赤壁は長江の支流漢水沿いにある崖に挟まれた地の事を指す。 巨大な岩石の山と、ほぼ垂直に切り立った崖と崖に挟まれた非常に険しい難所である。 また、地形の関係上、その水位も高く…少しでも風が吹けばたちまち船を飲み込むほどの 大波を立てることもあり、地元の漁民たちですら季節によっては遭難する場所であった。 本来ならこのような所に陣を構える事は兵法の常道からは外れている。 難所と言うべき場所である故に守りやすく攻めやすい地形ではある。だが、それは 自軍の安全が完全に図れている場合のみに通用する論理であり、この場合にはそれに該当しない。 しかし、冥琳と孔明はあえてここを決戦の場として選んだ。 相手は北方の巨人曹操だ。 その軍勢は噂では百万を数えるという。 もちろん、雪蓮たちや劉備たちも自領の全ての兵力をかき集めてはいるだろうが、 それでも動員できるのは良くて二十万といったところである。 これでは通常の平原で行われる野戦では数で押しつぶされてしまう。 故に、寡兵で大軍を撃破するためにあらゆる奇手奇策を打つ必要があった。 その一つとして、冥琳はあえてこの峻厳な地を選んだ。 曹操の人為からして、孫策劉備の両英雄が出陣するとなれば、 こちらの選んだ戦場であえて雌雄を決しようとするだろう。 そして戦略的にも、下手に広大な領地に分散して兵力を削られるより、一大決戦を仕掛け その戦力を完全に駆逐してしまえば、あとは曹操の覇道を阻む障害は消えてなくなる。 皮肉な事に───ここに来て両者の思惑は完全に一致したのだ。 曹操、劉備、孫策…大陸で勝ち残った三英雄が、今その全ての力を持ってぶつかろうとしている。 ただ一つ…どの陣営も『勝利』という大願だけを目指して───。 「孫策様。全ての準備が整いました。……もはや、出陣の時かと」 「……ご苦労様。亞莎」 恭しく進み出た亞莎の言葉に頷き返し、雪蓮はゆっくりと玉座から立ち上がる。 「皆、揃ってるわね?」 雪蓮は玉座の上から眼前に居並ぶ将の顔を見渡す。 冥琳、祭、蓮華、思春、穏、亞莎、明命、小蓮───それに一刀。 皆、幾多の戦場で死線を共に潜って来た…頼もしく愛おしい仲間たちだ。 「はっ。将は全て御前に…。兵たちも城門にて王のお言葉を賜るのを待ちわびております」 「時は満ちたかと。…今こそ出陣の号令を」 「…了解。それじゃ、ちょっと行ってくるわね」 あくまでも軽い調子でそう言うと、雪蓮はゆっくりと城壁に向かって歩き出した。 王としての風格を示すように。 見ている皆の想いを背負うように。 「……」 そんな母の姿を、一刀は憧れと畏怖を込めて見つめていた。 ───いつか、自分もあの横に立てるのだろうか? ぎゅっと、静かに拳を握る。 目指すべきものの姿が、そこにあった。 やがて城壁の目に進み出た雪蓮の姿に、整列していた兵たちが一斉に歓声を上げる。 それをしばらくじっと受け止めていた雪蓮は、手をゆっくりと掲げ、その歓声を抑制した。 「孫呉の勇者たちよ!」 良く通る、澄み渡った声が天に木霊する。 「これより我が軍は赤壁へと進発する。目的は……宿敵曹操の打倒である!」 王者の剣、南海覇王を空へと掲げる。 そして、遠く赤壁を切っ先で指す。 「我らが友が!家族が!仲間が!……全ての民が安心して暮らせる世のために!」 それは孫呉三大の宿願。 先代孫堅よりの悲願。 「その命……我に預けろ!さすれば、我らに恐れるものは何もない!」 「我、孫伯符の名の下に…これより孫呉の大号令を発す!曹操を打ち破り、我らの悲願を今こそ天下に示すのだ!」 「おおおおおおおおおおーーーー!!!」 