黄蓋脱走───。 その報はすぐに呉軍の陣内を駆け巡った。 「慌てるな!すぐに追撃隊を出せ!」 混乱する陣中の中心で雪蓮が号令を飛ばす。 呉の宿将───最古参の黄蓋が脱走したとあって、兵の間にも動揺が走っている。 ここで混乱を大きくするわけに行かなかった。 「祭……何故私たちを裏切った…!」 蓮華が悔しそうに唇を噛んだ。 「裏切った、ねぇ…。ふふっ、祭ってばやってくれるじゃない」 「ね、姉様!こんな時に何を笑ってらっしゃるのですか!」 「落ち着きなさい。ほら、あなたも祭を追って。追撃の指揮は穏に任せるから、そのつもりでね?」 「の、穏にですか…?」 蓮華がきょとんとして首を傾げる。 蓮華としては、てっきり自分が追撃の指揮を執るものだと思っていたが、どうやら違うらしい。 「今のあなたじゃ冷静な判断が出来ないでしょ?という訳で、穏。よろしくね?」 「はいはーい♪それじゃ皆さん、完全武装した後、一生懸命追うフリをしましょう〜♪」 祭のいつも通りの暢気な言葉に、皆がいっせいに「はぁ?」という顔をした。 「あ、あの…フリなんですか?」 そんな皆の疑問を代表するように、亞莎がおずおずと手を上げて質問する。 「……てへっ。間違いちゃいました♪それじゃ皆さん!完全武装して一生懸命祭様を追いかけましょう〜!」 えいえいおー!と穏が気合を入れるが、誰も答えない。 代わりに返されたのは雪蓮の苦笑と、皆の疑問符を浮かべた表情であった。 河の上、というものはとても寒い。 特に吹きさらしの甲板の上ならなおさらである。 特にこの時機は気温も下がりやすく、また風も強い。空気も乾燥しているため、 刺すような寒さが甲板に立つ祭の肌を突き刺していた。 月は新月───かがり火で照らされていなければ、周囲はすぐに漆黒に包まれている。 「ふむ…奇襲には持って来いの闇夜だな」 祭は両腕をさすりながら、ニヤリと笑った。 あそこまで大騒ぎをして出てきたのだ。今頃、呉軍の陣中は大騒ぎになっている頃だろう。 恐らく堅物の思春あたりが怒り、明命が混乱し、蓮華が憤っているに違いない。 祭はその様子を想像して、またニンマリと笑う。 「くくっ…あやつら慌てておるじゃろうなぁ」 「何を笑っているのですか。形だけとは言え、味方を裏切った事になっているというのに」 横に立つ副官が思わず窘めた。 祭はふんっと拗ねたような顔をすると、闇夜に目を凝らす。 「追撃部隊は?」 「そろそろ見えてくる頃ですが…来ましたな」 その言葉と同時に、鬼火のようにかがり火を照らして、船影がぞくぞくと現れる。 まだ距離はあるがその数は多い。 おそらく追撃してきた呉の部隊だろう。 「先頭は周と孫、それに呂───その後方に陸の旗が続いております」 「孫?蓮華様あたりかの?」 「…いえ、孫旗の色は赤。恐らく一刀様かと…」 「ほう…坊まで来たか」 祭は笑う。 赤い孫の旗は、あの曹操の侵攻の後に一刀用に作られた牙門旗。赤字に黒、威風堂々とした立派な旗である。 そして、それは一刀が正式に孫家の一員になった証でもあった。 雪蓮曰く「この戦いが落ち着くまでは正式に発表はしない」という事らしいが、 祭としてはやっと決めたかという感じだった。 「素直になれないのは孫家の血かのう…」 「三代にお仕えしている祭様にしか言えん一言で。…それにしても、やはり一刀様も来ましたか」 「ふむ。まあ、あやつの性格からして真っ先に飛んでくるじゃろ。坊はそういうお子じゃ」 「戦いにくいですな…。