺客を使うとはな。曹操め…!」 冥琳が怒りを堪えるように唇を噛みしめる。 「……曹操が、国境を越えて我が国に侵入した。すでにこの城の近くまで迫っている」 「…なんですって?伝令は何をしていたの!?」 「全て捕殺されてしまったらしい。…一人の勇敢な兵が命を賭して状況を伝えてくれたわ」 「っ…!」 「雪蓮……。行ってくれ。お前が居なければ我々はここで滅ぶ」 「……」 冥琳の言葉を受けた雪蓮の頭から血が引いていく。 深く、深く深呼吸───。沸騰していた頭が冷静になり、思考が戻ってくる。 自分は───王だ。 目を閉じ、一度だけ自分に言い聞かせる。 他国の侵略に立ち向かわない王に王たる資格はない。 孫家の人間は常に戦場に立ち、兵たちの先頭を走る。 その勇敢さがあるからこそ───皆、力を貸してくれるのだから。 今、この時に自分が立たなければ……それが全て無駄になる。 故に───雪蓮は戦場に向かわなければならない。 それが王たる自分の義務なのだから。 雪蓮は目を開け、戦場に向かって歩き出す。 「…冥琳。一刀のこと、お願いね」 傷ついた愛しい我が子を……例え見捨てる事になったとしても。 果たさなければならない義務が、雪蓮にはあった。 「頼む。……だが、雪蓮」 ───助からないかもしれない。 冥琳は言外にそう言っている。 だが、雪蓮の背中はそれを聞いても揺るがない。 「…分かってる。それでも、お願い」 「ああ。…全力を尽くそう」 冥琳は一刀を抱いて立ち上がる。 その身体はまだ温かい。それは、一刀がまだ確かに生きている証拠だった。 「ふふっ…いよいよ英雄孫策との決戦。胸が高鳴るわね……」 曹操が戦場を眺めながら不敵に笑う。 魏軍は呉の本城より2里の位置に陣を敷き、包囲の体勢を整えつつある。 ───準備は整った。あとは戦端を開くだけである。 「新兵ばかりの前曲部隊がどれだけもつかは多少気になるところではありますねー」 のんびりとした口調で傍らに立つ程cが言った。 呉の部隊は英雄孫策に率いられた精兵である。まともにぶつかればひとたまりの無いだろう。 それに─── 「一部の部隊が抜け駆けの気配も見せていますからね。気をつけなければ……」 少し後ろで戦場を観察していた荀ケが呟く。 「呉郡より許昌に流れ着いた一団です。なんでも許貢という人間に仕えていたらしいですが…」 あの夏候惇でも手に負えず困っている部隊で、ならず者が多く、規律も低い。 軍師の荀ケとしても頭の痛い問題であった。 「英雄との戦いを無粋な愚人に邪魔されたくないわね…。その部隊に監視をつけておきなさい」 「御意」 「よろしく。しかし…相手の動きが鈍いわね」 曹操は訝しげに前線を睨む。 見立て通りであれば、もうお互いの部隊が対峙している頃だ。 だが、相手はまだ城に篭ったまま出てこない。 「気になるわね。……それとも、私の見込み違いだったのかしら?」 孫策の英雄と呼ばれるほどの人物である。曹操としては、余り幻滅させて欲しくはない。 ───敵が強大であればあるほど、この曹孟徳の覇道は彩られる。 堂々と、そして鮮やかに撃破してこその覇道であろう。 曹操はまた前線を睨む。 「天はどちらを選ぶか……さあ、出てきなさい孫策」 戦場を見れば、漸く敵の前衛部隊が展開されている。 どちらが覇者となるか───それは誰にも分からない。 雪蓮はゆっくりと城門の外へ出る。 目の前に居並ぶは呉の勇敢な兵たちだ。 「お姉様っ!一刀が…一刀が撃たれたというのは本当ですか!?」 「大丈夫よ蓮華。傷は浅いし…それに、あの子は強いもの」 ───心にも無い事を! 雪蓮は顔に笑顔を浮かべながら、心中で吐き捨てる。 本当なら、今でも一刀の元に駆けつけてやりたいぐらいなのに。 だが……それは出来ない。 そして、蓮華にも不安な顔を見せる訳にはいかない。 何故なら、雪蓮は王なのだから。 「……本当、ですよね?」 蓮華が何かを堪えるように問いかけてくる。 ───聡い蓮華の事だ。雪蓮の嘘を……見抜いてしまったのだろう。 「……大丈夫よ。さあ、部隊にお戻りなさい」 「はい…」 それ以上蓮華は何も聞いてこなかった。背中を向けて、自分の部隊へと戻っていく。 それを見送りながら雪蓮は前に進む。 「…雪蓮」 その傍らに、一刀を抱きかかえた冥琳が立つ。 肩の矢は抜かれて包帯が巻かれているが───その顔は、青い。 今も荒い息をついて冥琳の腕の中で苦しそうに眠っている。 「……来てくれたんだ」 「ああ。雪蓮の横が良い───ずっとそう言って聞かなくてな」 「そっか…」 そう言って、雪蓮は一刀の頭を撫でる。 慈しむ様に、微笑みながら。 「……どのくらい、保ちそう?」 「医者の話では……もう…」 「……っ!!!」 雪蓮は叫び出しそうになるのを、理性を総動員して懸命に堪えた。 ───今は、振り向くな! 雪蓮は必死で自分に言い聞かせる。 部下が、兵が、民が見ている。王として振舞え。それが自分の役目だ! 「……一刀。母様、行って来るね」 もう一度、笑顔で一刀を抱きしめる。 「かあ、さま…?」 「うん。