───なーんでこんな事になっちゃったのかしらね。 雪蓮は誰にも悟られない様に静かにため息をついた。 孫呉の王たる自分が弱音など吐いてるところを見られたら、冥琳あたりに何を言われるか分からないし 何より弱音を吐く自分というものを嫌悪する。 だが─── (まあいつかは人の親になるんだし?ちょっと早い子育てと思えば別に何とも…) そこで言い訳をしている自分に気付いてまた憂鬱になる。 (何と言うか、きっと困惑してるのよね…私。認めたくはないけれど) とっくに王としての覚悟は出来ているし、多少の事では戸惑いなどしないつもりだった。 だが、流石にここ数日の展開に戸惑わないほど自分は人生を経験していない。 「母様、どうしたの?」 …横にいる少年が心配そうに顔を覗き込んでくる。 「何でもないわ。さ、今日はおばあちゃんたちのところにいきましょうか♪」 「うん!」 浮かべた笑顔に答える様に、少年の……一刀の顔が向日葵の様にほころぶ。 その顔を見て、雪蓮は何とも言えない複雑な感情が沸き起こるのを感じた。 天の御遣いが現れた日───つまり一刀が雪蓮たちと出会った日から早二週間が過ぎた。 この突然現れた子どもは雪蓮たちの予想を超える速度で世界に順応していった。 「お勉強も良くしてくれますし〜ちゃんと覚えてくれてるのが分かるので、教え甲斐があります〜♪」 とは一刀の教育のために付けた穏の言である。 その他にも祭に剣の手解きを受けたり、冥琳の仕事の手伝いをかってでたり…… (この子なりに、自分の出来ることを探してるのね……) 子ども特有の順応力の高さから来るものだろうが、見ず知らずの世界にいきなり来て 萎縮も引きこもりもしないというのは中々に肝の据わったお子様であると雪蓮は思う。 「〜〜♪〜〜♪」 ……こうして自分の手を握りながら歩いてる姿を見ると、実は何も考えてないんじゃないかと思ってもしまうが。 「ま、良いことなんだし気にしても仕方ない、か」 「ふえ?」 「何でもないわよ。それより、一刀は街に来た事があるの?」 「うん。冥琳おねーさまにお願いされて…ダメ?」 「だ、ダメじゃないけど…一人で来たの?」 「うん。じょうかのかんぶつやにいくぐらいなら、ひとりでもだいじょうぶだろうって」 一刀の一言に雪蓮は眩暈を覚えた。 「い、幾ら城下は治安が良いと言っても……こんな小さな子を一人で街に出すなんて…何考えてるのよ、もう」 後で冥琳をとっちめてやる───そう雪蓮が心の中で決意した時、 「ごめんなさい…。僕が冥琳おねーさまにお願いしたから…」 「あー……いいのよ。一刀は悪くないから」 そう言って、雪蓮は一刀を抱き上げる。 「いい?謝る時はちゃんと自分に悪いところがあるかまず考えてからにするの。自分が悪いと思ったら その時は素直にごめんなさいをすること。でも、今のは一刀が悪いんじゃなくて冥琳がいけないの」 「うーん…でもでも、僕が一人で街に出ちゃったから…」 「一刀はそう言われたから行動したんでしょ?冥琳のお手伝いをする事は悪い事じゃない。だから一刀が謝る必要はないの」 「ふみゅう…よく分かんない」 一刀が首傾げて悩むのを見て、雪蓮は心の中で苦笑する。 「そうね。一刀はゆっくり考えれば良いわ。さ、行きましょうか」 雪蓮は一刀を抱いたまま歩き出す。戦場で鍛えた腕だ。このまま老夫婦の家まで歩いて行くぐらいなら苦にもならないだろう。 一刀といえば、先ほどの雪蓮の問答についてまだ考えてる様だ。一生懸命に悩んでる顔も雪蓮にはどこか微笑ましいものに 感じ、自然と笑みがこぼれてくる。 (まあ、こういう関係も悪くない……かな?) 晴れた日の午後、大通りを歩きながら雪蓮は心が軽くなるのを感じていた。 そしてそんな日常は、数日後に館に駆け込んできた一人の使者によって終わりを告げる。 世に言う黄布の乱───その動乱が大陸を舐め、世は阿鼻叫喚の時となったと使者は告げた。 それを収めるため荊州の主……袁術より孫策に討伐命令が下される。 