───あなた、お名前は? 初めにそう声を掛けたのはどちらだったろうか。 季節は春だった。桃の花が咲き誇る、その大木の下での出会い。 ───私は雪蓮!よろしくね、冥琳! 屈託のない、真名を教えあった時の無邪気な笑顔に、自分は惚れたのかもしれない。 その出会いこそ……その笑顔こそ、自分の人生を決め、ここまで歩ませてきた原動力だ。 十二年前の誓い。 幼き二人が交わした約束。 それが今、現実のものになりかけている。 手の届くところまで来ている。 故に───それまでこの身は倒れる事を許されない。 それこそが……周公謹の生きる“全て”なのだから。 「がふっ…!」 今日何度目かの吐血が冥琳の肺腑を突きぬけ、暗い長江の水面へと消えて行く。 既にもう内臓は病に蝕まれているらしく、その顔色も既に青を通り越して白くなっている。 「───長くは、ないな」 冥琳は荒い息を吐きながら苦笑した。 死の病に冒されいる身だ。いつでも死ぬ覚悟は出来ているが、それでも普段通りに振舞うには 少しばかり骨が折れた。 「ぐっ…はぁっ…!」 ボタボタと。 また赤い液体が冥琳の口から吐き出される。 思わず膝が崩れそうになるが、船縁を支えにしてなんとか持たせる。 ここで倒れれば───二度と立ち上がれないと知っているから。 自分は、意地でもボロボロの身体を支えなければならない。 そのときだった。 「───冥、琳…」 後ろから、声が聞こえた。 よく知っている。聞き間違えるはずのない、愛しき人の声。 そして、自分のこんな姿を誰よりも見られたくない人。 「───っ!雪蓮…」 「やっぱり……なのね?」 雪蓮が眉を顰め、冥琳の身体を抱きかかえる。冥琳はそれを拒もうとするが、 度重なる吐血による疲労と、病に冒された身体は満足な抵抗も返せない。 「馬鹿…!何で、何で今まで黙っていたの!待ってて、すぐに医者を…!」 「止めろ雪蓮!…私は、大丈夫だ」 冥琳は震える手で雪蓮を引き剥がし、ふら付きながら離れる。 こみ上げてくる嘔吐感を押さえ、冷静な軍師としての仮面を付け直す。 「……医者など呼べば、皆が気付く。大事な戦の前だ。事を大きくすれば、全軍の士気に関わるわ」 「そんな問題じゃないわ!あなた…血まで吐いてたじゃない!」 「───孫伯符!」 冥琳が一括した。 まるで、母親が子どもを叱るときのように。 「あなたは天下を統一に導く使命がある…。その使命を負った者が、たかが部下一人の命を前に うろたえる姿を皆に見せるおつもりか!?」 「……っ!」 「例え身内が殺されようと……その屍の上で勝ち鬨を上げるのが王たる者の務め!それを忘れるな!」 ───例え自分が死のうとも。 呉は、雪蓮たちは残る。 呉の王が、その希望に安心して未来を任せられるから。 だからこそ、冥琳は安心して命の炎を燃やせるのだ。 「お願いよ、雪蓮…。もう少しだけ、ね?」 「冥琳…」 「そんな声を出さないで。私は…まだ死にはしないわ」 そう。自分はまだ死ねないのだ。 この戦が終わり、全てを見届けるまでは。 「ねえ雪蓮…私たちの誓い、覚えてる?」 「誓い…?」 「あの日、十二年前に───約束しただろう。天下を取ると」 それは子どもの頃に交わした約束。 聞けば誰もが笑いそうな、夢のような話。 「二人で天下を取る、か…。覚えてるわよもちろん」 忘れるはずがない、と。 雪蓮が懐かしそうに言った。 まだ子どもだった二人の大切な誓い。 それは雪蓮にとっても夢の原点だった。 「孫呉の旗が天下にはためくのもそう遠くはない。私はそう信じて、雪蓮に着いてきた。その器があるとな」 「……っ…」 雪蓮は冥琳が言わんとしてることを瞬時に悟る。 ───自分の屍を超えていけ。 そして、理想と夢を掴み取れ。 それが自分の信じた雪蓮であると。 「だから…お願いよ、雪蓮」 もう一度、冥琳は確かめるように言う。 それだけで───雪蓮は何も言えなくなった。 「ずるいわよ…。これじゃいつもと逆じゃない」 雪蓮が困ったように笑った。 「ふっ…たまには我侭を言ってもいいでしょう?」 「そりゃあね?でも…今回だけよ?」 二人で、笑い合う。 断金と呼ばれた仲だ。お互いの気持ちは痛いほど良く分かる。 故に、今はただ笑い合う。 その悲しさ、辛さを胸に秘めて───。 そして、その時は来る。 