孫家の活躍によって荊州の黄巾党が駆逐されて数日───。 凱旋した一刀たちは事後処理の後、暫しの休息を取っていた。 だがそれは本当に暫しというものであり、誰の目にもすぐ次の戦いが迫っている事が見えている…。 世は群雄割拠、確実に乱世の時代へと突き進みつつあった。 「〜〜〜♪」 一刀は鼻歌を歌いながら本をめくる。 ここは庭園にある東屋───読書には絶好の場所である。 「ふーん…そんし様って偉いんだね」 穏から与えられた本は孫子の兵法書。もちろん5歳の一刀にはまだ難しい本ではあるが、穏の注釈や 講義のお陰でおぼろげながら少しは理解出来るようになっていた。 そして理解出来るようになると、読書というものは格段に楽しくなるものである。 一刀も例に漏れず、最近は自分から本を読んでいた。 「えと…そんしいわく」 「かーずと♪」 再びページをめくろうした時、突然上から声を掛けられた。 「ふえ?」 上を見上げてみるが誰もいない。 しかし声が聞こえたのは確かで… 「こっちよ、こっちー」 「どこー?」 「んもう、上よ。こっちこっち」 そうして庭にある太い木を見上げる。 「母様?」 「はーい、かっずとー♪」 声の主は雪蓮だった。見上げるほど高い木に登り、太い枝に腰掛けて盃を傾けている。 「ふふふっ♪鼻歌なんて歌っちゃって、一刀ってばこんなところで何してるの?」 「えーっと、お勉強だよ。本を読んでたの」 「ふーん…こんなに良い天気なのに、詰まんない事してるわねぇ」 そう言うと、雪蓮は盃をグイっと傾ける。 「ぷはーーー!」 「…んもう。また冥琳おねーさまにおこられるよ?」 「いいの。私だってたまには羽を伸ばさないとね♪」 「……また怒られちゃっても、僕知らないからね」 「むー…一刀も言うようになったわねー」 「冥琳おねーさまから言われてるもん。ちゃんと母様がさぼらないか見ててって」 「はぁー…私に味方はいないのかしら。よよよ…」 言いながら顔は笑っている。それを見てると何だか一刀も嬉しくなり、笑顔になってしまう。 「ねぇ一刀、ここまで上がってこれる?母様と一緒にご本を読みましょうか」 「うん!」 一刀は満面の笑みで頷くと、するすると木を登り始める。 「へぇ、中々上手いじゃない」 「えへへ…きのぼりは得意なんだよ?」 そして一刀はその言葉通り、あっと言う間に雪蓮のいる枝に辿りつく。 「とうちゃーく!」 「はい。良く出来ました♪」 雪蓮はそのまま一刀を膝の間において、もたれさせる様に抱きかかえた。 南部特有の暖かい風が二人の頬を撫でる。 「一刀もどう?お酒、飲んだ事ある?」 「祭おねーさまと一回だけ。でもなんか苦くて美味しくなかったかも…」 「そっかー。ま、一刀にはまだ早いか」 また雪蓮は盃を傾け、一気に飲み干した。 「うふふ♪やっぱり仕事をさぼって飲むお酒は格別だわー♪」 「もー…母様」 「硬い事言わないの。んー…いい風ねぇ」 ざあっと、風が木々の葉を揺らす。二人はしばらくその音に身を任せた。 「…こうしてると、世が乱世だなんて忘れるそうになるわね」 雪蓮がぽつりと呟く。 「ねぇ母様…なんでみんなせんそうをするのかな?みんな仲良く…喧嘩しないで暮らしちゃいけないの?」 「そうね…本当は一刀の言う通りかも知れないわ」 雪蓮は笑いながら、一刀の頭に顔を埋める。 「でもね…それは理想。追い求める形ではあっても、実現するのは難しいの」 「何で?僕、喧嘩するのは怖いし、せんそうも…嫌いだよ?」 「それは皆一刀と同じ。でも、生きていくためには誰かと、何かと戦って勝たなきゃいけないの。それは私たちが生き物で ある限り絶対に逃げる事の出来ないものよ」 「良く分かんない…」 一刀は雪蓮に身体を預け、真っ直ぐな目で雪蓮を見詰める。 「母様…いつか、みんながせんそうしなくても良くなる?」 「ふふっ、そうね。だから皆で頑張らないと。一刀だってちゃんと強くならないとダメよ?」 