北方の巨人───曹孟徳。 ここ数年で大陸一の兵力と国力を持つに到った、まさに『覇王』の名に相応しい人物である。 その性は苛烈にして高貴。 己が誇りとその手腕を持ってして天下を治めようとその野心を翳す英雄。 ある人々はそんな彼女を日輪に例えるという。 すなわち───天を支える偉大なものと。 そして、その牙は大陸の二大英傑を飲み込もうと、今その顎を大きく広げていた。 「ふふっ…」 平原に広がる己が大軍を率いて、曹操が不敵に笑う。 目の前には劉備軍と呉の軍勢───大陸で覇を争う好敵手の軍勢がそこに居る。 「楽しそうですね」 「いよいよ英雄たちとの戦いが始まる。……これが楽しくなくて何が楽しいと言うの?」 「確かに。愚問でしたな」 それを聞いて夏候淵が苦笑しながら頷いた。 「腕がなりますね!ふっ……待っていろ孫策!」 その横で夏候惇も荒い鼻息を吐く。 夏候惇と夏候淵の姉妹は、以前の呉との戦で孫策に手傷を負わされている。 武人として、その借りを返す良い機会とあって、その戦意はこれまでになく高まっていた。 「ええ。でもまずは劉備。それから孫策を屈服させ、この私が天下を統一して見せましょう」 曹操が引き連れてきた軍勢はその数にして百万……これはこの戦場に居る劉備、孫策の両軍を合わせた数のほぼ十倍にあたる。 孫子の軍略の例を挙げるまでも無く、数は力なのだから。 錬度の問題もあるが、百万人が十万人に負ける事はまず有り得ない。 だが、相手は天下の小覇王孫策と徐州の雄劉備だ。そう易々と勝たせてはくれないだろう。 故に、曹操は全力で出撃して来た。そこに油断も慢心もない。 ただ、英雄同士の全力の戦いを楽しむために。 そして己が野望の成就のために。 そのために、覇王曹操はここに居るのだから。 「桂花!」 曹操が側近の軍師である荀ケに問う。 「前の孫策との戦いのような、無様な事はないでしょうね?」 「御意。全ての兵に正々堂々と戦うように徹底して調練しております」 「ならば良し。……誰に批難される事も無く、正々堂々と戦い、勝利してこそ我が覇道。 皆も十分承知しておきなさい」 『はっ!』 「さあ…戦いを始めましょう」 眼前には討ち倒す敵が居る。 その先にある栄光も。 曹操は己の心が躍るのを静かに感じていた。 同じ頃、呉軍の本陣では、突然の報告に将兵が色めき立っていた。 「曹操…ついに動いたわね」 雪蓮が眉を顰めながら呟く。 いつかは来るものと思っていたが、まさかこれほど早く動いてくるとは呉軍の誰も予想していなかった。 「ああ。もう少し静観していてくれると思っていたが…どうやら予測が甘すぎたようね」 冥琳の見立てでは、曹操はこの戦いを静観してくれるはずだった。 何故なら、呉を叩くなら劉備との戦いで疲弊したところを潰すのが好機だからだ。 戦の後はどうしてもその後処理に追われる事になる。そこを曹操は突いて来るだろうというのが大方の予想であった。 だからこそ呉軍は素早く劉備を撃破する必要があったのだし、そのための戦略は立てていた。 だが─── 「ここで雌雄を決するつもりだな、曹操は」 「誇り高き曹操の人となりらしい…か。で、どうする?このまま劉備を撃破して曹操と戦う?」 「無理だな。今の我が軍にそんな余力はない」 雪蓮の提案を冥琳は即座に否定した。 劉備との戦闘で受けた損害も少なくはない。このまま無傷の曹操軍と当たるのは自殺行為である。 それに、と。冥琳は続ける。 「一番怖いのは我々が孤立する事だ。…そうなれば、我々は滅ぶしかなくなる」 このまま戦闘を続ければ、劉備軍は自軍を守るために曹操と手を組もうとするはず。 またその状況になった場合、上手くこの戦場から撤退出来ても、その後に劉備と曹操の両勢力に 呉の領土が包囲される事になる。それは絶対に避けなければならない事態だ。 故に、呉軍が取れる選択肢は一つしかない。 「劉備と停戦すべきだろうな。そして改めて同盟を結んで、曹操に当たる」 「でも相手がそれを受け入れるかしら?」 雪蓮が怪訝そうに問う。 劉備はこちらとの同盟を一度破棄している。 当然、こちらから同盟を持ちかけても破談となる可能性は高い。 「説き伏せて見せるさ。……この命に代えても」 「……分かった。冥琳に任せるわ」 「ああ。…それと、一刀を貸してくれ」 「一刀を?」 雪蓮が不思議そうに首を傾げた時、 「母様!曹操さんが来てるって、今…」 丁度、前線から本陣に帰ってきたらしい一刀が駆け込んで来た。 「どどど、どうしよう!…って、ふえ?」 と。 