袁術を打倒し、ついに呉の王となった雪蓮たちは、その余勢をかって揚州全域の制圧に成功した。 もっとも英雄王と讃えられる孫策の名は大陸全域に響いている。 実際、揚州の民も皆諸手を挙げて迎えたぐらいだ。 しかし雪蓮たちがこうして力を付けている間にも、同じく他の諸侯も力を付けている。 さらに巨大化した北の曹操。 着々とその力を溜め込み、天下を狙う南西の劉備。 天下はまさに風雲を告げ、大きく乱れようとしていた。 「───と、いう訳で。揚州全域の石高、及び生産高や人工についてのご報告でしたぁ」 穏ののんびりとした声が玉座の間に響く。 「ご苦労様。洛陽からくすねてきた台帳が役に立ってるわね」 玉座に座る雪蓮が、穏を労った。 台帳は国の宝である。漢王朝が各地から税を取り立てるために集めた情報は、統治を進めるためには 非常に有用なものだ。 何故なら、正確な情報は政治に欠かせないものだからだ。 どこにどれ位の人間が居て、何がどのくらい採れるのか───。 それを把握していれば、政治は格段にやりやすくなる。 「これを手に入れただけでも、反董卓連合なんて茶番に参加した甲斐があったというもの」 書簡を眺めながら冥琳が言った。 「他国の情報も乗っているからな。戦略を決める上でもやりやすくて済む」 「よっ!流石は名軍師!」 雪蓮がふざけ半分に褒める。 この台帳を手に入れたのは冥琳の手柄だ。 雪蓮としては、素直に褒めたつもりなのだが、 「ふざけたこと言わないの。ここから先は諸侯との勝ち抜き戦よ。……あなたの采配如何で 呉の将来が決まるんだからね」 冥琳は戒めるように言った。 現在、大陸は大まかに三つの勢力に分けられると言えるだろう。 一つは北の巨人、曹操。 金、人、物───全てを集め力を付けた覇王は、この呉の大地を狙って南下してくる可能性が高い。 呉にとっては最も警戒すべき相手であり…そして最も戦いたくない強敵でもある。 次に劉備が居る。 曹操ほどの力はないものの、その統治能力の高さと人材の豊富さは侮れない。 公孫賛などの諸侯も次々に劉備の元に集まっている。 こちらは同盟という建前がある以上、弱みを見せなければ仕掛けてくる事はないと予想しているが───。 この乱世である。明日にでもそれが反故にされる事もあり得る。 「だからこそ、我々は力をつけなければならん…。頼むぞ、雪蓮」 「重々承知してるわよ。…じゃ、今月の内政担当を決めましょうか」 そう言って雪蓮は次々に指示を下して行く。 現在の最優先目標は富国強兵───まず国を強く、豊かにすることだ。そしてそのためには軍備の拡張と 税収の増加───つまり増税が必要になる。 当然、そうすれば民からの不満が上がるだろう。ただでさえ袁術による圧政から開放された直後だ。 ここで税を重くすれば下手を打つと、折角手に入れた国が内部から崩壊しかねない。 「両者を天秤に掛け、均衡を保ちながらそれを達成しなければなりませんからねぇ」 流石の穏も厳しい顔をして唸る。 国を治める以上、避けては通れない問題ではあるが……実際にやる立場になると頭が痛い。 「だが、やらなければならない。そうしないと我々が歴史の敗者として名を連ねる事になる」 「ですねぇ。ここが私たち文官の腕の見せ所ですよ♪」 戦場が武官の活躍の場なら、内政こそが文官の腕の見せどころである。 だからこそ、多少の弱音は吐きながらも歩みを止める訳には行かなかった。 「さて、これで大体の議題は…」 と言って雪蓮が朝議を終わろうとした時、 「そういえば…あの件はどうするのだ?」 思い出した様に冥琳が言った。 「一刀の事だ。…正式に養子にするんだろう?」 「うーん…。まあ、そうしたいんだけどね?」 雪蓮は玉座に座りなおして、顎に手を当てて考え込む。 一刀を正式な養子───つまり孫家の末席に加えたい。 それはかねてよりの雪蓮の願いでもあった。 