「うん!頑張る!」 「よしよし♪流石、私の可愛い一刀ねー。ちゅーしちゃおう♪」 「ふみゅう…」 こうして───雪蓮と一刀の時間は静かに過ぎて行った。 その後……木の上で眠りこける二人を冥琳が見つけ、何故か一刀も大目玉を食らったのはまた別の話である。 「黄巾党の本隊を叩け、か…。また無茶な事を言い出したものね」 袁術に呼び出されていた雪蓮が戻ったのは昼過ぎの事。冥琳たち将もある程度の予想はしていたものの、 「本隊をじゃと?……話にならんぞ。黄巾党の本隊は二十万とも三十万とも聞く。敵う訳がない…」 流石に本隊を叩けと言われるとは予想外だったらしく、祭が苦虫を噛み潰したような顔をする。 「普通ならそう考えるんだけどね。…あのバカ二人はそんなこと考えてもないみたい」 「あ〜……あの二人って、正真正銘のお馬鹿さんですもんねぇ」 穏も呆れた様にため息を付きながら言った。 「ほんと。あの二人より5歳の一刀の方がまだ賢いわよ…」 「ほえ?」 突然話を振られた一刀は、座ってる椅子の上で目を丸くしている。 「あ奴らごときを比べるのは、坊に失礼というものじゃ。…して、策殿はどうするおつもりじゃ?」 「とりあえず、皆を集めてから考えるわ」 雪蓮の言葉に冥琳が珍しく驚いた顔をする。 「みんな?という事は…旧臣を集める事に袁術が許可を出したのか」 「ええ……ホント、バカよねぇ」 先代孫堅の死以来、散り散りになっている孫家の旧臣が揃う─── それは、孫家の力が一気に増強される事を意味していた。 「その馬鹿さ加減は有り難い。……これで軍が増強出来るというものだ」 「ふむ…先を見据えて動くか。…時機が来るとお考えかな?」 「ええ。きっとこの先群雄割拠の時代が来るわ。……ふふっ、面白くなってきたわね」 雪蓮は心底愉快という笑いを浮かべる。 しかしその目には───猛る炎が宿っていた。 「同意だな。ではすぐに使者を出し、各地に散っている旧臣たちを呼び寄せよう」 「興覇ちゃんに周泰ちゃん。孫権様に尚香様にも連絡をしないといけませんねぇ〜」 そうして軍儀は進み、使者の選定や、軍の編成。大まかな方針などが決まっていく。 「いよいよ独立に向けて動き出せる…。皆、私に力を貸してちょうだい」 雪蓮は力強く宣言した。 それから二十日ほど───。 出陣の準備の整った雪蓮たち孫家の部隊は、黄巾党の本隊との決戦のため、冀州を目指していた。 「穏、蓮華たちはいつ合流するって?」 「兵を集めてから合流するらしく、少し時間が掛かるとの事でした〜」 その報告に雪蓮は少し思案する。 「そう…ならば初戦は私たちだけね」 雪蓮たちが率いる孫家本隊の数はそれほど多くない。このまま当たれば間違いなく粉砕されるだろう。 「連れてきた兵は多くない。…このまま敵本隊とは戦いたくないのぅ」 「敵本拠地の周辺には既に諸侯の軍も動いています。まずは出城に篭っている黄巾党を処理しましょう」 「その後、諸侯と足並みを揃えて本拠地に迫れば、この兵数でも何とかなると思いますよ」 「ふむ。なら方針はそれで行きましょ」 結局のところ、今は自軍だけで対処仕切れないのだから。諸侯の力でも何でも借りるべきである。 「了解した」 「なら、軍を止めてそろそろ昼にしようかの」 祭の提案によほど待ちかねていたのか、穏が飛び跳ねる。 「わ〜い。お昼お昼〜♪」 「それじゃ、私は一刀のところに行くわ。あとのことはよろしくね」 「ああ。…あんまり遊ぶなよ?」 「それは出来ない相談ね〜♪じゃあね〜♪」 そう言って雪蓮は陣の中に駆け出していく。 その姿はあっという間に兵士の間に混じり、見えなくなる。 「よほど坊の事が気になるようじゃな」 「それもあるでしょうが…。恐らく、蓮華様の事を伝えるつもりでしょう」 「あぁ〜。でも一刀様の事、蓮華様受け入れますかねぇ」 「まあ坊の性格じゃ。すぐに打ち解けるじゃろう。