雪蓮の言葉を受け、兵たち一人一人が天に向かって腕を突き上げ、雄叫びを上げる。 それは城壁を突き抜け───蒼天へと木霊して行った。 雪蓮の号令によっておおいにその士気を上げた呉軍は、劉備軍と合流するため 建業を発ち、赤壁へと進軍を開始した。 「……と、まあ意気揚々と赤壁まで来たのはいいんだけど。流石に少々疲れたわね」 玉座にもたれながら、雪蓮はふうと溜息を吐く。 ここは赤壁の城───時間が無かった事もあり、呉軍は半ば強行軍のような形でここまで 進軍してきた。 「そう愚痴るな。今回はある意味、時間との勝負だからな…少々の強行軍は止むを得んさ」 「冥琳がそういうなら、しぶしぶ納得しておきましょうか。…で、やっぱり船戦?」 「ああ。曹操の大軍と平地でぶつかる気にはなれんからな」 「やっぱり数の問題はついて回るわね…」 「相手より多勢で攻めよ、か。曹操らしい利にかなったやり方だな」 曹操は覇王を自称する勇将であるが、その戦略はつねに正道を歩んでいる。 すなわち、状況が許す限り相手より多勢を持って攻め───それをもって正面から策を打ち砕き、 敵を打ち倒すというどの戦略教本を見ても乗っている基本的な事を実践しているに過ぎない。 だが、それを行う事の難しさは雪蓮も冥琳も良く理解している。 故に覇王。 故に曹操。 この乱世において、大陸一の勢力にのし上がった曹操の強さはそこにあった。 堅実さと大胆さ。そして常に新しいものを柔軟に取り入れ、それを使いこなす思考の早さ。 策を弄する側の軍師として、これほどやり難い相手はいないだろう。 「まあ、まずは劉備と合流してからだな…。迎えは蓮華様と一刀に任せてあるが」 「それで問題ないでしょ。…さ、軍議と行きましょうか」 「ああ」 「さて、この先どうなるかは…まさに天のみぞ知るってとこかしらね」 雪蓮は玉座の間を出て、城門に向かって歩き出した。 この戦に敗北は許されない。 雪蓮は見えない重圧がかつて無く重く圧し掛かってくるのを感じていた。 それから数刻───。 劉備たちと合流した雪蓮たちは、早速軍議に入っていた。 議題はもちろん曹操軍にどう当たるか、なのだが……。 「やはり、相手の数が我らの倍というのは…」 孔明が困った顔で唸る。 現在、曹操軍の攻撃を受けている最前線───江稜からの伝令によれば、曹操軍の数は約四十万。 流石に百万…というのはただの噂であったが、その数が両軍の数を遥かに上回っている事には変わりは無い。 「正面切ってぶつかっても勝ち目はない。何か策を講する必要があるな…」 「一概に策と言っても…何をどうすれば良いのやら、ですねぇ〜…」 思春と明命も頭を捻って考え込んでいるが、どうやら良い方策は浮かばないらしい。 「問題はやはり数ですね。生半可な策では、全て数の暴力の前に粉砕されてしまうでしょうし…」 「だが座して負けるのを待つ訳にも行くまい?さて、どうするか…」 ここまで幾つかは意見が出ているものの、どれも決め手に欠けるものばかりである。 今求められているものは数の優劣を逆転しうる乾坤一擲の策なのだから。 だが───そんなものがそう易々と転がっている訳ではない。 居並ぶ将の誰もが頭を抱え、何とか策を出そうと頭を悩ませていたその時、 「ええいまどろっこしい!そんなもの、乾坤一擲の一撃と共に曹操の軍を粉砕してやればいいんじゃ!」 祭が突然、大声で言った。 「良いか?戦というものでは頭でやるものではない。心と身体でやるもんよ」 それに、とそこで祭は一拍おいて。 その顔に嘲るような笑顔を浮かべながら言い放った。 「戦は我ら武官の仕事じゃ。頭でっかちの文官どもが、ゴチャゴチャと御託を並べて進むもんでもないわい!」 