あの方は兵にもいたく人気があるようでして。小覇王の後継とまで讃えるものもおります」 「ほう。慕われておるのは聞いておったが…まさかそこまでとはの」 「常に戦場に立ち、驕ることもなく、我ら下々のものにまで屈託のない笑顔を向けてくれる───天の御遣いという 評判も影響を与えているのでしょうが…」 「うむ。あやつは呉を背負って立つ男じゃ。人気があるのは良いことじゃよ」 一刀の顔を思い浮かべながら優しく笑う。 祭にとっても、一刀は我が子同然の存在である。 自分の子を褒められて嬉しくない親はいない。 (───よもや儂が子を想う母になるとはのう) 戦ばかりの人生だった。すでに人並みの…女としての幸せなどとうに捨て去ったつもりでいたが。 (ならばこそ…) 祭は改めて表情を引き締める。 その子のために未来を切り開かなければならない。 「さて、無駄話はここまでにしておくかの。反撃の準備は?」 「既に。しかし本当によろしいので?我らが全力で反撃すれば、追撃部隊にも多少の被害は…」 「構わん。こんな茶番で死ぬ輩など、これから曹操との戦でも生き残れん。ならば殺してやるのが せめてもの情けというものであろう?」 「は、はぁ…。しかし、このまま曹操軍と激突するという可能性も…」 「引き際すら読めんバカモノどもならば、呉に必要なし。その場で死ねば良い」 そう言い切ったものの、本心から言っている訳ではない。 皆、この戦乱の世を生き抜いてきた優秀な若者たちだ。曹操軍が出張って来たとして、すぐに 取って返すだろう。 それを信じているからこそ、祭はこうして無茶な命令を下せるのだ。 「…分かりました。それでは全力で抵抗してよろしいのですね?」 「おうさ。曹操の目を誤魔化すためにも、追撃隊を全滅させる勢いでな」 「はっ!」 「さて。…我が肉を苦しめてまで準備したこの策。あの曹操がこの茶番にどこまで付き合ってくれるか、 それが見物じゃな……」 祭はしだいに近づいてくる呉の部隊を見る。 もうすぐ矢を射掛けられる間合いだ。茶番とはいえ、それなりに戦って見せなければあの曹操の目は騙せない。 「お互い、生きて合いたいの。なあ、坊よ…」 ふと呟いた祭の言葉は、静かに闇色の湖面に消えていった。 「前方!曹操軍の船も動き出しました!」 舳先で監視していた兵が大声で状況を伝えてくる。 既に追撃を開始してから半刻───冥琳と一刀の居る場所は、もう曹操軍の陣営は目と鼻の先だった。 闇夜は深く、暗く。湖面を漆黒に染めている。 そのため両軍もかがり火を盛大に焚いて、各船の距離を調整している。見つかるのは時間の問題であった。 「動きが早いな…。だが、迅速かつ的確な対応だ」 冥琳が冷静に呟いた。 前方の祭の部隊はどうやら攻撃を受けていない。曹操はそのまま受け入れるつもりだろう。 流石は覇王。その度量の大きさは噂以上のものが有る。 そして、そこが同時に冥琳のねらい目でもあった。 「冥琳おねーさま…祭おねーさま、大丈夫かなぁ?」 「心配するな。あの方は見事にお役目を果たしてくれた。あとは私たちがもう一働きするだけだ」 「ふえ?」 「少しぐらいは戦って見せんとな。祭殿の裏切りに信憑性が…」 と、冥琳がそこまで言った時───船の甲板に何かが刺さり、同時に周囲から悲鳴が上がる。 「わわっ!?」 「……!」 恋が槍を構え、一刀と冥琳の前に立つ。 虚空を見据えるその目に油断はない。 「───来たか!」 冥琳がそう言った瞬間、一刀たちの周囲にも矢が降り注ぐ。 