曹操と孫策。 言うまでも無く、三国志における二代英傑である。 どちらも英雄として相応しい資質と力量を持ち、そしてそれに相応しい将と兵を揃え、 今回の決戦に臨んだはずだ。 そして、天は孫策に微笑んだ。 ただそれだけの事だ。 しかし、それが今の両者の立ち居地を明確に分けている。 勝者と敗者。 戦いを制した者と、戦いに敗れた者───。 「さて…最終幕、と行きましょうか」 雪蓮が静かに剣を構える。 燃え盛る炎が、鈍く刀身に反射して輝いていた。 静寂と膠着は数秒のことであった。 「……はっ!ここで貴様を殺せば、まだ終わらんさ!」 そう叫んだ夏候惇が、大剣を振りかぶり雪蓮に斬り付ける。 揺れる船上をものともせず、全身の膂力と勢いをそのまま雪蓮の刀に叩き込む。 しかし、雪蓮は動かない。 夏候惇の一撃は、速い。振り下ろされた刃は雪蓮を切り裂こうとするが───。 「───っ!?」 キィンッ!と甲高い音を立てて、金属通同士のぶつかる音が響く。 夏候惇の振り下ろした大剣が雪蓮の届く前に阻まれていた。 「我が王に無粋な刃は届かせぬ…!」 「甘寧か…!」 鈴の音を響かせて。 思春の刃が、夏候惇の頚を目掛けて奔る。 夏候惇は仰け反って何とかそれを交わすが、思春の連撃は止まらない。 一合、二合と。 徐々に追い詰められていく。 「ぐぅっ…!」 「っ!姉者!」 夏候淵が、矢を番え、夏候惇を援護しようと動く。 「おっと、貴様の相手は儂じゃ」 今まさに放とうとしていた夏候淵の目の前に、どこからか放たれた矢が突き刺さる。 雪蓮の後ろから弓を構え現れたのは───祭だった。 「ふふっ…二度目かの、この船に乗るのは。もっとも、あの時とは逆じゃがな」 「……裏切り者が何を言うか!」 「おうおう。見事に騙されよった阿呆どもが吼えよるわ。恨むのなら、我が身の甘さを恨むんじゃな」 「貴様っ!」 「…止めなさい秋蘭!」 祭の挑発に激昂し、剣を抜いて飛びかかろうとする夏候淵を、曹操が制した。 冷静な目で周囲を見回す。 周囲に踊るのは呉と劉備軍の旗───どうやら完全に包囲されているらしい。 孫策自身がここに乗り込んできたのがその証拠だ。 (……我が命運も、ここまでか) 曹操の心に、諦めに似た感情が生まれる。 乱世で覇を唱える身だ。まともな死に様など、最初から望んではいない。 ならば最後は潔く。 覇王は最後まで覇王らしく散るのが華というものであろう。 「……孫策、一つだけ約束しなさい」 曹操は、己が得物を手に雪蓮の前に歩み出た。 思春と祭が警戒しながら雪蓮の前に出るが、雪蓮はそれを無言で制する。 「なにかしら?」 「我が命の対価として…私の部下たちを助けなさい。それで十分なはずよ」 曹操の言葉に、後ろに居る魏の将たちが息を呑む。 「か、華琳様!?何を…!」 「そうです!何故、華琳様が死なねば!私の!この夏候元譲の頚を差し出して下さい!」 「お黙りなさい!」 口々に異を唱える将たちを曹操が一括した。 「……この曹孟徳に、部下の命を差し出して助命を乞え、と言うのかしら?」 「そ、それは…」 「そのような事、この私の矜持が許さないわ」 曹孟徳は矜持と誇りを持って、天下に覇を唱えたのだ。 故に、最後までそれを貫いてこそ華。 この頚にはまだそれだけの価値があるのだから。 「ふぅん…我が身を犠牲にして部下を助けるか。美談ねぇ」 「……何が言いたい?つまらぬ挑発なら───」 「涙を流して感動して欲しかった?でも私、そういうお約束の悲劇って嫌いなのよね」 「……」 雪蓮の言葉に、曹操は露骨に警戒を強める。 この状況において話をはぐらかす雪蓮の意図が読めなかった。 「ま、余興はここまでにして───本題に入りましょうか」 「本題…?一体何を言って」 「端的に言うわ。