孫策起つ───。 その一報が袁術の城に届けられたのは既に孫策の出発より5日後の事であった。 「な、なんじゃとーーーーーーー!?」 袁術は思わず手に持った蜂蜜水入りの杯を取り落とす。 「そ、孫策殿は江東に潜んでいた旧臣を呼び寄せると共に、一揆を起こしていた農民達と合流! その勢力を拡大し、国境線の我が城を次々と落としながらが迫っております!」 「ぐぬぬぬぬ…孫策の奴め!妾を騙して追ったのじゃ!」 袁術は激怒した様子で、傍らに居る張勲に命じた。 「七乃!すぐに孫策を懲らしめてくるのじゃー!そして二度と妾に逆らわないように きっつーいお仕置きをするのじゃ!」 「は、はぁ…」 命じられた張勲は曖昧な笑みを浮かべている。 これでも小さい袁術を支えてきた一国の軍師である。彼我の戦力さ、将兵の質の違いを見て、 勝てる見込みはないと張勲は確信している。 よって、袁術を守る軍師兼お世話係としては逃げの一手を打ちたいところなのだが…。 「頑張れ七乃!それ行け七乃!妾をしっかり守るのじゃ!」 期待に満ちた笑顔で袁術は応援してくれている。 袁術にはとことん甘い張勲である。負けるとしても、それに応えるしかなかった。 (まあ、いざとなったらお嬢様を連れて逃げればいっか♪) 恐らく逃げても孫策たちは追っ手を出すだろうが、それぐらいであれば振り切る自信は有る。 「ま、適当戦って…あとは逃げちゃいましょう♪」 ここに、袁術軍のなんとも情けない作戦方針が決まったのであった……。 「前方に寿春城が見えました!敵影なし!」 先行していた思春の部隊から報告が入った。 目の前にあるのは宿敵袁術の本城───つまり敵の本陣であり、雪蓮たちの予想としては すでに臨戦態勢を整え、万が一の奇襲を警戒していたところであり、 故に雪蓮はいつでも戦端を開けるように、こちらも臨戦態勢で待機している。 「て、敵影なしって…はぁ?」 雪蓮の口から、思わず困惑が出る。 「……逃げ出したんでしょうか?それとも伏兵…?」 「母様が急に敵になっちゃったから、慌ててるのかな…?」 横に居る蓮華と一刀が首を捻った。 孫策決起の報は当然届いているはずである。ここまで来たら隠す必要性もないし、 逆に庶人の指示を得るため、雪蓮たちは積極的に情報を流していた。 そして現状である。 目の前には雪蓮たちの軍勢が城に迫っているのだ。 普通の感覚を持つものなら、自分達を殺そうと迫ってる相手に対して防衛行動に出るだろう。 腐っても袁術の軍の数はまだ多い。 しっかりと迎撃態勢を取られれば、それはこちらも苦戦を覚悟しなければならない。 雪蓮としてはその腹積もりでここまで来たのだが…。 「どういう事かしらね…」 「敵城に動きあり!城壁に兵が出てきました!」 明命の報告に全員が城の城壁を眺め見る。 兵が弓を持って並び、袁の字の翻る旗も上がっていた。 「おっそ!袁術ってもしかして馬鹿?」 呆れた様に小蓮が言う。 確かに今頃になって迎撃態勢を取るようでは、遅いにも程があるというものだろう。 「余りにも危機管理がなっていないな。……それだけ姉様を信頼していたという事か?」 「ふんっ。大方、裏切られるという事まで知恵が回っとらんかったんじゃろうな」 祭の言葉に、その場にいる全員が納得したように頷く。 ───袁術ならさもありなん。 それは常に袁術の行動を監視していた雪蓮たちにとって、いちばんしっくりと来る回答であった。 「そこまで気が回るほどお利口さんじゃないでしょうからねぇ〜」 確かに、気が回っていればこうも簡単に敵城に迫る事は出来なかっただろう。 その点では有り難い話ではある。 「と、とにかく……敵の動きが鈍い今が好機です。相手の態勢が整う前に、一気に人揉みに揉むのが得策かと」 亞莎が少し緊張しながら進言した。 「それが良いだろうな。…む?待て。城門が開いた様だぞ」 冥琳の言葉通り城門から続々と兵が出てくる。どうやら、敵は打って出るつもりらしい。 旗印は張。大将軍張勲自らが出撃してきたという事だ。 「大将軍ねぇ……どの辺りが大なのかしらね?」 「馬鹿の頭につくのが大なのだろう」 その冥琳の一言に一刀は思わず噴出してしまう。 「…わ、笑っちゃダメだよね。