一刀はそこで周囲から向けられている視線に気付く。 「え、えと…あの…?」 「はいはい。まあ、とりあえず一刀も無事に帰ってきた事だし。いろいろとやる事はあるけど」 そう言うと、雪蓮はにっこり笑いながら一刀の後ろに回りこみ、その身体を抱き上げる。 「まずは母親としてちゃんとやる事はやらないといけないから、ちょっと待っててね♪」 雪蓮は傍らにいる幕僚たちに言うと、一刀のズボンを脱がし、お尻を出した。 「え?へ?か、母様?な、何でおズボンを脱がすの!?」 「ちょっと痛いけど…まあ痛くないとお仕置きにならないし♪」 「お、お仕置き!?ぼ、僕何か悪い事…ひゃああ!」 その後───呉軍の天幕にしばらく一刀のお尻を叩く音が響いたという。 「うう…ひりひりする…」 「大丈夫か?ふふっ…雪蓮のあれは容赦ないからな」 お尻を気にしながら言う一刀に、冥琳がおかしそうに笑う。 今、二人は劉備軍への使者としてその本陣に馬を走らせていた。 「でもでも、僕なんかが行って大丈夫なの?」 揺れる馬上で、一刀は不思議そうに冥琳に問いかけた。 「ん?ああそうか。そう言えば言ってなかったな。…お前には和睦の立会人になって貰う」 「たちあいにん?」 「そうだ。天の御遣いという虚名を利用して、この同盟が天から認められたものだという事を 示すためのな」 冥琳は更に馬に鞭を入れながら言った。 両軍は先ほどまで殺し合いをしていた者同士だ。そして、過去に同盟を破棄した記憶も新しい。 雪蓮が言うまでも無く、劉備たちが受け入れる可能性は低い。 だがそこに天の御遣いという存在を入れれば話は変わってくる。 天という存在は大陸において唯一絶対なものであると信じられている。 その御遣いが平和と同盟を望んでいる───そうなれば劉備とて無碍には出来ないだろう。 (もっとも…それでも相手が拒めばそれまでだがな) 冥琳は少し後方から付いてくる一騎を見る。 そこに居るのは恋だ。万が一の時のための護衛として、一刀だけは絶対に守るようにと言ってある。 「この同盟…成立するかは天のみぞ知るか…」 劉備軍の本陣が見えてくる。 そこに居並ぶのは関羽、張飛などの武将、そして───劉備がいた。 「呉軍が将、周喩が告げる!我が王孫策の命を受け、使者に参った!速やかに会談に応じられたい!」 「同盟…ですか?」 「そうだ。我らの生き残る道はそれしかない」 冥琳の提案に、劉備軍の将たちが驚く。 「貴様たちから戦を仕掛けておいて、今更和睦などと……どの口が言うのだ!」 関羽が冥琳に食って掛かる。 だが、冥琳はそれを平然とした顔で受け流した。 「他領を侵略し、自国の領土を拡大していくことは天下統一を志す者にとっては当然のこと。 ……そして、状況によって和睦を申し出る事もまた然りだ」 「曹操か…」 趙雲の言葉に冥琳が深く頷いた。 現在、大陸に残っている英雄と言えば、孫策、劉備…そして曹操の三人しかいない。 その三者の内、現状で曹操の力が大きすぎる。 劉備、孫策のどちらが単独で当たっても各個撃破されるだけだ。 だが、その二国が共同してあたればどうか? 互角───とまではいかないものの、その兵力差はかなり縮まるだろう。 「…冷静になって考えて見ろ。仮に曹操に降ったとして───お前達の主の理想が今、 叶わぬ夢になりかけているのだよ」 「…その確証はどこにもあるまい?曹操が桃香様の夢を潰すというな」 「ほお…では問おう。貴様は曹操に付いた方が良いと思うのか?」 「……」 冥琳に問い返された趙雲が押し黙る。 それは肯定の意において他ならない。 「…お前はどうなのだ?諸葛孔明」 そこで冥琳は孔明に問う。 孔明は少し考えると、諦めた様に首を振った。 「……残念ながら、周喩さんの言った通りになるでしょうね」 曹操は覇者を自称する英雄だ。 そこに他者の意志が入る余地はない。もちろん、『意見』としては容れるだろうが─── 劉備が目指すものとは異なったものになるだろう。 ───それでは理想の意味そのものが無くなってしまう。 「だが、私たちは違う。我らが望むのは呉の民の平穏と平和……そして、それは我らが 手を取り合えば可能であると私は信じている」 「…それは、大陸を二分に分けるという事ですか?」 「そうだ。孔明、お主も一度は考えた事があるだろう?」 天下二分の計───これこそ、冥琳がこの交渉において切り札として用意した策であった。 それぞれが不干渉と貫き、善政を敷くなら無理に天下を統一する必要性は無い。 