養子扱いではあるが、こうすれば孫家に天の御遣いの血を入れること出来るし、 何より自分を母様と慕う一刀に家族を与えてやりたい───。 それが雪蓮の偽りない気持ちである。 「何を迷う必要がある。坊とて喜ぶじゃろうて」 「そうですよ姉様。…何か問題でも?」 祭と蓮華が後押ししてくれるが、雪蓮は未だに顔を上げない。 そんな王の姿を見て、冥琳が呆れた様にため息をついた。 「…まだ、迷っているのか?」 「……当たり前でしょ。一刀にとって、私たちにとって本当に良い事なのか…。簡単に決めて良い問題じゃないわ」 雪蓮は嘆くように呟く。 当たり前だが、一刀は雪蓮が腹を痛めて産んだ子ではない。 天の御遣いとは言うが、悪く言えばただの捨て子を拾った───そう言われる可能性も無くはない。 もちろん、そんな事を堂々と言い放つ命知らずなど、この呉には存在しないが… それでも、陰口というものはどうしても付いて回る。 噂など幾らでも潰す事は出来る。 だが……もしも本人がそれを意識した時、今までどおりの関係でいられるかどうか。 雪蓮には───それが怖かった。 「……はぁ〜〜〜〜」 「まったく…何を悩んでらっしゃるかと思えば」 「な、何よぉ!大事な事でしょ!?」 雪蓮の目の前で盛大にため息を付いた祭と蓮華に、抗議の声を上げる。 「姉様は考え過ぎです。一刀が…あの子がそんな些細な事を気にするものですか」 「な、なによぉ…何で分かるのよ?」 「簡単じゃよ。坊は策殿を…いや、この国の人間を好いておるからな」 祭の言葉にも、雪蓮は今一納得出来ないという様に口を尖らせる。 「そ、それは分かってるわよ。でも…」 「それにな。坊は中々皆に慕われておるようじゃぞ?」 祭はまるで自分の事のように自慢気に笑い、 「常に策殿の横で戦場に立ち、あの飛将軍呂布に堂々と立ち向い。気取ることも無く、 明るく屈託のない笑顔を向ける。……兵たちも街の皆も、そんな坊が好きだと言っていた」 「……」 「あ奴はな…もう自分で人の環を作れるようになっておる。策殿が心配してるような事にはならんじゃろうて」 それに、と。祭はそこで一拍置いて。 「あ奴がグレたら儂が叩き直してやるわい!かかかっ!」 「と、言う事ですよ姉様。…大丈夫です。一刀なら分かってくれますわ」 「……まさか蓮華に諭されるとはね。あーあ、悩んだ分損しちゃった」 そう言うと、雪蓮は勢い良く立ち上がる。 その顔は先ほどまでと違い、晴々としていた。 「決めたわ。……一刀に話してくる」 そうと決めたら、雪蓮の行動は早い。 玉座を立つとまるで走る様に。雪蓮は玉座の間を後にした。 「まったく…行動だけは早いな。我らが王は」 「なぁに、それが策殿の魅力じゃよ」 「一刀が正式に養子になれば…わ、私は叔母になるわね。き、禁断の恋…」 「んふふ〜♪ますますにぎやかになりそうですねぇ〜♪」 それを部下の将たちが暖かく見送る。 誰もがさらなる幸せな未来を予感し、そして…つかの間の平和を実感していた。 一方───そんな呉の大地より北に位置する洛陽で、覇王が静かに牙を剥く。 「華琳様。出陣準備、整いました」 眼鏡を掛けた理知的な女性───郭嘉が曹操に告げる。 ここは魏の玉座の間…今、覇王曹操の牙が呉に向けられようとしていた。 「ご苦労様。では一刻後に出陣しましょう」 「御意。…」 郭嘉の不満そうな顔を見て、曹操は不敵に笑った。 「……まだ不満があるようね稟」 「はっ。今この時期に孫策と戦を構える意味が私には理解しかねます」 自分の主を前にして、郭嘉は堂々と言ってのける。 未だ北方の袁昭はその勢力を伸ばし続けている。今は軍備を増強に専念し、 力を溜め込む時機ではないのか───。 郭嘉は言外にそう言っているのだ。 「そうね。確かに袁昭は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長している。