前方の祭の部隊から射掛けられた矢は、正確にこちらを狙って来ている。 恐ろしく精度の高い射撃だった。 「祭殿の船団から矢が!こちらを狙っています!」 「落ち着け!こちらも反撃しろっ!」 「続いて曹操軍からも!祭殿の部隊を包み込むように動いているようです!」 「ちっ…!遅かったか!…すぐに部隊を後退させろ!今ここで戦端を開く訳にはいかん!」 相手は船の数においてもこちらより遥かに多い。 無闇に戦端を開いては、このままズルズルと引き込まれ、いずれ揉み潰されるのがオチだろう。 ならば引き際としては、今が最適。 後続の部隊が戦場に割り込んでくる前に後退して見せなければならなかった。 「後退した後、すぐに回頭して陣に戻る!敵の追撃が本格化する前に戻るぞ!」 「はっ!」 冥琳の号令以下、船団が次々に後退を開始する。 曹操軍もこちらに追撃を掛けて来ない。時折、誘う様な動きを繰り返すが、冥琳たちの部隊が それに乗らないと見ると、迅速にあちらも後退して行く。 「祭おねーさま…」 一刀がそれを見ながら、ぽつりと心配そうに呟く。 もはや黄の旗は曹操の陣に紛れて見えない。 「大丈夫だ。あの方は我ら呉の柱───きっと上手く行くさ」 そういって、冥琳は一刀の手を握る。 強く、まるで自分にも言い聞かせているかの様に。 「で、祭を連れ戻すのには失敗したと。そういう訳ね?」 雪蓮がふうと溜息を吐きながら言った。 ここは呉の本陣───今雪蓮は、帰還した冥琳たちに事の顛末の報告を受けていた。 「すまんな…全力で追撃したんだが、相手の動きが早過ぎた」 「良いわよ。無駄な損害を出さなかっただけ上出来よ。……まさか、祭が魏に奔っちゃうとは思わなかったわ」 「ああ。さて、これからどうするか…」 「……っ!何で冥琳もお姉様もそんなに落ち着いていられるのですか!」 突然、蓮華がバンッ!と近くの木箱を叩きながら叫ぶ。 どうやら雪蓮たちが少しも慌てていない事が気に入らないらしい。 「祭が魏に降ったのですよ!?呉の宿将が…あの祭が!」 「蓮華…落ち着きなさい。騒いでも事態は」 「これが落ち着いて居られますか!皆、私と同じ気持ちです!」 そう言うと、蓮華は一刀を抱き寄せてその後ろに立つ。 「一刀!一刀も言ってあげなさい!」 「あ、あの…えと…」 一刀は困ったように冥琳を見た。 当然、祭の裏切りが偽りであるとおぼろげながら聞かされているのだから、一刀はこの騒動が茶番であると知っている。 もちろん、ちゃんと蓮華にも話してあげるべきだと思うが……果たして、それを今、話して良いのか。 冥琳は一刀の視線を受けて、少し考える空を見上げると、 「…ふむ。まあそろそろ頃合だな」 「……は?」 蓮華がきょとんとしながら冥琳に問う。 「……まずは人払いを。雪蓮、蓮華様、穏、思春、明命、亞莎、一刀───それ以外の者はこの場から去れ」 「人払い?どういう事だ?」 「思春、明命。二人は周辺を立ち入り禁止にしてくれ。これから作戦の概要を説明する」 冥琳の命令に、二人も困惑しつつ動く。 周囲にいる護衛の兵も含め、主だった将以外を船の中へ移動させていく。 そうして暫く、冥琳は思春と明命の二人が人払いをするのを待ち───ようやく本題に入った。 「それじゃ、冥琳。蓮華も心配してるし…これからどうするつもり?」 人払いが済んだのを確認した後、雪蓮がそう切り出した。 周りの将たちも冥琳を注目している。 「どうするとは?」 「祭が裏切る訳ないでしょ?