「もう一度言うが、私たちが望むのは呉の平和と繁栄…それが我が王、孫策の望みであり願いだ」 冥琳は念を押すようにもう一度繰り返した。 しばらく、沈黙が続く。 「……力の無い人々が笑顔で暮らせる世の中を作る。それが呉と協力する事で生まれるなら…」 どのくらい続いたか。 暫くして劉備は一度目を閉じてからにっこりと笑うと、 「分かりました。私は呉の皆さんを信じます。だから…協力して曹操さんを倒しちゃいましょう!」 「決まり…だな。では、この同盟の締結に、立会い人を付けたいのだが、良いか?」 「立会い人、ですか?」 「ああ。…一刀!」 冥琳は少し離れた場所に立っていた一刀を呼ぶ。 呼ばれた一刀は、小走りで冥琳の傍に駆け寄ってきた。 「お話、終わったの?」 「ああ。あとはお前の出番だ」 冥琳は一刀に微笑みかけると、周囲にいる劉備の将たちに言った。 「ここにいるのは天の御遣い───。天がもたらしたこの戦乱を収める希望だ」 「で、劉備との同盟は上手くいったの?」 「ああ。さすがに曹操という巨大な壁に一人で立ち向かうほど愚かではない…と言ったところね」 呉の陣中に帰ってきた冥琳は、雪蓮の前で報告をしていた。 成果は上々。劉備たちは同盟を受け入れてくれた。 「それは重畳…。それで、どうやって曹操と当たるつもり?」 「大軍を相手にするには平原では分が悪い。そこで…赤壁に曹操を呼び込む事にした」 赤壁は長江に面した土地である。 鳥林と夏口の間にあり、険しい狭峡に挟まれた土地で、まともな交通手段としては 長江を利用した船しかないという土地だ。 冥琳はそこに曹操を誘い込むつもりであった。 「曹操軍は船戦には慣れていないからな。勝つにはこの方法しかない」 何せ相手は百万と号する軍勢である。まともにぶつかってはひとたまりも無い。 ならばその兵力差は奇策を持って埋めるしかないのだ。 「ふうん…。ま、冥琳がそういうなら信じるわ」 雪蓮はあっさりと言った。 「なら、一度建業に退いて…猶予は一週間でとこかしら?」 「そうね。その間に態勢を整えてなくてはならないわ」 「了解。なら建業には早馬を出して兵を揃えさせましょう。私たちは戻って一日休息を取った後、 改めて赤壁に出陣するわ」 『御意!』 「それじゃ、早速…って、あら?」 と、そこで雪蓮はある事に気付いた。 いつも傍にいる小さな影が居ないのである。 「そういえば、一刀はどうしたの?」 「ん?ああ、一刀なら…その…」 言いよどむ冥琳に、雪蓮は怪訝な表情で問う。 「何…まさか、怪我したりとかしてないでしょうね?」 「そういう訳ではないんだけど…。ずいぶんと向こうの武将に可愛がられたみたいだな」 冥琳はそう言うと、苦笑しながら雪蓮に事の顛末を話しだした。 『うわー!君、可愛い♪お名前は?』 『ふ、ふえ!?ほ、ほんごうかずとです…』 『かずとくんか〜。ねぇねぇ…私たちどこかで会わなかった?』 『り、劉備さんとはしすいかんのときに…』 『えへへ…ちゃんと覚えててくれたんだねー♪うれしい♪』 『ふあ…く、くるひい…』 『桃香様!いい加減にして下さい!』 『えー?だってほら、この子ぷにぷにしててすっごく可愛いんだよ?』 『そ、そうなのですか…?』 『うん!ほらほら、愛紗ちゃんも…』 『で、では少しだけ…』 『にゃー!?』 『あ!ずりーぞ!私もー!』 「と、言った具合にな…」 「ぷっ…。あはははははは!そ、そりゃあ災難だったわねー♪」 冥琳の話を聞いた雪蓮が腹を抱えながら笑う。 「まあ、そのせいか少し疲れたようでな。大事を取って天幕で休ませている」 「うんうん。さっすが我が息子!」 雪蓮はまた可笑そうに笑いながら言った。 一刀の事だ。されるがままに存分にいじられたのだろう。 「それにしても…不思議な子だな。あれは人を和ませる何かを持っている」 「ふふっ…案外、あの子ったら私なんか超えちゃう英雄になるんじゃないかしら?」 「かもな。…いや、それぐらいになって貰わないと困るわ」 「随分と自信があるのね?」 「当たり前よ。お前と私が育ててるんだ。…私たちぐらいは超えてもらわないと」 そう言って、冥琳も笑う。 それは優しい───母としての笑みだった。 「そうね。それじゃ…母親二人、可愛い息子のために頑張って勝たなくちゃね」 「ああ。……負ける訳にはいかんからな」 こうして───決戦の場所は決まった。 赤壁の戦い。 後に、三国志一の激戦と言われる戦は近い。 時は三国時代───ついに英雄達が集う時が来る。 その先に何があるのか……それは誰にも分からない。