母様はちゃんとここに帰ってくるから…だから、良い子にしてるのよ?」 抱きしめた腕から、一刀の体温が伝わる。 それは生きている証。 「……っ」 雪蓮はその温もりを噛みしめながら、また歩き出す。 そしてついに部隊の最前線に出た。 目の前には魏の軍勢が並び、こちらを睨んでいる。 どうやらこちらの意図を察し、舌戦を待っているようだ。 雪蓮は腰の剣を抜く。 王の証───南海覇王の剣が、光を反射し鈍く光る。 「見ていてね、一刀…」 ───あなたが母と呼んでくれた私の背中を。 そして雪蓮は叫ぶ。 天まで届けと。 死に行くわが子に届けと。 「孫呉の兵よ!我が朋友たちよ!」 最初はただの子どもだった。 「我らはこの父祖の代より受け継いできたこの大地を、袁術の手より取り戻した!!」 母と呼ばれた時は、戸惑うばかりだった。 「だが愚かにもこの地を欲し、無法にも大軍を持って押し寄せてきた敵が居る!」 ───だが、不思議と悪い気はしなかった。 「敵は卑怯にも我が身を消し去らんと刺客を放ち、我が子を…愛しい幼子をその凶刃にかけたのだ!」 抱きしめた時の温もりを。 「卑劣な罠に犯され…我が子の身は…その凶刃によって滅ぶしかないだろう!だが!」 母様と甘えてくるあの愛しい姿を。 「国を愛し、民を愛した我が子……一刀の魂魄は、我らと共にあらん!」 日向に咲いた向日葵の様に笑う姿を。 「呉の将兵よ!愛すべき者達よ!」 眠っている時の、天使のような姿を。 「愛しき民よ!愛すべき仲間たちよ!」 愛しい我が子の───温もりを。 その全てを覚えている。 「孫伯符…。ここに我が子に───天に代わり、大号令を発す!」 愛していた。例え本当の親子ではなくても。 「天に向かって叫べ!心の奥底より叫べ!己の誇りを胸に叫べ!」 一刀を───愛しい我が子を。 「我らが希望を!天より遣わされた愛しき我が子を!その未来を奪った者たちへ思い知らせてやるのだ!」 その言葉と共に。 呉の将兵全てが大地を揺るがす雄叫びを上げた。 「どういう事だ!誰が孫策を暗殺せよと命じた!」 曹操の怒号が魏の陣内に響く。 「わ、我らがそのようなことを、するはずがありません!」 夏候惇が狼狽した様に否定した。 「ならば何故だ!何故このような事が起こる!?」 曹操の問いに、誰も答えることが出来ず押し黙る。 その時、事情を調査していた荀ケと郭嘉が駆けつけて来た。 「事情が判明しました!許貢の残党で構成された一団が、孫策の暗殺を謀った様です!」 「し、しかも…その者たちは仕損じた様で…。傍らに居た子どもを…」 「……待て。確か孫策の傍らには、常に天の御遣いとか言う子供が居るというが…。……まさか!」 夏候淵の発言に、曹操も含めた魏の将全てが青ざめた。 「これは…まずい事になりましたねぇ」 程cがぽつりと呟く。 天の御遣い───真偽はどうあれ、その言葉が持つ意味は大きい。 天とは神であり、天が支配者を選ぶ。 大陸で天というものの存在を信じていないものなど、一人も居ないと言って良い。 その天より遣わされし存在を殺してしまった───。 それは天に対し弓を引くことに他ならない。 しかも、相手はまだ幼き子どもだという。 “曹操は天命と常日頃言いながら卑怯にも敵将を暗殺しようとし、失敗した挙句───天に対して唾を吐いた” そんな噂が広まれば致命傷になりかねない。 風評とは金や人を集めるための最大の武器だ。故に曹操たちはその危険性を熟知していた。 風評一つで国が滅ぶ。 それは実際に起こり得るのだ。 「……その者ども、全ての首を刎ねよ!」 「えっ!?」 曹操の余りに苛烈な命令に、荀ケが驚く。 「知勇の全てを懸ける英雄同士の聖戦を、無粋な下衆に汚された怒りが分からないのか! …もう一度命ずる!その者どもの首を即刻刎ねよ!」 「ぎょ、御意!」 「…春蘭!」 「は、はっ!」 呼ばれた夏候惇は、戸惑いながらも曹操の前に跪いた。 「呉に弔問の使者を出せ!我らは一度引く!」 「し、しかし華琳様!この状況で退却すれば、尋常ならざる被害を受けるのは必至!」 相手は怒りに猛り狂っている。 無理に退いて背中を見せれば、瞬く間に食いつぶされるだろう。 夏候淵が言うまでも無く、普段の曹操であれば十分理解しているはずだが、 「ならば戦えというのか!?」 曹操は激昂しながら叫ぶ。 「下衆に汚されたこの戦いに何の意味がある!どのような意義はある!?」 「そ、それは…」 「もはや大義も失った!軍を退かなければ私は───!」 曹操がそこまで言いかけた時……そこで前線から怒号が響いてきた。 「駄目です!敵軍突撃を開始しました!」 「くっ…!なんだこれは!誰がこのような戦いを望んでいるというのだ!…本陣を後退させる! 無駄な戦いや追撃はするな!穢されたこの戦い…せめて無事に収拾せよ!」 曹操は怒りと悔しさで唇を噛みしめる。 ───天は何故こうも無粋な真似をするのか!? その問いに答えてくれるものは、誰もいなかった。 時は三国時代───誰も望まない戦いの幕が上がる。 その先に何があるのか……それは誰にも分からない。