ということはこれはなんらかの策。……そろそろ明かしても良い頃じゃないかしら?」 さも当然、という具合に雪蓮が言った。 「……気付いていたのね。いつから?」 「最初からに決まってるでしょ。バカにしてたら怒っちゃうわよ?」 「ふむ。流石……というべきか。やはり雪蓮は戦の天才だな」 「ね、姉様?どういう事なのですか?」 「ご説明させて頂きましょう。……黄蓋殿の裏切り、これは偽りのものです」 冥琳は語り始める。 祭の裏切りの意味を。 「言うまでも無く、曹操の勢力は強大…。生半可な策では手の出し様がない」 その冥琳の言葉に皆が頷く。 それは昼間の軍議でも散々議論した事だった。 「だから私と祭殿で一計を案じ、両軍が揃うあの場で仲たがいをして見せた。…正直、祭殿があそこまで 完璧に息を合せてくれるとは思わなかったがな」 「つまり…あれは偽りだと?」 「はい。あそこで口論をしてみせれば、入り込んでいる魏の間諜に我々が不仲であると見えたことでしょう」 「そして私たちもまんまと騙された。だからこそ、祭を真剣に追って見せれてたって訳か」 狸よねぇ、と。雪蓮は可笑しそうに笑う。 冥琳は苦笑しながらそれを見つつ、また続けた。 「あとは…黄蓋殿が我々の総攻撃のきっかけを作ってくれるのを待って、我々が曹操を討ち取ればいい」 その言葉に、誰もが息を飲む音が聞こえた。 曹操を討ち取る───冥琳は、ここで初めてそう明言したのだ。 「…面白いじゃない」 雪蓮がニヤリと笑う。 「良いわ。それで───私たちはどう動けば良いの?」 「曹操に降った祭殿は…受け入れられたとするなら恐らく最前線に配備される事でしょう」 「あからさまにおかしな降伏をして来た者を最前線に置く。あの曹操が好みそうな事ね…」 曹操は覇王である。故に、曹操は天下に大度を示さなければならない。 常に天下に王道と器量、そして己が正義を示す。 そして人々はそんな曹操を王と認め、力を貸し、金を出し、命を捨てる。 それが曹操を覇王とたらしめている力───風評というものだ。 しかし、それは裏を返せば弱点とも成る。 確かに風評というものは大きな武器だ。だが…風の字の如く、それは移ろい易いもの。 常に覇王の度量を示さなければ、今まで曹操に付いて来た全てのモノが失われてしまう。 だからこそ、冥琳は確信を持って言い切れるのだ。 曹操は、降ったばかりの黄蓋を先鋒に据えると。 「この際、黄蓋殿は部下を曹操の部隊の各所に侵入させ、混乱を助長するように動く。 それを待ち、我らも工作員を放って潜入させ、敵陣営の船に火を放つ」 「そこを私たちが突撃して……曹操の頚を取る、という事ね?」 「そうだ。無論、我らだけでは兵数が足りない。劉備たちが連携してくれるかが前提となってくるが…」 それに関しても、冥琳は特に心配はしていない。 先の軍議の時、孔明は自分たちを信じると言った。 恐らく、こちらの読みに気が付いているのだろう。 「……これが、今回の作戦の全てだ。成功するかは五分五分だが、我らが勝つにはこれしかない」 冥琳の言葉に皆が頷く。 そこに先ほどまでの迷いはない。 「ふふっ…面白くなってきたじゃない」 雪蓮が獰猛な笑みを浮かべて、腕を組む。 その身体は今にも戦場に向かって飛び出しそうだ。 「最後の大戦…皆、心して掛かれ!」 『御意!』 雪蓮の号令に、皆が応える。 長江の水面は静かに闇を湛え、穏やかに光を反射する。 三国時代、最大にして最後の戦いが今、静かに開戦の時を待っていた。