うん」 「いいのよ別に。笑われる様なことをするのが悪いわ、この場合は」 蓮華も横でクスクスと笑っている。 ───良い雰囲気だ。 雪蓮は思う。戦闘前の気負いも、緊張もない。 これなら誰もが存分に働いてくれるだろう。 「違いないわね。…それじゃ、袁術ちゃんの前に大馬鹿さんたちで準備運動と行きましょうか」 「ま、準備運動になるかは甚だ疑問じゃがな」 祭が弓を用意しながら言った。 そう言いながらも、顔は笑っている。 「それでも久しぶりの戦じゃ。ま、気晴らしにはなるかのう」 「ふふっ…祭らしいわね。あと蓮華、この戦いの指揮はあなたに任せる」 「わ、私がですか?」 指名された蓮華は困惑したように自分を指差した。 「ええ。良い経験になるでしょう。張勲なんて軽く捻っちゃいなさいな♪」 「は、はい!」 蓮華もいずれ雪蓮の後を継がなければならない身だ。 軍の指揮を経験させておくのは早い方がいい。 もっとも、雪蓮の見立てでは蓮華に任せても問題は無いと見ている。 蓮華は頭も良い。自分達が手塩に掛けて育てた後継である。 この程度の戦、乗り越えられないはずはない。故に雪蓮は安心して指揮を任せられる。 (ま、危なくなれば私たちがフォローしてあげるけど) そこで雪蓮は蓮華の姿を探す。 そして、当の蓮華と言えば、一刀の前にしゃがみ、なにやら話しこんでいた。 「私…上手く出来るかしら?」 「大丈夫だよ。だって、蓮華おねーさまはいつも頑張ってるもん。だから…いつもみたいにすればいいと思う」 「ふふっ…一刀の言うとおりね。じゃあ、私の事…しっかり見守っておいてね?」 「うん!ふぁいと、だよ!」 そう言うと蓮華は笑いながら一刀の頬に軽くキスをして、立ち上がる。 その顔からは先ほどまであった迷いが消えていた。 「……あなた、本当に変わったわね」 「は、はい?」 「可愛くなったって事よ♪」 「……こ、こんな時に茶化さないで下さい!」 雪蓮としては茶化しているつもりは無いのだが、蓮華は拗ねた様に口を尖らせる。 「敵軍、突撃してきます!」 と、そこで前線から報告が入った。どうやら敵はこちらを食い破るつもりらしい。 「これより私が指揮を執る!突撃してきた敵を包み込み、半包囲して撃滅するぞ!全員、抜刀!」 その蓮華の言葉に、兵たちが雄叫びで答えた。 戦場が一気に熱を帯び、沸騰して行く。 「敵軍、城内に後退して行きます!」 戦端が開かれてより一刻と少し───戦闘は孫呉の圧倒的優勢であった。 蓮華は突撃を見事に受け止め、半包囲の輪の中に追い込み、張勲率いる部隊に大打撃を与えたのである。 (追撃を掛けるべきか……) 軍は勢いに乗っている。これに乗じて敵を蹂躙すれば、勝利は目の前だ。 「よし!ならばすぐ城門に接近して───」 「はい失格。この状況で城門に接近するのはダメよ」 と、そこで後ろで見ていた雪蓮が初めて口を挟んだ。 「敵が城内に退く時は確かに好機ではあるけど……その逆もまた然り、よ。見なさい」 雪蓮が指差した先……城壁の上には袁術の兵たちが弓を番えて待ち構えていた。 このまま接近すれば城壁の上から狙撃され、部隊は大打撃を受けてしまっていたところだろう。 そして先の戦いで出てきていたのは張勲のみ───ということは袁術は健在であり、その指揮系統は 未だ機能を消失してはいない。 故に、今追撃を掛けてもその効果は薄い。 「総大将の役目はこれらを状況を見て的確に判断することよ。覚えておきなさい」 「はい!」 「恐らく袁術の事だ。……もう一波あるな」 あの負けず嫌いで尊大な性格の袁術の事だ。恐らくもう一度攻勢を掛けてくるだろう。 「部隊の再編を急がせて。後方の予備隊も合流させて」 「分かった。すぐにでも始めよう」 「次の蓮華が総大将として指揮を執りなさい。……一刀に情けないところ、見せないようにね?」 「はい!姉様はどうなさるのですか?」 問われた雪蓮は腰の剣を指す。 南海覇王……孫家に伝わる王の証であり、先代孫堅の形見でもある。 「私はこの剣で袁術の首を取る。……それが私の役目だもの」 「…分かりました総大将の任、しっかりと果たしてみせます!」 気合十分に返事を返す蓮華に、雪蓮は苦笑した。 