あれは邪気がないからのぉ」 「天性の女たらしぽいですしね〜」 「まあ、雄として優れているのさ。…って、私は五歳児に向かって何を言ってるんだ」 「はっ!違いないわい」 「へっくち!うー…」 その噂されている本人は、天幕の横で至急されたお弁当を食べていた。 「はぐっ…」 蒼い空の下、手にした握り飯を食べる。 一刀が現代にいた頃と比べると、塩味も薄いし味も無いに等しいのだが─── 「御飯はどう?おいしい?」 「うん!おいしい!」 こうして母様と並んで食べる事が、一刀に取っては一番の調味料だった。 「そう。ちゃんと食べておかないと後がつらいからね?」 「僕知ってるよ。そういうの、はらがへってはいくさはできぬ、って言うんだよね」 「偉い偉い♪ちゃんと分かってるならいいのよ♪」 雪蓮に褒められて、一刀は赤くなっておにぎりに齧り付く。 暫く、穏やかな時間が過ぎた。 「それで、一刀…母様が最初に言ったこと覚えてる?」 「えと……うーんと」 「ほら、私の部下の女の子たちと仲良くしなさいって話」 「あ!そうだった!…でもでも、僕みんなと仲良くしてるよ?」 「ふふっ…それは分かってる。それでね、もう少ししたら私の妹たちが合流するの」 「母様のいもうと…?」 「そうよー。私に似て中々の美人なんだから。まあ、堅物で真面目で融通の利かないところはあるけど、とっても良い子なの」 「ふーん…」 一刀はどんな人か想像してみる。 ───まじめな人っていったら…冥琳おねーさまみたいな人かなぁ。 そして雪蓮の顔と冥琳のお小言が加わった姿を想像し、 「うう…ちょっとじしんないかも」 「?…それでね、その子と一番仲良くしてあげて欲しいの」 「いちばん?」 「そう。一刀の事が一番好きになっちゃうぐらいに仲良なれば、母様も嬉しいわ♪」 「うーん…が、頑張ります」 「うん♪これからの呉のためでもあるんだから、ちゃんと頑張りなさいよ?」 そう言って雪蓮は一刀の頭を撫でる。 「じゃ、私は冥琳たちのところに戻るから。一刀はちゃんと良い子にしてるのよ」 「うん。母様も気をつけてね?」 「ありがとう。…それじゃね!」 その後、食事を終えた一刀たちは行軍を再開する。 「弁当は美味かったか?」 「うん。とっても美味しかったよ」 「そうか。文化の違いというものがあるから、どうなるかと心配していたが…それならいい」 一刀の隣で歩く冥琳が笑いながら言った。 「それより一刀…。少し考えていたところなんだが、お前には常に戦場に出てもらおうと思っている」 「ふえ?僕が?」 「そうだ。雪蓮はお前がいると張り切るからな。それに天の御遣いであるお前が応援してくれれば 我が軍の士気の向上にもなる」 「うん。僕は大丈夫だけど…」 「そうか。すまんな…」 そう言ってから、冥琳は少し自己嫌悪を感じた。 本当の目的は袁術に一刀の存在を知られたくないから。このまま孫策の名が広まれば、 傍にいる天の御遣いである一刀の存在も同時に広まるだろう。そのために保護したのだから。 だが、そうすれば必ず袁術が動き出す……それだけは何としてでも避けなければならない。 天の意志というものを利用しようとする輩は多い。それだけ影響が大きいと言えるし、だからこそ自分たちも利用している。 しかし─── (こんな子どもまで権謀の渦に巻き込まないといかんとはな…) これで多少屈折していたり、ひねくれていたりするのなら罪悪感など持たないが、 「おねーさま…どうしたの?」 だが、一刀は純粋なまでに真っ直ぐにこちらを見てくる。 ───まるで、こちらの気持ちすら見透かしているように。 「いや、何でもない。それより私から離れるなよ?戦場に出ると言っても、お前が直接戦う訳ではないのだからな」 「うん!分かってる!」 「ふふっ、良い子だ」 だからせめて、今は全力を掛けてこの子を守ろう。 それが利用している自分達の……せめてもの義務なのだから。 