でもね…」 ───所詮は袁昭。後に回しても大過はない。 「でも、孫策は違う」 袁術を追い出した後、瞬く間に揚州を制圧し、軍備を整えている。 それは袁昭以上に脅威になる───それが曹操の読みであった。 「華琳様にそういうお考えがあるのならば私は何も申しません。しかし…」 「何?まだ懸念があるとでも?」 未だ懸念の晴れない郭嘉に、華琳は訝しげに問いかける。 「はっ……それが、どうも軍の中に質の悪い兵が紛れ込んでいるようです」 「質の悪い兵、ねぇ…」 それはある意味では致し方のない事と言えた。 魏は曹操の号令の下、富国強兵政策を取っている。それは国や軍を強くする一方で、 “毒”も呼び込む事となる。 「夏候敦、夏候淵両将軍による訓練によって、正規兵としての訓練、及び華琳様に仕える兵としての 誇りを教え込んで来ましたが…」 手が足りない、と。郭嘉はため息を吐く。 「…なるほどね。ならばこそ実戦で訓練をしましょう。生き残った兵は良い兵になってくれるでしょう」 相手はあの英雄孫策率いる精兵だ。 相当の犠牲が出るだろうが───その分、生き残ったものは良い兵となる。 まさに格好の『訓練』である。 「…御意。では一刻後に」 華琳の意図を察したのか、郭嘉は何も言わず下がる。 「人はただの駒。生き残った駒こそ、覇業を成すための力となる、か…」 郭嘉が出て行き、今や一人になった玉座に座りながら曹操は呟く。 「欺瞞ね、華琳…」 そう言って俯く曹操の姿は……覇王と呼ばれるその名に似合わず、小さく見えた。 「〜〜〜♪」 一刀は鼻歌を歌いながら、雪蓮と並んで森の中を歩く。繋いだ手をブラブラと振りながら、 時々雪蓮の方を見上げてはニコニコと笑顔を向けている。 「ずいぶんとご機嫌さんね?」 「えへへ…♪だって、母様とこうやってお散歩するのって久しぶりだもん」 最近は政務が忙しく、雪蓮も一刀もすれ違いの日々が続いていた。 一刀にとって雪蓮と一緒に居られる時と言えば、夜に寝る時ぐらいだった。 「だからね?僕、今すっごくうれしい!」 「そっか…うん、私も一刀と一緒に居られて楽しいわ」 「えへへ…母様ぁ」 一刀はぎゅっと雪蓮の腕に抱きつく。 この世界に来てからずっと───自分を守ってくれていた大好きな腕だ。 「もう。一刀は甘えんぼさんね…」 苦笑しながら、雪蓮は一刀の頭を優しく撫でる。 暫く二人は森の中を進み───やがて、小さな小川に出た。 辺りに人影は無く、川のせせらぎだけが静かに響いている。 「母様。ここは…?」 「…ここにね。私の母様が眠っているの」 そう言うと、雪蓮は小さな墓が立っている場所を指した。 小川のほとりにひっそりと───まるで見守るように。 そこに先代の王、孫堅の墓があった。 「死んでまで王って形式に縛られたくないってね。…死んだ後ぐらい、のんびりしたかったんでしょうね」 「そっか…。だからここに?」 「うん。ここ、母様が一番好きだった場所なのよ?」 小さく笑いながら、雪蓮は持ってきた布で墓石を拭きはじめる。 「一刀、水を汲んできてくれない?」 「うん!」 一刀はそう言うと、川から水を汲み、雪蓮の真似をしながら墓石を磨く。 「ありがと。……」 二人はそうして暫く、墓の掃除に専念する。 その頃───城では、驚くべき情報がもたらされていた。 「も、申し上げます!我が国に曹操の軍が大挙して侵入!国境線を突破し、先鋒がこの城に向かっております!」 曹操襲来───それは誰もが予想だにしえない事態であった。 「どういう事だ!国境の守備隊は何をしていた!」 「伝令が悉く殺され…。漸くたどり着いた一人も先ほど…」 「くっ…!」 冥琳は唇を噛む。 いつかは曹操の襲来を受けるとは思っていたが……まさかこの時機に来るとは思っていなかった。 最低でも北方の袁昭を滅ぼしてからと見ていたが…。 「こんな早期にケリをつけて、か?」 「それはありえませんねぇ。