時刻は深夜。丑の時。 東南の風が吹き───魏の船団から出た火を煽り、水面を嘗め尽くす。 ここに、赤壁の戦い…その本幕が切って落とされた。 紅い。 紅い炎が暗い水面を照らし、さながら地獄の如くその上にいる船を嘗め尽くす。 それはまるで、龍の如く。 人知の及ばぬ力を見せ付けるように人と船を飲み込んで行く。 「曹魏の陣より船が出ました!恐らく祭様かと!」 曹操軍の陣を監視していた明命が報告する。 どうやら、こちらの策は見事に嵌ったらしい。 「祭は!?」 「ええと…曹魏の陣よりこちらに向かってくる船があります!」 「よし!全軍に通達!黄蓋の投降は裏切りにあらず!周公謹、一世一代の策だったと!」 雪蓮は腰の南海覇王を抜き放つ。 「冥琳!劉備陣営の動きは?」 「我らと同じく動き出してくれている。諸葛孔明、流石に早いわね」 「へぇ…やるじゃない」 雪蓮が感心したように言った。 冥琳の言葉を疑っていた訳ではないが、これほどまでに見事に動きをあわせてくるとは雪蓮も 考えてはいなかった。 敵に回すと恐ろしく、味方に回すと心強い。 伊達に乱世の英雄ではないという事だろう。 「すぐに作戦の主旨を告げる使者を出せ!連携して曹魏の陣を叩く!」 「御意!」 そう言うと、雪蓮は剣を掲げ、曹の旗の翻る船を指す。 狙うは大将の頚一つ。 「全軍に告げる!この戦によって曹操を完膚なきまでに叩き、我らの未来を手に入れるのだ!」 雪蓮の号令に、呉の兵が雄叫びを上げる。 「聞け!孫呉の兵たちよ!」 雪蓮が声を張り上げる。 「この戦を終わらせて…我らの願う平和を手に入れよう!」 誰もが望む、平和な時代。 安心して暮らせる時代。 それが目の前に迫っている。 「平和は無血にして得ること能わず!我が血を燃やし、汗水を拭い、血みどろになって手に入れるもの!」 剣を天に翳す。 失った命の───その無念を晴らすように。 「その命!燃やし尽くせ!我らが子の未来を!希望を守るために!」 「狙うは曹操の頚一つ!雑魚に構うな!我らの力を見せ付けろ!」 一方、曹操軍の艦上。 曹旗の翻る艦の上では、阿鼻叫喚の地獄絵図が生まれていた。 「うわああああああああ!火だ!火だぁ!」 「逃げろ!このままでは全艦が火災に巻き込まれるぞ!」 「ひいいい!も、燃える!だれかぁ!」 河に飛び込む兵、火にまかれて全身を焼かれながらのたうち回る兵、何とか部隊を纏めようと 怒号を上げながら指示を出す兵───。 しかし、そんな行動の全てを嘲笑うかのように、炎が全てを飲み込んで行く。 「落ち着け!手の開いているものは河から水を汲み、消火活動に専念せよ!」 夏候淵が懸命に指示を下すが、混乱した船上ではその声も兵たちの耳には届かない。 その間にも、火災は広がり続け、魏軍を焼いていく。 「くっ…!船酔いを避けるために鎖で船体を固定していたのが仇になったか!」 夏候惇が悔しそうに唇を噛んだ。 曹操軍は先日より、付近の漁村で聞いた噂を実践していた。 すなわち、船同士を鎖で繋げば、揺れが少なくなり、船酔いが収まる、と。 船戦には慣れていない曹操軍である。船酔いと南方特有の疫病には散々に苦しめられていた。 故に曹操の指示で導入したのだが、 「これも罠だったのか…!くそっ!」 「まずいぞ姉者!このままでは…!」 火勢は既に夏候惇たちのいるところまで迫っている。幾つか無事な部隊もあるようだが、 早く逃げなければいずれ飲み込まれるだろう。 そして、敵は火だけではない。 「今、敵に奇襲を受けたらひとたまりもない!」 目の前には呉と劉備の部隊がいる。 この好機が仕組まれたものだとするならば─── 「ああ!分かっている!夏候惇隊!許猪隊!典偉隊は前に出る!華琳様の陣に近寄らせるな!」 『御意!』 「ここで大敗を喫しようとも…華琳様だけは守ってみせる!この命に代えてもな!」 夏候惇は大剣を構え、眼前を見据える。 未だ敵は見えない。 だが、確実にいることは確かだった。 戦場が動き出す。 怒声が上がり、地が振るえ、斬られた者や射られたものが倒れ伏し、 血が流れ、屍が川を埋め尽くす。 これこそまさに最後の戦場。 最後の戦いに相応しい激戦だった。 だが、その戦にも徐々に趨勢というものが現れてくる。 天から眺める者がいたならば、恐らくその光景が良く見えただろう。 