「さて…そろそろ斥候が帰ってくるな。戦闘準備に取り掛かろうか」 そう言ったあと、冥琳が各所に伝令の指示を伝えてようとした時─── 「伝令!前方に黄巾党の分隊を発見!向こうもこちらに気付いてる様で、 城を出て布陣するつもりの様ですが…そ、孫策様が!」 「孫策がどうした?」 「前線部隊を率いて先行を…!」 その言葉に、冥琳が苦虫を噛み潰した様な顔をする。 「全く、世話の焼ける!一刀!穏!すぐに追いかけるぞ!」 「は、はい!」 「はーい!」 「あのお馬鹿…!一刀がいるからと言って、張切りすぎだ!」 そして暫くして、本隊が雪蓮の部隊に追いく。 「やっと追いついた!待ちなさい雪蓮!」 「無理だってば。一度走り出した兵を止めたら、折角の突進力が無駄になるでしょ」 厳しく問い詰める冥琳にも、雪蓮はどこ吹く風という感じで受け流し、 「それより一刀。よーく見ておきなさい」 「ふえ?」 「これが私の戦い方って奴よ♪大丈夫、黄巾党なんてすぐにでも蹴散らしてあげるから!」 「…うん。気をつけてね?怪我しないでね?」 「ふふっ、ありがとう。…じゃ、また後でね♪祭、行くわよ!」 「心得た!」 そう言うと雪蓮と祭は前線へ突撃して行く。その速度は早く、まるで一陣の風になったかの様である。 「ああ、もう!穏!戦闘準備だ!」 冥琳は鞭を取って指示を飛ばしはじめる。 「突進する孫策隊、黄蓋隊を補佐する!左右に展開して敵を包み込め!」 そして前線へ鞭を向け、孫策の代わりとばかりに号令を下した。 「行くぞ!孫呉の勇者たちよ!我等の英雄、孫策を守れ!」 兵たちが雄叫びで答え、戦場の空気が加熱して行く。 ここに、黄巾党本隊討伐の初戦が幕を開けたのである。 「まったく!総大将自ら軍の先頭に立って突撃するなんて。項王の真似をしているつもり!?」 本陣に冥琳の叱責が響く。 もちろん原因は雪蓮の独断専行───先ほどの突撃に関してだった。 結果的に戦は大勝で終わったものの(雪蓮の早期突撃によって敵陣が総崩れになった)、一歩間違えば 敵中に孤立してしまう行為に軍師である冥琳の怒りが爆発した。 前線から帰ってくるなり、冥琳が雪蓮を叱責。そして当の雪蓮はと言えば…… 「か、母様…?」 「うわ、こわっ…」 一刀の後ろに隠れていた。 「ごめんなさい。……でもさ、やっぱり兵士たちには私の勇敢な姿って見せないといけないじゃない?」 「時と場合によるわ。いくら強大な敵だといっても、黄巾党は所詮ただの賊の集まり。・・・…そんな奴ら相手に勇敢ぶっても、 それは只の蛮勇よ」 そこで冥琳は一息おいて、 「それぐらい、あなたなら分かるでしょう?」 冥琳に怒られた雪蓮は隠れていた一刀の後ろからしゅんとした顔を出した。 「うん……今後は気をつけます」 「よろしい。じゃあ次からは私の指示に従ってもらいます。良いわね?」 「はぁ〜い……」 冥琳の念押しに、雪蓮は渋々といった様子で返事をする。 「あれは絶対またやりますねぇ〜。賭けても良いですよぉ」 「あはは…か、母様らしいかも…」 一刀も苦笑いをしながらそれを見守る。 「そうそう♪やっぱり一刀は私の味方だよねー♪」 そう言って雪蓮は一刀を抱っこする。 「…まったく、都合が悪くなると一刀を引き合いに出すのは止めなさい。穏、一隊を黄巾党の陣地に向かわせて、 物資を確保しておけ。その他の部隊は蓮華様たちとの合流地点に向かう」 「は〜い♪」 「黄蓋殿は部隊を纏めて、被害報告を。…あと、雪蓮を止められなかった言い訳をして頂きましょう」 「うぐっ…かず坊〜、冥琳の奴がいじめおる〜」 「黄蓋殿まで一刀に頼らないで下さい…」 「あ、あはははは…」 冥琳の突き刺さるような視線を受けながら、一刀は引きつった笑いを浮かべるしかなかった……。 こうして、初戦を乗り切った一刀たちは、戦利品などを確保したあと、 孫権と合流を果たすため、更に北へと軍を進めた。