それは、もはや漢王朝の統治能力の消失を意味していた…。 「ぐんぎ?」 「そうだ。悪いが今の孫家にはお前を客扱い出来る余裕がなくてな。子どもに頼るのは些か情けないが… お前にも知恵を貸して貰いたい」 昼を過ぎた穏やかな午後。一刀たちは庭園の一角にある休憩所に居た。 議題は先日駆け込んで来た使者の案件───つまりは黄布党の討伐についてだ。 「でも、だいじなお話ならお部屋でした方が…」 「壁に耳あり、ですよ。私たちの周囲には常に袁術さんの目が光ってますから」 穏が普段と変わらない調子で物騒な事を言った。 「えと…悪い人たちがきいちゃうとまずいってこと?」 「そういう事じゃ。ま、暗い部屋の中でごちゃごちゃやるよりは目立たんで済むからの」 祭はそう言うと、一刀を膝の上に乗せる。 一刀も、もう慣れているのか特に嫌がる様子もない。 「かず坊はここで儂らと楽しくお話をしてれば良い。ほら、菓子も食え」 「ありがとう。祭おねーさま♪」 そんな二人の光景を見て、冥琳が苦笑する。 誰もこれを見て軍儀をしてるなどとは思わないだろう。 「…甘やかすのは良いが、程ほどにな。さて、雪蓮は袁術に呼ばれて荊州の本城に向かっている。 恐らくは黄巾党討伐の事だろう」 「今、この時期の出頭命令ですからね。十中八九それでしょう」 「それを見越して儂らは準備が出来しだいここを発ち、策殿と合流する」 「母様と…」 一刀は母と呼ぶ人の顔を思い浮かべる。最近は忙しいらしく、一緒に寝るときぐらいしか会えなかったので 久しぶりにちゃんとお話が出来ると思うと少し嬉しくなった。 「そうだ。さて、状況の説明も終わったところで問題点についての意見を聞かせて欲しい」 冥琳はそう前置きして本題に入る。 一つは軍資金と兵糧。 そしてもう一つは兵数の問題。 「黄巾党の部隊は大きく分けて北と南の二部隊。このうち北が本隊。南が分隊。 …袁術さんなら確実私たちを北の本隊に当てるでしょうね」 「集められる兵数は?」 「大体5千というところでしょうか。無理をすれば一万…それでもかなり少ないですが」 「その程度の数で黄布党の本隊と当たるのは勘弁して欲しいのう」 「兵数差は策で埋めるとして…あとは軍資金と兵糧の問題ですねぇ」 「こればかりはな…。街の有力者に借りるという手もあるが、大した資金は集まらんだろう」 議論は早くも暗礁に乗り上げてしまう。 無い袖は振れない───悲しいが、それが現実である。 「金が無ければ兵糧の調達も出来ん。どうしたものか…」 冥琳が顎に手を当てて考え込む。 「…その、えんじゅつさんにお願いするのはダメなの?えんじゅつさんはお金持ちさんなんだよね?」 と、それまで黙っていた一刀が冥琳に言った。 「ふむ?どういう事だ?」 「だって、えんじゅつさんって人は僕たちに…その、こーきんとうって悪い人たちをやつけてほしいんでしょ? 母様がね、人にお願いするときはちゃんと自分も出来る限りの事をしなさいって言ってたよ?」 「しかし、断られた場合はどうするのだ?」 そう返されて、一刀はしばらく考え込む。 「んーっと…じゃあ、数の少ない方をやつけちゃうとか?」 「ふむ…確実ではないが、このまま手を拱いてるよりはマシか」 冥琳の意見に穏が捕捉を加える。 「そうですねぇ。お願いはするだけなら只ですから。それに、断られたらそのまま孫策様と合流すれば時間も兵糧の消費も 少なくて済みますし」 「…我等の現状では、それが精一杯かもしれんな。一刀の案を採用しましょう」 「了解した。ならばすぐに伝令を発し、策殿に交渉をお願いするかの」 「それが良いでしょ。あとこちらの案も伝えておくように」 「うむ。……誰かある!」 祭は一刀を降ろし、伝令役の兵士に命令を伝える。 「策殿に伝令を放て。内容は───」 祭が忙しく指示するのを一刀は横で見ていると、冥琳がこちらを見ている事に気付いた。 「どーしたの?」 「いや……何故あんな策を思いついた?天の知識という奴か?」 「んとね…前に読んだ漫画に描いてあったの」 「漫画?