「そんなに肩肘張って構えなくても良いわよ。……歯ごたえ無さすぎなんだもん」 「まさにな。……こんな勢力に良いように使われたとはな」 「にゃはは…」 まだ袁術のことを良く知らない一刀としては、そう言われても笑うしかない。 「あーもう…思い出したら涙が出てきそう…。どうせなら曹操あたりと知略と武勇の全てをかけて戦いたいわねぇ」 「物騒な事言わないの。それに、この戦に時間を掛けると態勢の整わないまま曹操と当たる事になるわよ?」 北の曹操も雪蓮たちと同じように袁昭あたりを攻めている頃だろう。 あの北方の巨人の事だ。そちらが終われば劉備かこちらか───どちらかに南下してくるに違いない。 それに備えるためにも、ここで時間を掛けてはいられない。 「むう…ええい!早く出てこんか袁術!儂が地平線の彼方までまとめて吹っ飛ばしてやるわ!」 「祭おねーさま。どうどう…」 「なんじゃ。坊とて早く戦いたいじゃろ?うむ!小さいとはいえ男子じゃ。この状況に興奮せぬ訳ではあるまい!」 「ふにゅう…母様ぁ」 「情けない声あげないの。それに…祭の期待になら、すぐに応えられるわよ」 そう言って雪蓮は城門を睨む。 そこから出てきたのは袁の旗と張の旗───つまり、袁術自ら出陣して来たという訳だ。 「うほっ!本当に来よったぞ!」 「祭おねーさま…すっごく嬉しそう」 「あったり前じゃ!権殿!先鋒!先鋒は儂で良いな!?」 嬉しそうにはしゃぐ祭に苦笑しながら、蓮華は了承の意を告げる。 「おうさ!さあ権殿!号令を!」 「ええ!」 蓮華は剣を抜き、先頭に立って号令を下す。 「聞け!呉の将兵よ!我らの未来を担うこの一戦!皆の力…孫家に今一度貸してくれ!」 蓮華はそこで一拍置いて、 「そして皆で掴もうではないか!輝ける未来を!誇るべき故郷を!そして我らの子孫が笑って過ごせる未来を!」 兵たちが雄叫びを上げる。 士気は十分。皆、命を投げ打ってでも戦うだろう。 「行くぞ!栄光を掴むために!全軍…突撃ィーーーーーーーー!!」 ここに、孫呉独立のための最後の戦いが始まったのであった。 勢いの付いた孫呉の兵と、逃げ腰で士気の低い袁術の兵とでは勝負は最初から決まっていたようなものである。 数でも質でも士気でも───孫呉の兵たちの方が全てが上なのだから。 両軍の衝突から半刻……袁術の軍に夥しい出血を与えながら、前線を突破した祭率いる孫呉の前曲部隊は そのままの勢いで敵の後方部隊までをもかき回し、大損害を与えている。 そしてついに敵の本陣が崩れ始めた。 「蓮華様!敵が総崩れとなっています!今こそ突入の好機かと!」 「お姉様っ!」 敵軍は今や城内で無駄に抵抗を繰り返すのみである。 ここが好機だった。 「……それじゃ、行って来るわ冥琳」 まるで近所に出かけてくるように。雪蓮は腰の剣に手を添えて歩き出す。 「仕上げは頼んだぞ。明命!雪蓮の護衛を!」 「はっ!」 明命が即座に雪蓮の横に付いた。 「あ、そうだ。一刀もいらっしゃい」 「ふえ?僕も?」 「そ。…ま、いろいろと考えがあってね♪」 「にゃ?」 一刀は不思議そうに首をかしげた。 「さてさて、袁術ちゃんはどこかな?」 城内に入った蓮華はキョロキョロと周りを見渡す。 周囲は孫呉の兵が袁術の捜索のために動き回っていた。 「皆、周辺を探して下さい!」 明命の命令の元、兵たちがあちこちの茂みや影に袁術が隠れていないか調べまわる。 だが─── 「…逃げちゃった?」 「むー…そんなはずも無いんだけど。…んっ?」 雪蓮は鼻をヒクヒクとさせ周囲を見回し───ある一点で視線を止めた。 「…こっちね」 「ほえ?」 「匂いがするの。ほら、行くわよ一刀」 そう言って雪蓮は一刀の手を引いて歩き出す。 慌てて明命たちが付いてくるが、雪蓮はその速度を落とさない。 そして、城の裏口に向かう通路に入る。 「あ…」 そこで一刀は驚きの声を上げた。 豪奢な服を着た金髪の女の子と、白い服を着た女性が疲れた様子で荒い息を付いていた。 「うぅ〜…七乃ぉ、妾は蜂蜜水を飲みたい!蜂蜜水を飲みたいのじゃ〜!」 「我侭言わないで下さい。そんなことより、孫策さんに見つかったら…」 「へぇ…見つかったらどうなるのかしら?」 