曹操…このまま覇業を捨て、私たちと和睦を結びなさい」 雪蓮の一言に、周囲の誰もが沈黙した。 曹操側はその発言の真意を計り、呉軍は回答を待つ。 燃え盛る戦場に、奇妙な静寂が生まれていた。 「……情けのつもり、かしら?」 しばらくして、曹操が怒りを滲ませながら言った。 敵に情けを掛けられる。 それは覇王と呼ばれた者にとっては最大限の屈辱であった。 「あら、私がそんな甘い王に見える?」 「ふざけた事を…!何が言いたい、孫策!?」 曹操が激昂しながら武器を構える。 雪蓮はそれを見て、冷笑しながら鼻で笑う。 「簡単な話よ。呉やその他の他国に対する領土的野心を捨てるなら、ここで助けてあげるってこと」 「ふざけるな!この私に覇業を捨てろだと!?…貴様、それでも乱世の英雄か!」 「あなたこそ、自国の民を見捨てて逃げるなんて…それでも王のつもりかしら?」 「……っ!」 その言葉に曹操の顔に迷いが滲む。 自分を慕い、自分の器を信じて着いてきてくれた兵や民。 その想いの価値は、雪蓮に言われるまでもなく曹操自身が一番良く知っていた。 「私はね、責任を果たせと言っているのよ。少なくとも、あなたが覇王を名乗るならね」 「何っ…!?」 「新天地を目指す?天に果てはない?なるほど、それも良いわね。…でも、あなたに見捨てられた民はどう思うかしら?」 「っ…!」 「戦に敗れたから、民を捨てて新たな天とやらに逃げる…それが王のすることと、本気で思っているの?」 「───貴様らがっ!」 瞬間、曹操の身体が跳ねる。 手にした武器で雪蓮の頚を刎ねるために。 雪蓮も剣を構え、それを迎え撃つ。 「我が覇道に協力すれば!それで事は済んだのだ!それをっ!」 狭い甲板の上で、お互いの得物がぶつかり合い、弾け合う。 まるで互いの信念をぶつけ合うかのように。 「傲慢ね…」 雪蓮は曹操の斬撃を冷静に受け止めながら、言葉を続ける。 「その傲慢さが───この惨状を招いたと知りなさい!」 「…っ!?」 雪蓮の強烈な一撃に、曹操の身体がよろめき、 「はぁぁぁっ!」 返す刀で放たれた一撃が、曹操の手から得物を奪い去った。 「はぁ…はぁ…!」 荒い息を吐く曹操に、雪蓮は剣を突きつける。 「くっ…!殺せ!」 「あなたを殺すなんて、いつでも出来るわ」 そう言うと雪蓮は剣を降ろす。 そして、曹操の目を真っ直ぐに見ながら言った。 「もう一度言うわ。私たちと和睦を結び…王としての責を果たしなさい」 「それは…あなたたちに降れという事?」 「さあ?そんな形式なんて、興味ないわ」 雪蓮は本気でどうでも良いと言うふうに笑う。 「私たちは、我が父祖の地───江東の自由と平和のために戦ってきた。天下の統一はその手段にしか過ぎないもの。 その上で、大陸の全ての民の平和も守られればそれでいい。……違うかしら?」 「……」 雪蓮の言葉に、曹操が再び押し黙る。 大陸の自由と平和───曹操とて、そのためにこれまで戦ってきた。 願うのは大陸全ての民の平穏と幸福。 故に曹操は覇道を歩んできた。血塗られた道の先に、幸福があると信じて。 「……責任、か」 静かに目を閉じる。 そこに浮かぶのは目指した理想、その根本だ。 「確かに、私は王としての責務を果たしていなかったわね…」 「華琳様…」 「桂花、伝令を呼び戻しなさい。曹孟徳は健在なり。本城に戻り、この戦の始末を付けると」 「は、はい!」 「秋蘭。全軍に戦闘停止命令。負傷者の救助と手当てを急ぎなさい」 「…御意!」 それまで事の行く末を見守っていた魏の将たちが、曹操の指示を受けて各所に散っていく。 雪蓮たちはそれを阻もうとはしない。 「……これで良いのね?」 「ええ。思春、こちらも全軍に停戦命令を。劉備軍にも伝えなさい。…戦いは終わったと」 「はっ!」 