描いてあるという事は書物か何かか?」 「うん。絵がいっぱい載ってて、すっごくおもしろいんだよー」 冥琳は今一ピンとこないのか、少し首を捻って、 「…まあいい。だが、流石は雪蓮の息子を名乗るだけの事はある。中々いい洞察力だ」 そう言って、一刀の頭を撫でた。 「えへへ…」 一刀は照れくさそうに鼻をこする。 「ふむ…。どうしようかと思ったが…一刀、早く母に会いたくはないか?」 「ふえ?母様に会えるの?」 「ああ。但し…戦場でだがな」 「せんじょうって…せんそうするの?」 「ああ。雪蓮もお前ぐらいの時はもう戦場に居た」 「母様も?」 「そうだ。だから母に出来た事を息子のお前に出来ない道理はあるまい?」 言われて、一刀は少し考える。 戦争というのは怖いもの、危ないものだとは知っている。でも母には早く会いたいし、 何よりここで情けない姿を自分の尊敬する人たちに見せたくは無かった。 他人が聞けばちっぽけなプライドと笑うかもしれない。だが、幼い一刀にはそれが大切な事に思えた。 「…行きます。ちょっと、怖いけど…」 「そうか。なら部屋に戻って準備をしておけ。忙しくなるからな」 「はい!」 一刀はそう返すと自分の部屋へと走っていく。 冥琳はその後姿を見送り───安堵の混じったため息を付いた。 「随分と悪辣な手を使うものじゃ。儂なら連れてなぞ行かんものを」 いつの間にか後ろに立っていた祭が、批難する様な調子で声を掛けてくる。 「この世界に住んでいればいつかは経験しなければならぬこと。なら早いほうが良いでしょう」 「早すぎる…とは思わんのか?」 「状況がそれを許してくれません。それに…一刀には戦場に立つ義務がある」 「策を出し、それが採用された結果を見届ける義務、か。5歳の幼子に背負わせるのは些か重いのではないか?」 「それでも背負わなければなりません。…それが人の上に立つものの責務ですから」 「やれやれ…お主、それは教育のつもりか?」 冥琳はその問いに笑顔で答える。 「母親があまり教育熱心ではありませんからね。周りがしっかりと教えてやらないと」 黄巾の乱討伐───。 これが北郷一刀、5歳にして初の初陣であった。 数刻後───荊州の平原地帯に孫家の軍は布陣をしいた。 数は約1万。ほぼ全力の出撃である。 「いよいよ戦乱の幕開けね…ふふっ、ゾクゾクしちゃう」 雪蓮が興奮を抑えるように笑う。今この時より自分達の野望は始まるのだと思うと、身体が疼き今すぐ戦場に駆け出したくなる。 待ちに待った独立の一歩が始まるのだ。 「まあ気持ちは分かるが…初陣の相手が黄巾党というのは物足りないにもホドがあるな」 「まぁ勘を取り戻すには丁度良いとも言えるがの」 祭がからからと笑う。 「兵の錬度を維持するために調練だけは欠かさずやってましたけど、実戦を経験しない事には仕上げも出来ませんし〜」 「この戦いで私たちの強さを喧伝出来れば、これからの戦いも楽になるでしょ。最高の勝ち方をしないとね〜♪」 雪蓮はそう言って傍らにいる一刀を見る。 一刀は緊張しているのか、戦衣としてあつらえた白い服を着て固まっていた。 「一刀ってば、大丈夫?」 「ふ、ふえ!?」 雪蓮の事すら気付いてなかったのか、一刀は目を白黒させている。 「…ねえ冥琳、やっぱり一刀にはまだ早かったんじゃないかしら?」 「一刀自身が決めた事だ。それに雪蓮も私もこの位の歳で初陣だったろう?」 「そりゃそうだけど…」 雪蓮はそう言いながら一刀の方に向き直ると、ぎゅっと一刀を抱きしめた。 「ふあ…」 「ふふっ、緊張してる?」 「そ、そんな事…な、いよ?」 「そんなすぐにバレる嘘は吐いちゃダメ。初陣は誰でも怖いものよ?」 「あう…ごめんなさい」 「いい?絶対に前に出ちゃ駄目よ?ちゃんと冥琳や穏の後ろに居る事。母様と約束して」 「うん…分かった」 「良い子ね…それじゃ、母様は悪い人たちをやつけてくるから♪」 雪蓮は一刀の頭を撫でると、すぐに戦場に向き直る。 「祭、冥琳…一刀のこと、頼んだわよ?」 「心得ておる。して、どう当たる?」 