雪蓮のその声に余程驚いたのだろう。身体が硬直しているのが一刀にも見て取れた。 「蜂蜜水だっけ?好きなだけ飲ましてあげても良いわよ?…ただし、あの世でだけどね」 抜き身の剣を携えて。 雪蓮がついに袁術と張勲の前に立ったのだ。 「ででで、でたーーーー!」 「きゃーーーー!出たのじゃー!」 「…失礼ね。人を化け物みたいに」 雪蓮は少しムっとした顔で剣を突きつける。 「さあ…私がここに来た理由、分かってるわよね?」 「ななななな、何の用かのう?わ、妾は用事などないぞ!?」 「そ、そうですよ?わ、私たちはこれでも忙しいんですから……そ、それでは!」 「おっと、待ちなさいな」 横を走り抜けようとした張勲と袁術を剣を突き出して止める。 「今まで散々こき使ってくれたんだもの。意趣返しぐらいいいじゃない♪」 「良くない〜〜〜〜!良くないのじゃ〜〜!」 そう言いながら、雪蓮はじりじりと袁術たちを壁際へと追い詰める。 やがて、諦めたのか、袁術と張勲はペタンと座り込んでしまった。 「いやじゃ〜〜〜!死にたくない〜〜〜!」 「お嬢様の命だけはぁ〜!孫策さん!お嬢様の命だけはぁ〜!」 必死に哀願する二人だが、雪蓮はその笑みを崩さない。 だが、傍らに居た一刀には───二人が哀れに見えていた。 「…母様」 袖を引いて見る。雪蓮の性格からして、ここまでくればやり遂げるだろう。 だが……雪蓮が目の前で自分と同じぐらいの子どもを殺すのは見たくなかった。 「んー…まあ一刀がそう言うんなら、見逃してあげなくもないけど…」 「ほ、ほんとうかの!?」 「でも、私たちもいろいろ怨みがあるしねぇ」 雪蓮は少し考え込むと、 「そうね。じゃあ一刀に決めてもらいましょうか♪」 「ふ、ふえ!?」 雪蓮は一刀に剣を渡す。 ずしりと、受け取った一刀の手に重みが加わった。 「さあ、どうする?彼女達は私たち孫呉の宿敵…斬るも斬らないも、一刀しだいよ?」 「僕、しだい…」 一刀は目の前の少女達を見る。 剣を取り上げられ、無防備に抱き合い、泣きながらこちらを見る目にはもはや諦めの色も浮かんでいた。 「……」 一刀は剣を振り上げる。 「ひぃっ!」 「美羽さまぁ〜!」 少女たちが悲鳴をあげ、お互いをぎゅっと抱きしめた。 そして、一刀はそのまま剣を─── 「うん。…やっぱり僕には無理、かな?」 ゆっくりと降ろし、雪蓮に返した。 「……いいの?あなたは良く分からないかもしれないけど、あいつらは皆を苦しめてた悪い奴なのよ?」 「でも…もうただの女の子だよ?」 「それでも責任があるわ。あの子たちわね、自分たちの欲のために今までの私たちを虐げて来たの」 「うん…それは分かるけど。でも…」 一刀はそこで迷うように袁術たちを見ながら言った。 「ここで…あの人たちを殺しちゃったら…きっと、僕たちも一緒になっちゃうと思う…」 誰かを殺して誰かに怨まれる。 誰かに殺されて、誰かを怨む。 それはすごく悲しいことだと思うから。 故に一刀は剣を降ろしたのだ。 「だから…ごめんなさい。母様」 「…ううん。一刀はそれで良いの。流石、私の自慢の息子だわ」 そう言うと雪蓮は一刀を抱きしめる。その顔には、笑顔が浮かんでいた。 結局───袁術と張勲は二度とこの国に近づかないという事で命を助ける事になった。 「とっとと消えなさい。…やっぱりあなたたちを見てると殺したくなっちゃうから」 という雪蓮の脅しに心底震えながら、二人はすたこらと逃げるように城を後にする。 「…甘いのではないですか?」 「いいじゃない。お馬鹿さん二人ぐらい見逃してあげなさいな♪」 前線から駆けつけて来た蓮華に、雪蓮はにこやかに言った。 「それより、これから先の事を考えないとね。…蓮華も手伝ってね?」 「はい!」 「うん♪さ、皆ここからよ!まずは統治を完全にするために頑張らないとね!」 こうして───孫呉独立の悲願は果たされた。 ここから天下統一への新たな道が開ける……誰もがその輝かしい未来を予測していた。 順風満帆。だれもがそう信じきっていた。 時は三国時代。ついに三国の一角である呉が成立し、時代はさらなる戦乱へと加速して行く。 歴史の行く末は、誰にも分からない。