雪蓮の命を受けて、思春が伝令に指示を伝えて行く。 これで両軍の戦闘は収まるだろう。 「孫伯符の名において、ここに宣言する!我らは平和を得たり!永き戦乱の世は、ここに終結したと!」 雪蓮の力強い宣言が未だ紅く照らされた夜空に木霊する。 それは、長い長い闇を抜け、新たに輝く時代の幕開け───その産声でもあった。 だが、産まれるものがあれば、消え行くものもまた存在する───。 夢を───見ていた。 それはどこか懐かしい、だが忘れられない大切な夢。 幼い頃に交わした約束。 そして笑いあった日々。 「──琳!冥琳!」 自分の名前が呼ばれる。 愛しい人の声。絶対に忘れるはずがないその声。 「雪蓮…か…」 「ええ。私よ…ここに居るわ」 冥琳の視界に、微笑む雪蓮の顔が映る。 その周囲には蓮華や小蓮、祭や穏、そして……一刀が居る。 ───もはや、立っても居られぬか。 冥琳は心の中で苦笑する。 どうやら、最後の気力も尽き果てたらしい。 「戦は…?」 「私たちの勝ちよ…。当たり前じゃない。私と───あなたが居て、負ける訳ないわ」 「そう、だったわね…」 雪蓮の言う通りだ。 自分と雪蓮が居て───呉が負けるはずがない。 ずっと…そうしてここまで歩んできたのだ。 「でもこれからが忙しいわよ?国を立て直して、政治を整えて…冥琳にはいっぱい働いて貰わないと」 だから、と。雪蓮は言った。 「だから…だから!勝手に死ぬなんて許さないわよ」 そう言った雪蓮の顔が、今にも泣き出しそうに見えて。 冥琳は微笑みながら、雪蓮の頬に手を添える。 「ふふっ…分かっているでしょう。これは、天命。命が尽きるのはもはやどうにも出来ないわ」 「でもっ…!」 「雪蓮…私の役目はこれで終わり。あとは───あなたの仕事よ」 天下三分の計は為った。 少なくとも、これで戦乱は治まるだろう。 ならば───周公謹の為すべき事は全て終わった。 「一刀…ここへ」 「うん…」 呼ばれた一刀が傍に座る。 冥琳は腕を伸ばし、その頭を優しく撫でた。 「お前が居てくれて…私は幸せだった…。ありがとう…」 「僕…僕…もっといっぱい冥琳おねーさまにお勉強を教えて貰って、いっぱいお勉強して…!」 一刀の瞳が涙で溢れる。 分かっているのだ。これが冥琳との最後の時間だと。 「泣くんじゃない…。男の子だろう?」 「でも…でもぉ…!」 「これからは…お前たちが呉の未来を作っていくんだ。私の代わりに───雪蓮を、皆を支えてやってくれ」 「……」 一刀は袖で涙を拭いて───涙で濡れた笑顔を作る。 強くて、優しくて…泣き虫で寂しがり屋で 故に何より愛おしい一刀のその笑顔が。 死に行く自分の魂に安らぎをくれるのだ。 冥琳は優しく微笑み、一刀の頬を撫でた。 まるで、子を慈しむ母親の様に。 「雪蓮…一刀の事を頼む」 「───ええ。立派な子に育てて見せるわ。向こうで悔しがっても知らないんだから」 「ああ。文台様と…楽しみにしているさ」 そう言って、お互いに笑い合う。 ───私たちには、こんな別離が相応しい。 冥琳はそう思う。 湿っぽい別離など、自分たちには似合わない。 「さぁ……もはや終幕……」 為すべき事は為した。 もはや未練はない。 「皆…先に逝く。あとは…頼むぞ……」 そして冥琳は目を閉じた。 その顔は安らかで───満ち足りた、優しい顔をしていた。 「……」 雪蓮は無言で冥琳の亡骸を抱き上げた。 「あなた…こんなに軽かったのね…。ふふっ、知らなかったわ…」 優しく、優しく雪蓮は冥琳を抱きしめる。 己の半身を。 大切な───誰よりも大切な、愛した人を。 ここに───赤壁の戦いは終わった。 時代は犠牲となった者達を糧に、新たな産声をあげ、未来へと時を刻んで行く。 時は三国時代。 こうして、永きに渡る戦乱は終わりを告げた。