火に追われるものと、それを狩る者。 獲物は激しく抵抗するが、徐々に狩人に追い詰められていく。 例えるならそんな状況が長江の水面では繰り広げられていた。 「はっはっはっーーー!この黄蓋の道を阻むものはおらんか!」 先陣を切った祭の獰猛な笑いを含んだ怒号が響き、 「我らはこれより修羅となる!鈴の音が死の音だと、魏の下衆どもに教えてやれ!」 思春の鈴が鳴り、 「今です!大弩弓、一勢射!」 亞莎の的確な指示が曹魏の船を砕いていく。 敵軍が混乱したところに全力の部隊を叩き込んだのだ。 ましてや船戦に慣れた思春たちの部隊を中心にした、呉の精鋭である。 まさに鎧袖一触。 次々と魏の兵たちは血祭りに挙げられていった。 戦況は圧倒的に呉軍の有利に進んでいる。 「策殿!敵軍が退いていくぞ!」 前線にいた祭が叫ぶ。 「雪蓮!」 「分かってる。───聞け!孫呉の兵たちよ!」 雪蓮が前方を指し、号令を下す。 「我らはこれより敵本陣に突撃を敢行する!皆の命…この孫伯符に預けよ!」 『おおおおおおおおおぉぉぉぉぉーーーーー!』 「全軍抜刀!全軍突撃!行け!我らの未来のために!」 雪蓮が南海覇王を振るう。 決着の時は、近い。 曹操の本陣。曹旗の翻る艦上では、奇妙な沈黙が生まれていた。 近くに兵たちの悲鳴と怒号、そしてそれらが燃えて行く音が曹操の耳朶を打つ。 思わず耳をお塞ぎたくなるが、しない。今まで自分を信じ、支えてきてくれた者達が燃えて行く音だ。 王たる自分が、それを聞かずにいく訳が無い。 (……もはやこれまで、か) 冷静な自分が判断を下す。 相手に倍する兵を揃え、存分に戦いうる将と状況を作り上げ、万全の態勢を整えて 戦に望んだ。 だが───負けた。 敗因は己の甘さか。 それとも慢心か。 だが、今となってはそんな事などただの言い訳にしか過ぎなかった。 「華琳様!後方より敵軍が突っ込んできます!このままでは戦線が…!」 「……天は我を求めず。時代は覇より均衡を選ぶか」 曹操は一度だけ天を仰ぐ。 天命、天佑、天啓───散々信じた挙句、この体たらくか。 「ならば、我は天を求めず…」 自分を見放した天などに縋るのは止めだ。 やはり、覇道は己が手で切り開いてこそ価値がある。 曹操はニヤリと笑みを浮かべる。 大敗したこの状況においても、その顔に満ちる自信は揺るがない。 「春蘭!」 「はっ!」 「この戦場を放棄し、撤退する。可能な限り兵をまとめ、一点突破で包囲を抜ける」 「御意!」 夏候惇が応える。 その覇気は未だ衰えてはいない。 「桂花」 続いて曹操は荀ケに向けて言った。 「はっ」 「本城に伝令。曹操は本城に帰らず。あとは自由にせよ、と伝えなさい」 「本城に帰還なさらないのですか!?」 「本城に戻って抵抗すれば、民にも被害がでるでしょう。そんなことは…私の矜持が許さないわ」 これほどの損害を受けたのだ。例え本城に戻ったとしても、敗北は免れない。 幾ら城塞化されているとはいえ、洛陽は多くの民が住む都市である。 両軍の苛烈な攻撃を受ければ民を巻き込んでしまうだろう。 「しかし…では我らはどうするのです?」 曹操の言葉に、困惑しながら夏候淵が問う。 「我らは新しい天地を目指す」 「新しい…天地?」 「そう。天はこの大陸だけにあらず。大陸の天を孫呉と劉備で二分すると言うのなら、私は違う天を独占して見せましょう」 例えばこの時代、すでに後世における日本は発見されている。 もちろんそこにも蛮族はいるだろうが───曹操であれば容易に統一出来る事であろう。 「西方、東方───天は果てを知らず、よ」 「へえ…。でもそれって、ここから無事に逃げられたらの話よねぇ?」 「……っ!?」 曹操は背後から襲ってきたすさまじい殺気に、武器を構え振り向いた。 「くっ…!もうこんなところまで!」 大剣を構え、曹操の前に出た夏候惇の声に焦りが滲む。 眼前にいる相手は、それだけの人物ということだ。 「新天地だのなんだの…まずは生き残ってからにしたら?」 炎の中から、その姿が現れる。 流れるような長い銀髪。そして切れ長の目が美しい、整った顔立ち。 「はぁい。お久しぶりね、曹操?」 小覇王、孫伯符がそこにいた。 時は三国時代───外史はついに終曲を迎える。 その結末は……近い。