情報も入ってませんし」 「だな。では何故…いや、考えても仕方が無い事だな」 「はい。今はまずこの状況に対応しないと……私は祭様たちと軍議に入ります。冥琳様は雪蓮様たちを」 「ああ。分かった!」 ───これは、時間との賭けになる。 敵はこの城まで5里のところに来ている。もはや一刻の猶予も無い。 「雪蓮…どこにいる?」 「ふう…綺麗になったね」 「ん…そうね。やっと綺麗に出来たわ」 雪蓮が満足げに言った。 「でも、怒ってるかもね。時間掛かりすぎだ、この阿呆ってね」 今まではこうして墓の前に立つ事も出来なかったのだ。 それがようやく───こうして墓を磨く事が出来た。 「ねえ、そんけんさんって…どんな人だったの?」 「すごい人よ。江東で旗揚げした途端、江東、江南を制覇して今の孫呉の礎を築いた人だもん」 「ふえー…」 「英雄だったわ。自慢の、ね。…でも、娘としてみれば母親失格かな?」 そこで雪蓮は思い出すように苦笑い。 「まだよちよち歩きの私を戦場に連れて行ったりしてたからね〜。ほんと、良く生き残ってきたって感じ」 「にゃはは…僕と同じだね」 「む…。そういえばそうねー」 そう言って、二人で笑い合う。 「…でも、僕は母様のこと大好きだよ?」 「うん。…私もね、母さんの事は大好きだった。誰よりも、何よりもね」 雪蓮はそっと墓石の前に跪く。 「母さん…やっとここまで来たわ」 雪蓮は墓石に語りかける。まるでそこに───母が居るかのように。 「あなたが広げ、その志半ばで去らなければいけなくなった私たちの故郷。それが今、孫家と 呉の民の下に戻ってきた」 それは誇るように。 「見てる?母様…。ここから孫家の悲願が始まるわ」 それはまるで、懐かしい思い出を語るように。 「一刀、こっちにいらっしゃい」 「うん…」 雪蓮は一刀を呼び、傍らにしゃがませる。 「見て。私にも子どもが出来たの…。とっても可愛くて───素直ないい子」 雪蓮は一刀の頭を撫でる。優しく、髪を梳くように。 「私には天下だの権力だのどうでもいい。ただ、この子と仲間たちと、呉の民と… みんなで笑って過ごせる時代が来れば良い」 だから、そのために戦う。 戦えば人は傷つく。笑顔が無くなる。 だが、戦わなければ何も手に入らないと思うから。 その笑顔を守る力でさえも。 「だから───ちゃんと見守っててね。これから忙しくなるんだから」 「お願いします」 雪蓮の言葉に合わせて、一刀もぺこりと頭を下げる。 「ふふっ…きっと母様、天国で笑ってるわよ」 「ふえ?何で?」 「一刀が良い子だから、かな?」 「みゅー…良く分かんない」 「それでいいの。さて、じゃあそろそろ行きましょう───」 と、立ち上がろうとしたその時。 『何か』が雪蓮の目の前を横切った。 「……っ!?」 全身の筋肉が粟立つ。 戦場で感じる殺気───それが複数、こちらに向けられていた。 (───狙われてる!?) 脳が漸く状況を理解する。どこからか、矢で撃たれたのだ。 ───まずい! 今のは幸運にも外れてくれたが、次はどうなるか分からない。 しかし……一体誰が? 袁術軍の残党? 敵国の刺客? 様々な可能性が頭をよぎるが、どれも上手く纏まらない。 (……とにかく、今は逃げなきゃ!) 考えるのは後でも出来る。今は一刀を連れてここを切り抜ける方が先だ。 「一刀!早く私のうし…ろ…?」 そこで雪蓮の言葉は止まる。 「かず、と…?」 呼びかける声に返事はない。雪蓮は一刀の姿を探し─── 傍らに矢で射抜かれ、苦しそう肩を抑えて蹲る一刀が居た。 「あ、ああ…ああああ…」 落ち着けと、自分の中の王たる部分が叫ぶ。だが、目の前の光景にはそんな言葉は無力だった。 「一刀…一刀!しっかりして!一刀ぉ!」 雪蓮の叫びが森に木霊する。 時は三国時代───ついに英雄相打つ時に、時代は悲劇を求める。 この歴史の行く末を知るものは、誰もいない。