初陣であるからこそ、強さを喧伝するためにも圧倒的勝利でこれを収めなければならない。 「そうだな…火を使うのはどうかしら?」 「良いわねー♪それじゃ、先鋒は私が行くわ」 「では先鋒は雪蓮と祭殿で。私と伯言は左右両翼を率い、時機を見て火を放ちます」 「了解した。…策殿。くれぐれも暴走せんでくれよ?」 「んー…分かんない」 「後ろで息子が見ておるのじゃ。母として無様な姿は見せられんじゃろ」 そう言われて雪蓮は一刀の方を見る。 「が、頑張って…!」 ───初陣で怖いでしょうに。あの子ったら…。 震えながら必死に応援しようとするその姿に、雪蓮は苦笑い。 「ま、一刀が惚れちゃうぐらいには暴走しようかな♪」 「……火に油じゃったか?」 祭がこめかみに指を当ててひくひくと笑う。 「ふふっ…さあ、遊んでないで。雪蓮、号令を」 「了解♪」 雪蓮は部隊の先頭に立ち、腰から刀を引き抜く。 「勇敢なる孫家の兵たちよ!いよいよ我らの戦いを始める時が来た!」 「新しい呉のためにっ!先王、孫文台の悲願を叶えるためにっ!」 「天に向かって高らかに詠い上げようではないか!誇り高き我らの勇と武を!」 「敵は無法無体の黄巾党!獣じみた盗賊共に容赦は不要!孫呉の力を見せつけよ!」 「剣を振るえ!矢を放て!正義は我ら孫呉にあり!」 その号令とともに、兵たちが雄叫びをあげる。 「全軍、抜刀せい!」 「全軍突撃せよ!」 ここに、孫呉復興のための第一歩が始まった。 戦いが始まって数刻…一刀は冥琳の横で戦場を眺めていた。 人間が───戦い、傷つき、血反吐を吐きながら死んでいく。 昔、怖がって見れなかった戦争映画以上の現実がそこにあった。 「これが…せんそう…」 「おや、敵が崩れましたねぇ」 「頃合だ。……穏!」 「はぁ〜い♪それでは皆さん、火矢の準備はよろしいですかぁ〜?」 穏は引き連れている弓隊に命令を飛ばす。 「では一斉に発射しましょう〜♪せーのぉ…発射ぁ〜♪」 その号令と共に、一斉に火矢が放たれる。 2千からの弓隊から放たれる数の火矢だ。相手がどれだけ居ようが、消火が間に合うはずがない。 事実、黄巾党の陣は遠目から見ても大混乱の呈を為していた。 「命中命中〜♪良い感じに火が燃え広がってくれてますねぇ〜」 「よし。前線の孫策に伝令を出せ!機は熟した!今こそ総攻撃の───」 しかしその冥琳の言葉は、戦場を観察していた兵士の言葉に遮られる。 「孫策殿の前線部隊、突撃を開始しました!」 …その報告を聞いて冥琳はこめかみを押さえた。 「…はぁ。相変わらず独断専行するんだから」 「孫策様は天性の戦上手ですから。私たちの指示よりも早く勝機に気付いたんでしょう」 「時々あの子の軍師をしている事に首を傾げたくなるわ……」 「ううっ、それはありますねぇ〜…」 孫呉の誇る2大軍師が揃ってため息を付いている横で、一刀はまだ戦場から目を離せずにいた。 「…」 「怖いか?」 「ふえ!?」 「初陣ですもんねぇ〜。まあ仕方ありませんよぉ〜」 穏が後ろから一刀を抱きすくめる。普段なら恥ずかしがるところだが、そんな余裕も今の一刀にはない。 「人が……死んじゃってる…」 「そうだ。戦えば人は死ぬ。敵味方問わずな。……それが現実だ」 冥琳は一刀の横に立ち、語りかける。 「お前の居た世界では戦は無かったのか?」 「…わかんない。でもせんそうっていうのはあったとおもう」 「そうか…。なら人間同士が戦う限り、どの世界でも同じはずだ。矢で撃たれれば、剣で斬られれば、槍で突かれれば人は死ぬ」 「だから私たち軍を率いる者は…いえ、人間である限りこの現実から目を逸らしちゃいけないんですよ」 穏は腕の中の一刀に顔を近づける。 「全てを背負え、とは言いません。そんな事誰にも出来ませんから」 「だが、少なくともお前はそれを見届ける責任がある。…だから目を逸らすな。己の居る世界の“現実”を受け止めろ」 「現実…」 一刀の居た世界では戦や殺し合いなどはTVの中の出来事だった。 