言い終わると、祭は傍らに居る一刀を抱き寄せる。 「坊も分かるじゃろ。あ奴らがどれほど不毛な議論をしているかを!」 「ふ、ふえ?」 「天下に名高い勇将たちが、雁首そろえて策がどうの兵力差がどうの…。貴様らなど、坊の足元にも及ばんわ!」 余りと言えば余りにもな祭の言い分に、両軍の将の視線が厳しく祭と一刀に突き刺さる。 祭はそれを睨み返し…一刀は泣きそうになりながら慌てて顔を伏せた。 「…どうした?反論も出来ぬほど腰が抜けておるのか?」 「控えろ黄蓋!たかが武官風情が、両軍の軍師に対してそのような罵声を浴びせるなど無礼千万!」 それまで黙って聞いていた冥琳が、前に出て祭の腕を掴む。 祭はそれを一瞥すると、何も言わずにそれを振り払い───逆に冥琳に平手打ちを食らわせた。 「…っ!?」 「ふんっ…小娘風情が。少々知恵が回るからと言って、調子に乗る出ないわ!」 「貴様…!そこに直れ!成敗してくれる!」 冥琳が激昂しながら剣を抜き払い、祭の首に突きつける。 一方、祭も腰の剣に手を掛けいつでも抜き放つ用意をしている。 両者、一触触発。 いつ血を見てもおかしくない状況だ。 「ほう…儂を斬るか?やってみろ公謹。出来るものならな」 「やってやるさ!」 「冥琳おねーさまも、祭おねーさまも!お願いだから止めてー!」 間に入った一刀が涙目になりながら必死に止めに入るが、二人は中々剣を納めない。 「下がっていろ一刀!…お前をダシに我らを罵ったこ奴を、私は許してはおけん!」 「はっ!幼子の勇気にでも頼るしかない貴様が何を言うか!」 「だから、もう止めてよぉ!喧嘩しないでぇ!」 そんな一刀の必死の言葉にも今の二人には通じない。 そして、ついに二人が互いに剣を振り降ろそうとした時─── 「そこまでだ!黄蓋、公謹!双方下がれ!」 雪蓮の怒声が二人の動きを止めた。 「冥琳…下がりなさい。これは王としての命令よ」 「しかし伯符…!」 「下がれ…と言ったのが聞こえなかったのかしら周公謹?」 「…御意」 雪蓮に睨まれた冥琳はしぶしぶと言った様子で剣を収めた。 それを確認すると、雪蓮は今度は祭の方に向き直る。 「祭も良いわね?」 「ふんっ…」 「…状況はどうあれ、先ほどの暴言は許されるものではないわ。罰は追って言いつける」 「…御意」 「幼平!黄蓋を縛り上げろ!軍議が終わるまで部隊の天幕に押し込んで置け!」 「ぎょ、御意!」 雪蓮の命令を受けた明命が、慌てて祭の腕を縛り上げ、軍議の外へと連行して行った。 「まったく…我が軍の将は血の気が多くて困るわねぇ。一刀、大丈夫だった?」 「ひっぐ…母様ぁ、祭おねーさまが…」 「よしよし。男の子なんだから、泣いちゃダメよ?」 一刀の頭を優しく撫でながら、雪蓮は笑顔で一刀を慰める。 「さて。それじゃ軍議の続きを…」 「待て、孫策」 一刀を抱きながら立ち上がった雪蓮に、関羽が厳しい眼差しを向けながら言った。 「…はっきりと言わせてもらう。正直、今の貴様らと同盟を組む事に我らは危惧を覚えている」 「兵の士気を削ぐ事甚だし、だな。…呉軍は一枚岩だと聞いていたが?」 趙雲も関羽と同じく、その眼差しを鋭く雪蓮に向けている。 これから共に戦う同盟相手の内輪もめを目の前で見せ付けられたのだ。それも当然と言えるだろう。 だが、雪蓮は涼しい顔をながらそれを受け流すと、 「まあやらせとけばいいんじゃない?それに、これは呉内部の問題。幾ら同盟を組んだからと言って、 そこまで入り込んでこないで欲しいわね?」 さらりと、そう言ってのけた。 「何っ!?」 「ま、そういう訳で…軍議を続ける空気でもないわね。一度ここで解散というのはどうかしら?」 「…分かりました。では行きましょう皆さん」 「朱里!!」 「……信じて、良いんですよね?周喩さん」 「……」 孔明の探るような問いかけに、冥琳は沈黙を持って答える。 それを肯定と取ったのか、それとも否定と取ったのか───孔明は一度だけぺこりと頭を下げると、 不満そうな仲間たちと共に立ち去っていった。 「…で。どうするつもり?私に悪役をさせたんだもの。何か考えてるんでしょうね?」 劉備たちが立ち去ったのを確認した後、雪蓮は悪戯っぽく冥琳に笑いかける。 そんな雪蓮とは裏腹に、先ほどまでの覇気をどこにやってしまったのか…冥琳は沈んだ顔をしていた。 「……何故、と。聞かないのか?」 「聞かない。どうせ教えてくれないんでしょ?それに…あなたたち二人が私の不利になるようなこと、する訳ないもの」 雪蓮は絶対の確信を持ってそう答えた。 そこには一切の疑問も不安もない。 「……」 でもまあ、と。未だ沈黙する冥琳構わず、雪蓮は抱いている一刀の頭を撫でながら続ける。 「せめて一刀には少しぐらい説明すること。…ほら、お鼻チーンしなさい」 「ふえ…」 未だにぐずっている一刀をあやしながら、雪蓮は冥琳を見る。 冥琳は暫く迷っていた様だが…やがて諦めた様に溜息を吐いた。 「分かった…。後で私の天幕に連れてきてくれ」 そしてその夜───。 一刀は護衛の恋と共に、冥琳の天幕を訪れた。 「ん……一刀か?」 そう言って出迎えた冥琳の顔色は悪い。 昼間の一件の疲労のためか。それともまだ風邪が治っていないのか。 一刀には分からなかったが、冥琳のそんな顔を見ると、胸にモヤモヤとした嫌なものが こみ上げてくるのを感じていた。 「だいじょうぶ…?お顔、真っ青だよ?」 「ふっ…心配はいらん。それより…昼間はすまなかった」 そう言いながら、冥琳はしゃがんで一刀を抱きしめた。 「お前に剣を突きつけるなど…母親代わり失格だな」 「にゅー…ぼ、僕は平気だよ?」 「ふふっ…そうか。本当に良い子だな、一刀は」 冥琳は一刀を愛しそうに撫でながら、髪にキスを繰り返しながら顔を埋める。 「曹操との決戦が終われば世も少しは平和になるだろう。そうすれば───」 一刀のような幼子が戦場に立つ必要も無くなる。 天の御遣いとしてでは無く、ただの一人の子どもとして───幸せになれる世がきっとくるだろう。 それが今まで一刀を利用してきた自分達に出来る償いだと、冥琳は考えていた。 「…なあ、一刀。この世界は好きか?」 「ふえ?」 「もしお前が好きだと言ってくれるなら…私には、それが一番の幸せだ」 「僕…好きだよ?母様も、冥琳おねーさまも、祭おねーさまも…皆…だから…」 「分かってるさ。祭殿も私も、本気で喧嘩をした訳じゃない。安心しろ、私たちは…いつも一緒だ」 「うん…」 一刀が冥琳にぎゅっと抱きつく。 その感触を。 その温もりを。 冥琳は静かに感じる。 これを守るためになら、自分は最後の命の炎を燃やす事が出来る。 例え病に倒れ、命尽きようとも───この温もりだけは守りたいと、そう思えるから。 「た、大変です!」 そこに、息を切らせて兵が駆け込んで来る。 「こ、黄蓋殿がご自分の部隊を率いて陣地を脱走いたしました!」 「くっ…!すぐに追ってを出せ!私もすぐ行く!」 「はっ!」 冥琳はもう一度だけ一刀の額にキスをすると立ち上がる。 その目にもはや、弱さや迷いはない。 「……この一世一代の大芝居。周公謹、見事演じ切って見せよう……!」 時は三国時代───ついに結末に向けて全てが動き出す。 その先に待つものは何か……それは誰にも分からない。