それは毎朝、只の情報として───あくまで知識として見るものであった。 しかしそれは決してTVの中だけの出来事ではない。 幼い一刀でも、冥琳の言った事が事実であるという事は分かる。 「これが、せんそうなんだよね…」 だから今は言われた通り、目を逸らさないで見ようと思う。きっとそれが今の自分に出来る事だから。 前線では勝ち鬨の声が上がってる。戦は目論見どおり、孫呉の圧倒的大勝で終わった。 その後、黄巾党を撃破した孫策たちは意気揚々と荊州の本城に引き上げた。 「あなたのお望み通り、黄巾党の本隊を撃滅してあげたわよ。……これで満足かしら?」 「うむうむ。ご苦労なのじゃ」 雪蓮の目の前に座る女の子が尊大な態度で労いの言葉を掛ける。 この少女こそ、荊州を治める太守───袁術その人である。 (ま、私たちの敵でもあるんだけどね…) その一言は心の中に仕舞い、表情は勤めて冷静に保つ。 「それだけ?私が欲しいのは労いの言葉じゃなくて、約束の履行なんだけど?」 「約束?何のことじゃ?」 (このクソガキ…) 腸が煮えくり返り、表情に出そうになるのをこらえる。 「……反故にしようと言うの?時機が来れば孫呉の再建に手を貸すという約束を」 「おおーそう言えばそんな約束もしておったのぉ。じゃがな、孫策よ。今はその時機ではないと妾は思うんじゃがの〜」 「はい〜。今は黄巾党が暴れてますから、とてもそんな余裕はありませんし〜」 「張勲の言うとおりじゃ。ま、おいおいの」 見るからにこちらを見下した笑いと目に、雪蓮は軽い吐き気を覚えた。 (一刀と同じぐらいの背なのに、人間こうも尊大無知になれるとはね…) 自分を母と呼ぶ少年の事を思い浮かべる。こんな下衆ではなく、あの邪気のない笑顔を早く見たいと思った。 「…まあ良いわ。荊州に侵入して来た黄巾党の本隊は殲滅した。分隊の方はあなた達で何とかしなさいな」 「言われんでもすぐに殲滅してやるのじゃ」 「そうだそうだぁ〜」 「…あっそ。じゃあお手並み拝見と行くわ」 「うむ。……ご苦労孫策。下がってよいぞ」 そう言われる前に踵を返している。一秒でもこいつらと一緒の空気を吸いたくない… 怒りを勤めて堪えながら、雪蓮は玉座の間を後にした。 「ふぅ〜〜〜。ああ〜〜…腹立つ〜…」 「お疲れ様。その様子では吉報はなさそうね」 本陣で待っていた冥琳が労いの言葉を掛けてくれるが、雪蓮の怒りはそれでも収まりそうにない。 「また約束をはぐらかされたわ。…むかつくったらありゃしない」 「袁術さんたちの狙いは精強で鳴る孫呉の兵をこき使う事ですからねぇ」 「本人達は意図を隠してるつもりらしいがな」 そう言って、冥琳もため息をつく。 「ミエミエ過ぎるから余計にむかつくのよ!」 「全くじゃな」 「だが今袁術に楯突くのは得策ではあるまい?……機が熟するまでの我慢じゃ」 「分かってます。分かってますけど…あぁもう!」 と、そこで雪蓮はいつも居るはずの顔を見ない事に気が付いた。 「…一刀は?」 「はい〜。初陣でお疲れになったみたいで、今は天幕の中で寝てますよ〜」 「勝ち鬨が上がったのに気が抜けたのか、後方に移動したらすぐに眠ってしまってな。 まあ、戦場から目を逸らさなかっただけ合格というところだ」 「そう…」 とりあえずの無事に雪蓮は安堵した。 「…行ってやれ。このところ忙しくてろくに話もしてないのだろう?」 「…いいの?」 「まだまだ母に甘えたい時期に戦場に立ったんじゃ。坊も不安で仕方なかろう」 「そういう事だ。あとの事は私たちでも任せて、な」 「大事な天の御遣い様ですからね〜♪」 雪蓮は少し考え、部下たちの気遣いに答える事にした。 それにこのモヤモヤとした気分が、一刀に会えば少しでも晴らせる気がしたから。 「それじゃ、私は一刀のところに行ってくる。後よろしくね?」 「分かった。ゆっくり休んでね雪蓮」 ───こうして、孫策率いる部隊は黄巾党の本隊を撃破し、名とその武を荊州に知らしめた。 時は三国時代の初期……孫呉復興の第一歩となる戦がここに終わったのである。